<OBサイト記事再掲>虚無僧と楠木氏
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2019年 06月 16日
※OBサイト「れきけん・とらっしゅばすけっと」で掲載していた記事です。当該サイト消滅に伴い、最低限の修正を経て本ブログにて再掲載いたします。 はじめに 天蓋笠をかぶり尺八を吹く姿で知られる虚無僧。その歴史的起源に楠木氏が関係しているという伝承があるようです。今回はそれについて述べます。 「ぼろぼろ」 まず、虚無僧の前身という話もある「ぼろぼろ」について述べる事にします。「ぼろぼろ」は鎌倉末期に多く見られるようになった遊行者の事で、「梵論字」とも呼ばれます。その実態については、梵字について解説し説教を行いながら遊行する事で生計を立てる芸能宗教者だったと推測されています。 『徒然草』にも「ぼろぼろ」が登場しますが、そこでは彼らは集団で念仏を唱え命を軽んじて刃傷沙汰をしばしばおこすが名誉や主従の絆を重んじる存在とされています。勿論美化されているのでしょうが、「ぼろぼろ」には彼等自身の美学・価値観が存在した事が伺えます。一方『七一番職人歌合』からは「ぼろぼろ」が念仏修行者と共に諸国を遊行していた事がわかっています。 謎は多い存在ですが、嘗ては小領主であった者もあるともされ、『虚無僧の謎 吹禅の心』によれば真偽不明ながら鎌倉の名門・三浦氏が北条氏により没落させられた際には家臣の戸部氏が一時期こうした遊行の身として過ごしたという話も伝えられているのだそうで。「ぼろぼろ」には主君を失った浪人も多く含まれていたのかもしれません。 彼等遊行者は、各地の地方豪族たちにより治安を紊乱すると見做され取り締まられる事も往々にあり、彼等が集団で行動していたのはそうした迫害から自衛する為でもあったという解釈もあります。 その「ぼろぼろ」の有り様が変貌したのかどうなのか、禅宗や中国文化が取り入れられた「虚無僧」の原型が出来たのが14世紀末頃の事でした。そして、それに楠木氏が絡んでいるという伝承があるのです。 楠木正勝 南朝後期を軍事的に支えた楠木正儀(正成の子、正行の弟)の子に、正勝という人物がいると伝えられます。一説に拠れば、彼は南朝が足利政権に屈服した後も足利への抵抗を続け、義満に反旗を翻した大内義弘の軍にも参加して戦ったものの敗れて逃れたとされています。ただし『応永記』には、大内方に参戦した楠木氏の人物名は明らかでないようです。 その正勝、『虚鐸伝記』なる書物によれば近江で虚風なる人物から尺八を学び諸国を回遊したというのです。それが、天蓋を被り尺八を吹く現在の虚無僧形式の祖とされているらしいのです。更に筑波山の虚無僧寺・古通寺に正勝がきてそこで没した伝説もあるそうで。 しかし話が出来すぎている感はありますし、天蓋が出来たのは徳川期の事だと言われていますから残念ながらこの話自体は後世の作為と思われます。事実、『異説日本史』はこの伝承を「滑稽」(本多辰次郎・花見朔巳監修『異説日本史 第十六巻 宗教思想篇 上』雄山閣 164頁)とまで評しています。ただまあ、楠木氏に絡められたのはなぜか、については興味がひかれますね。 なお、正勝は後に出家して曹洞宗の傑僧・傑堂能勝となったという説もあるようです。ただし、藤田精一『楠氏研究』は正勝を始めとする楠木正儀の子たちは「正史的確に所伝なし」(藤田精一『楠氏研究』廣島積善館 443頁)であり「実は右三人の実在すら慥かにに認むる能はざるが如し」(同書 同頁)と評価しています。まあ、そうでしょうね、残念ながら。ただまあ、正勝が実在したなら生きていたであろう時期と尺八が広まった時代は一致しているようです。虚無僧と結びつけられたのは、その辺りも理由かもしれません。 天蓋についても好意的に解釈するなら、『峰相記』における播磨国の「悪党」に関する記述に「異類異形ナルアリサマ人倫ニ異ナリ柿帷六法笠ヲ着テ」「人面ヲ合セス忍タル体」(『続史籍集覧 第一冊』近藤出版部 405頁)とあるのを連想させなくもありません。天蓋云々はともかく、正勝は敗者の残党というべき存在でしたから素顔を隠して隠密行動をしたとしても不思議はありません。そうした伝承があったのが、やがては天蓋に発展したと解釈する余地は絶無ではないでしょう。妄想を膨らませて最大限に好意的な解釈をすれば、の話ではありますが。 虚無僧と南朝 他にも。『虚無僧の謎 吹禅の心』は虚無僧寺に関して、楠木氏だけでなく南朝そのものとの因縁を示唆するような伝承について述べています。例えば、深谷の虚無僧寺・福正寺は長慶天皇が令山峻翁に命じて開かせた国済寺を移転したものだという話もあるとか。そしてやはり虚無僧寺である興国寺も南朝皇族の帰依したという伝承があるそうです。更に青梅の鈴法寺建立を懇請した吉野織部之助は楠木氏の末裔という話があるようです。 こうした南朝系統の伝承が多い一方で、前述の興国寺の近くに明徳の乱で敗れた山名氏の旧臣が聖となって住み着いたという話も残っているんだとか。この時期の南朝と山名氏、どちらも政治的敗者といってよい存在ですね。そういえば「ぼろぼろ」にも失脚した武士が多く流れ込んでいたという話がありました。それと同じ文脈で考えればこの時期に南朝関係者が虚無僧と因縁があるのも理解できなくもありません。 この時期、足利方・南朝とも大陸からの新文化である禅宗を取り入れるようになっていました。そして禅宗とともに様々な新奇な文物が流入しており、尺八もその一つだったそうです。14世紀末から15世紀初頭にかけて急速に流入し、新たな宗教芸能として尺八が採用され普化尺八が禅の修業として広がっていきました。そして、この時期において「ぼろぼろ」の流れを変えるほどに多数で新規参入してもおかしくない政治的敗北者といえば旧南朝勢力が一番それらしい気はします。 こうした伝承をどこまで信じられるかは正直微妙ですが、虚無僧が南朝にシンパシーを寄せ、権威付けも兼ねて彼らを自分たちのルーツとして語り継いだ可能性は考えられなくもありません。 【参考文献】 『虚鐸伝記』楽文堂 本多辰次郎・花見朔巳監修『異説日本史 第十六巻 宗教思想篇 上』雄山閣 『楠公研究の栞』軍事史学会 中島聖山『尺八 知識と奏法』ぎょうせい 岡田冨士雄『虚無僧の謎 吹禅の心』秋田文化出版 西尾実・安良岡康作校注『新訂徒然草』岩波文庫 『続史籍集覧 第一冊』近藤出版部 藤田精一『楠氏研究』廣島積善館 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ロゴヴィスタ 関連記事:
by trushbasket
| 2019-06-16 13:32
| NF
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