<OBサイト記事再掲>【現代語訳】本居宣長『安波禮弁・紫文訳解』 翻訳:NF
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2019年 06月 30日
※OBサイト「れきけん・とらっしゅばすけっと」で掲載していた記事です。当該サイト消滅に伴い、最低限の修正を経て本ブログにて再掲載いたします。 はじめに 『安波禮弁』『紫文訳解』は宝暦八年(1758)に起稿された、宣長の比較的初期の作品です。『安波禮弁』は「物のあはれ」という語の用例を古典から挙げて意味について考察したものです。同時期に書かれたと思われる『紫文訳解』は、源氏物語に出てくる古語の意味について考察したもので、共に宣長の学問における出発点と言えます。今回は、これらを現代語訳していきたいと思います。できるだけ逐語訳するようにしています(意味が通らないところだけ意訳)ので、日本語としては悪文かもしれません。また、現代から見れば不適当な表現や内容もあるかもしれませんが、あえて原文を尊重してそのままに訳してあります。御了承下さい。 『安波禮弁』 ある人が、私に質問して言うことには、「俊成卿の歌に、 恋せずは 人は心も無からまし 物のあはれも 是よりぞしる と申します。この『あはれ』というのは、どのような意味でございましょう。『物のあはれ』を知ることが、即ち『人の心がある』ということ。『物のあはれ』を知らない事が、即ち『人の心がない』ということなので、人としての情の有無は、ただ『物のあはれ』を知るか知らないかでございますので、この『あはれ』は、いつでもただ『あはれ』であるとだけ合点したままでは、どうしようもないのではないでしょうか。」 私は心の中では判っているように思っていたが、すぐに答えられる言葉がない。少し考えをめぐらせてみると、ますます「あはれ」という言葉には、意味が深いように思われ、「一言二言で、簡単に答えられるはずのものでないので、追って答えるつもりだ。」と返事をした。 さてその人が去ったあとに、じっくりと考えめぐらすにしたがって、ますます「あはれ」の言葉は、単純に考えてよい事ではなく、古書や古歌などに使っている様子を、ぽつりぽつりと考えてみると、大体においてその言葉の意味は多く、一通りや二通りの意味で使用するだけではない。そうして、あれこれと古書を考察しながら見て、いっそう深く考えてみると、大体において歌の道は「あはれ」の一言以外に他の意味はない。神代から今に至って、末世とこしえに至るまで、詠み出される和歌はみな、「あはれ」の一言に帰す。したがってこの歌の道の極意を尋ねるならば、これまた「あはれ」の一言より他にない。『伊勢物語』『源氏物語』やその他あらゆる物語すらも、またその根本を尋ねるならば、「あはれ」の一言でこれを全て表す事が出来る。孔子が詩三百一言を『詩経』としてまとめ「この詩にある思いに邪な心がない。」と仰るのも、今ここに考え合わせれば、似たような事である。全て和歌は、「物のあはれ」を知ることから始まるものである。『伊勢物語』『源氏物語』などの物語も皆、「物のあはれ」を書き表して、読む人に「物のあはれ」を知らせるものであると知るべきである。これ以外に歌・物語の意味合いはない。さて「あはれ」というのは、どのような意味であるかということになれば、以下に詳細に記すのを見なさい。 <この歌は、『長秋詠藻』(藤原俊成の家集)の中に、左大将の家で歌合をするので、歌を追加すべき事情があったときの歌で、恋の歌、として掲載されている。この歌の意味は、「物のあはれ」を知っているので、人の心はあるものであって、その「物のあはれ」も、何によって知るのかといえば、恋により知るものであるから、恋をしなければ、「物のあはれ」を知ることはないだろうから、人の心はないであろうという意味である。恋は人の感情の中で第一に「あはれ」が関係するものである。> ○『源氏物語』澪標巻に、「『あはれ』と長々と独り言を仰るのを云々」とある。これで判るであろう、「あはれ」は嘆息の声である。また、玉葛(玉鬘)巻にも、「『あはれ』とそのまま独り言を仰って云々」とある。 ○「波也(はや)」という言葉は、語の終わりに(その後自体の意味はない)補助の文字のように置く言葉であるが、これも嘆息を表す言葉である。「猗」の字は中国風の読みで、「猗(ああ)」と読ませて、嘆息を意味する言葉に常に用いる。『詩経』などに多い。また、『詩経』魏風伐檀に「河水清且漣猗(河水清くして且つ漣を)」と「猗」の字を補助的な文字として置いている。『朱註』に「猗と兮は同じで、語詞である」とある。『書経』に「断々猗」とあり、『大学』に「作兮」とある。『荘子』にもまた、「而我猶為人猗是也(而して我猶ほ人為る、是也)」とある。これらの「猗」の字は、我が国の「はや」という言葉を(直接の意味を持たない)補助の文字のようにしているのに似ている。『詩経』小雅小弁に、「仮寐永嘆(仮りに寐して永く嘆く)」とある、「永嘆」とは、「『あはれ』と長々と独り言を仰る」と『源氏物語』にあるのと、同じ事である。 ○「妍哉」、これは「阿那而恵夜(あなにゑや)」と言っている。【『日本書紀』神代上】これは「鞍奈珥夜(あなにゑや)」とも言っている。【『日本書紀』神武紀】 ○「大醜」、これは「鞍奈瀰?句(あなみにく)」と言う。【神武紀】 ○「慨哉」、これは「于黎多棄伽夜(うれたきかや)」と言う。【神武紀】 ○『貫之集』の恋歌で、あはれてふことにしるしはなけれともいはてはえこそあらぬものなれ、とある。 ○景行紀【十八丁】に「吾嬬者耶(あかつまはや)」、『古事記』には「阿豆麻波夜(あつまはや)」とある。允恭紀にある「宇泥咩巴椰彌々巴椰」の「巴椰」も同じ(「はや」)である。 ○顕宗紀で「哉」を「柯侫(かね)」と読んでいる。【七丁】 ○仁賢紀で「弱草吾夫'?可'怜矣、吾夫'?可'怜矣」とあり、これは「阿我圖摩播耶(わかつまはや)」と読む。 ○皇極紀で「咄嗟(あや)」とある。 ○『旧事紀』第二に、「天照大神、天洞戸従り出で坐すの時に、高天原及び葦原中国、自ら照り明ることを得たり矣。斯の時に當て、天初めて晴る。『阿波禮(あはれ)【意味は天(あめ)晴るるである】、阿那於茂斯侶(あなおもしろ)【古語では物事が甚だしく切実な様子を、皆「阿那」という。皆の面(おもて)明白(しろし)と言っている。】、阿那陀能斯(あなたのし)【言うところの意味は、手を伸ばして舞う、今楽しむ事を指して、之を太乃之(たのし)と言う、その意味である。】、阿那佐夜憩(あなさやけ)【竹の葉の音である。】、飫憩(をけ)【木の名であろうか、その葉を振る音の調べである】』と謂ふ。爾して乃ち二神共に請(まう)して曰く、『復た勿還幸矣(かへりましそ)』。」とある。 ○『古語拾遺』に、「時に于て天照大神、中心(みこころ)に独り謂(おぼさ)く、『比のころ幽(こも)り居り、天の下悉に闇(くら)からん、群神(もろかんたち)何の由(ゆへ)に如此(かく)歌楽(えらき)するや』とのたまひて、聊か戸を開けて窺之(みそなはす)。爰に天の手力雄の神をして、其の扉を引き啓け、新殿(にいみや)に遷り坐(ま)さ令む、云々。此之時に當て、上天(あめ)初めて晴れ、衆(もろもろ)倶に相ひ見て、面(おもて)皆明白(しろし)、手を伸へて歌ひ舞ひ、相与に称(とな)へて曰く、『阿波禮(あはれ)【意味は天(あめ)晴るるである】、阿那於茂志呂(あなおもしろ)【古語では物事が甚だしく切実な様子を、皆「阿那」という。皆の面(おもて)明白(しろし)と言っている。】、阿那多能志(あなたのし)【言うところの意味は、手を伸ばして舞う、今楽しむ事を指して、之を多能志(たのし)と言う、その意味である。】、阿那佐夜憩(あなさやけ)【竹の葉の音である。】、飫憩(をけ)【木の名である。その葉を振る音の調べである】』爾して乃ち二神共に請(まう)して曰く、『復た勿還幸(かへりましそ)』。」とある。 私が思うに、右の『旧事紀』、『古語拾遺』、共に同じ事を記して、文もまた相互に同じである。「あはれ」という言葉は、これが最初と思われる。さて「あはれ」という言葉の意味は、天晴(あめはれ)という事が由緒である。さて右の文を考えてみると、「阿那」という言葉は、元来物事が甚だしく切実である時に言う言葉であり、この時以前から言われている言葉のようである。さて「あはれ」「おもしろ」「さやけ」「たのし」「をけ」などという言葉は、この時から言い始められたのである。この時、天が晴れたのを「あはれ」と言い、人の顔面が明白に見えるのを「おもしろ」と言い、手を伸ばして舞うのを「たのし」(手伸し)と言い、飫憩の木の葉が鳴る音を「をけ」と言う。これらは皆、その時の事を言い表す言葉であり、それが即ちその時の心情を言い表す言葉となったのである。右で挙げられた言葉はいずれも皆喜ぶ事を意味する。天照大神が天窟にお入りになり、天上天下が一斉に常に暗闇となり、神々が深く嘆き心配する時に、ようやっと岩戸からお出でになり、初めて天が晴れ、人の顔面も明白に見えたであろう時の心情は、さぞかし嬉しく喜ばしかったであろう。したがって右に挙げた言葉は、いずれも後世の今に至るまで、皆喜ばしい事に用いるのである。「面白し」「楽し」「さやけき」などである。「をけ」という言葉は他に使用したのを見たことがない。さて「あはれ」の言葉一つだけが、後世に至って、用法が段々と変化してきた。以下に記すように、まずこの「あはれ」という言葉は、ただ「天が晴れた」と喜びに思って言う言葉なので、その時の神々の心情になって考えるべきである。初めて天が明るく晴れて、夜が明けたかのような時に、これを見て、「天は晴れたのだなあ」と、嬉しく喜びの余りに、感慨を言葉に出したものである。従って次の言葉で皆「阿那」という、物事が甚だしく切実である事を意味する言葉を使って、心の嬉しさ喜ばしさが深く切実である様子を表したのである。この「あはれ」という言葉は、下の「をけ」という所までかかっているのである。天は晴れたなあ、ああ面白い、ああたのしい、ああさやけき、と言ったような感じである。 <「飫憩(をけ)」と言ったのは、上の文に「竹の葉飫憩の木の葉を以て手草と為し、」という一文があるためである。「旧事紀」にはこの文は見えず、さてここに不審な事がある。竹の葉を振れば、さやさやとなるために、「さやけ」というのである。この「をけ」は、その葉を振る音色が「をけ」というために、「をけ」というのであろうが、木の葉を振って「をけ」という音が出ることが、不審である。ただしここで「をけ」というのは、その木の名前を直接に言うものであったのを、註で葉を振る音と言っているのが誤りなのであろうか、なお考察の余地がある。> ○後世に、「あつはれ(あっぱれ)」という言葉に対して、この「天晴」という字を用いる。これも似ているように思われる。さて「あつはれ」という言葉も、「あはれ」というのを、強調して言おうとして言い縮めた言葉である。歌にも、通常の「あはれ」の他に、俗に言う「あつはれ(あっぱれ)」の意味に用いている「あはれ」がある。なお次以下に詳しく記す。 ○一條禅閤(一条兼良、足利義政時代の関白。当時第一の教養人。)は、「飫憩(をけ)は坂樹(さかき、榊)である」と言っている。 ○『古事記』下では、「故(こ)れ追ひ到るの時待ち懐ふて歌(うたよみ)して曰く『許母理久能(こもりくの) 波都世能夜麻能(はつせのやまの) 意富袁爾波(をほをには) 波多波理陀弖(はたはりたて) 佐袁袁爾波(さををには) 波多波理陀弖(はたはりたて) 意富袁爾斯(をほをにし) 那加佐陀売流(なかさためる) 淤母比豆麻阿波禮(おもひつまあはれ) 都久由美能(つくゆみの) 許夜流許夜理母(こやるこやりも) 阿豆佐由美(あつさゆみ) 多弖理多弖理母(たてりたてりも) 能知母登理美流(のちもとりみる) 意母比豆麻阿波禮(おもひつまあはれ)』と。」とある。この歌は、允恭天皇の皇子・木梨之軽太子が、伊余湯に流されなさる時に、軽大郎女が太子を恋い慕って後から追いつきなさるのを待って、軽太子がお詠みになった歌である。 また、同じく『古事記』下で、「上坐(のほります)の宮に還りの時、其の山の坂の上に行き立ち、歌に曰く『久佐加弁能(くさかべの) 許知能夜麻登(こちのやまと)云々 能知母久美泥牟(のちもくみねむ) 曾能淤母比豆麻阿波禮(そのおもひつまあはれ)』と。」とある。この歌は、雄略天皇が若日下部王(かわくさかへのひめみこ)に賜った御歌である。 ○右三つの「あはれ」は、いずれも今の世にまで歌に詠む「あはれ」と同じ意味で、哀れみを請う意味合いである。 ○『日本書紀』景行紀では、「便(すなは)ち伊勢に移て尾津に到りたまふ。昔(さきに)日本武尊東に向ふの歳、尾津の濱に停て進食(すすみけらしす)其の時、一剣を解き松の下に置き遂に忘れて去(いてませり)。今此に至て剣猶ほ在(うせず)、故に歌いて曰く『烏波利珥(をはりに) 多陀珥霧伽幣流(ただにむかへる) 比苫莵麻莵阿波例(ひとつまつあはれ) 比等莵麻莵(ひとつまつ) 比苫珥阿利勢磨(ひとにありせば) 岐農岐勢摩之塢(きぬきせましを) 多知波開摩之塢(たちはけましを)』と。」とある。これは日本武尊の歌である。この一つ松を「あはれ」とお詠みになられたのは、その松の下に昔忘れて置いたままになさった剣が、期間を経ても失われずに残っていたために、その松を褒めて仰ったのである。松が剣を失わなかったのを賞賛して「阿波例(あはれ)」とお詠みになったのである。 ○武烈紀の歌に言う。儺岐曾?遅喩倶謀(なきそほちゆくも) 柯ゲ(漢字なし)比謎阿婆例(かげひめあはれ) ○推古紀で皇太子の歌に言う。伊比爾恵弖(いひにえて) 許夜勢留(こやせる) 諸能多比等阿波禮(そのたびとあはれ) <その事(木梨軽太子のこと)は「古事記」允恭天皇の段に見える。軽太子は允恭天皇の太子である。軽太郎女は又の名を衣通王とも申し上げる。軽太子の同母妹である。しかしながら軽太子と密通したため、太子は伊予に流されなさった。「日本書紀」とはこの事については記述が異なっている。両方を併せ見るべきである。「日本書紀」にはこの歌もない。さて、この歌は二首のように見える。「都久由美能」というところから、また別の一種であるように見える。しかしながら一首としてある。> ○『住吉物語』に、「あなあはれやときこゆれは云々」とある。また、「みやこにてかかる處もみさりしものを、あはれあはれ心ありし人人にみせまほしきよと云々」ともある。〔また、「あはれあはれとくみたてまつらはやとて云々」ともある。〕また「中ノ君たいらかにておはしましける事の嬉しさよと手喜び、あはれあはれとくみたてまつらはやとて、」ともある。 『紫文訳解』 ○御(おほん、み) 「御」の字はいずれも「於保牟(おほん)」と読む。「大御」と言う事である。『日本書紀』には「天照大神」と書き、『旧事紀』『古事記』には「天照大御神」と書いた。『万葉集』にも「大御何々」と言う事が多い。みな「おほみ」と読むのである。「御」の字は元は「美(み)」と読む。「大御」は尊んで言う言葉である。太古は「御」の字だけを「おほむ」と読む事はなかったが、後に「大御」の二字読みを、「御」の一字で読んだのである。「おほ」は「大」である。「み」は「御」である。さて「美」を「牟(ん)」と読むのは、下にあるときはいつもそうである。「臣(おみ)」を「おん」と言い、「神」を「かん」と言い、「文」を「ふん」と言うのと同じである。「御」の字を俗に「おん」というのは「おほん」の略である。今、俗語にも「大御足(おみあし)」「大御帯(おみおび)」などと言うが、これを「御御足(おみあし)」と理解して重言であると言うのは誤りである。「大神」は「大」の字を「おほむ」と読まれるのである。さて「美(み)」というのは、全て物事を尊んで美称として言う言葉である。「三吉野(みよしの)」「三熊野(みくまの)」などの「美(み)」も同じ意味である。「真(ま)」というのも同じ意味合いであり、「美(み)」と「麻(ま)」とは通じる。 ○佐不良不(さぶらふ さむろを) 下の「ふ」は「はひふへ」に通じて活用する。上の「ふ」は濁音で、「ばびぶべぼ」は「まみむめも」に通じる例であり、「さむらふ」と読むのである。臣下が君主に伺候する意味合いである。「侍(はんへる)」と同じで、後世に「候(さふらふ)」というのはこの言葉が少し訛ったものである。「は(ん)べる」にも「さぶらふ」にも「侍」の字を書いて同じ意味合いである。さて、この言葉は体言があるときに用いる例は「源氏物語」桐壺の第一丁に「あまたさふらひたまふ」とあり、これは君王にお仕えするということである。また、貴人に対して言う言葉の下に付けて言う事がある。これは助語(これ自体には意味はない)。例えば「歌よみさぶらふ」「何しさぶらふ」と言うのは、これは全く後世の「候(さふらふ)」の用法と同じである。しかし雅語(宮中の言葉)ではこの使い方で用いる事はない。これを雅語では「侍る(はんべる)」という。なお「侍る(はんへる)」の項目で詳述する。この言葉は俗語での「~ます」と同じで、「歌よみます」「何します」という意味である。 ○多麻不(たまふ、たもを) 「不」は「はひふへ」に通じて活用する。上から下に対しての時に用いる言葉である。そのため尊んで言うときには、何事にもこの言葉をつけて言う。物を賜うという意味合いである。「たまふ」と「はべる」は上下関係が反対である。俗語で「なさるる」「あそばさるる」というのと同じ用法である。「たまふ」に二重の尊敬する用法がある。例えば「何したまふ」「歌よみたまふ」という所を、またもう一重尊敬の意味合いを加えて「歌よませたまふ」と言う。「立(たちを)」というのを、「神代巻」で「たたして」と読むのは、これも尊敬語である。「立(たつ)」を尊敬して言えば「たちたまふ」である。「たたす」を尊敬して言えば「たたせたまふ」である。天照大神の「てらす」も「立(たたす)」と同じ意味合いで、尊敬しての言葉である。天を「てらす」というのとは意味合いが異なる。意味合いは天が「照る」と言う事である。これらは一重に尊敬して言う言い方である。二重尊敬語は、俗語にも「なさるる」を「なさせらるる」と言い、「あそばさるる」を「あそばさせらるる」と言う様なもので、一重の尊敬表現をして「使」の字の意味合い(使役)を追加したものである。 <賜(たまふ)という言葉を「たまはす」というのも、立(たつ)を「たたす」と言うのと同じ事である。> ○伊登(いと) 俗に言う「きつう(非常に)」という意味である。「甚」の字の意味合いである。古来「最」の字を「いと」と読む。「最」の字を「いと」と呼んで意味合いは間違いないけれど、「いと」という言葉には「最」の字を当てることはできない。例えば「午丑(むまうし)」を「むまうし」というのは間違いないけれど、「むまうし」に「午丑」の字を当てるのはいつでも合っているとは言えないのと同様である。「最」は俗には「いつち(一番)」という意味である。物が多くある中で、これが「いつち」良いと言うのは、多くの中で唯一つをいうのだ。「いと」という言葉は、これが「きつう」良いという意味で、指すものが一つとは限らない。「最」という字は一つに限定するのである。だから一つに限定するものを「きつう」良いとは言えるけれど、一つに限定しないものを「いつち」とはいえない。「いと」「いたう」「いみじう」、この三つは同じ意味合いであるが程度に軽重がある。「いと」は程度が軽く、「いたう」「いみしう」は程度が重い。また、用法も少しずつ違いがあるが、いずれも俗に言う「きつう」という意味合いである。「いといたう」と重ねても使う。また、「いと」は「きつう」と言う意味合いよりは少し軽い程度でも多用する。 ○幾古由流(きこゆる) 俗語で言う「まうす(申す)」という事である。中国でも天子に物を申し上げることを「聞(ぶん)する」と言うのである。奏聞の「聞」の字はつまり「申す」という意味である。雅語で「きこゆる」というのも、皆「まうす」という事である。大体において人を尊敬して言う時に、物を言う事を「まうす」と言う。人に対して物を言う時に使うのである。人に対して言うのでなく独り言を言うのを、「きこゆる」と言う事はない。意味を尽くすなら、みな俗語で「まうす」と言う意味合いの時のみ、「きこゆる」と書いた。また一つのものを言い表すのでなく、ただ言葉の下につけていうこともある。例えば「かしづききこゆ」「あつかひきこゆ」などというのは、「きこゆ」に意味がなく、ただ「かしつく(傅く)」「あつかふ(扱う)」という事である。「きこゆ」はそれ自体意味がない付け字である。これも俗語で「かしつき申候」「あつかひ申候」と言うのと同じ意味合いで、「まうす」の意味である。また東国の言葉では、「云々しまうす」という。これも「まうす」は付け字である。 <「きこえさす」というのもただ「きこゆる」と同じである。「たまふ」を「たまはす」と言うのと同じである。> ○波弁流(はべる) 「流」は「らりるれ」に通じて活用する。「はんべる」と読む。「さぶらふ」と元は同じ意味であり、「侍」の字を書く。俗語でいう「ます」という言葉である。例えば「花を見ます」という俗語は、「花を見はべる」というのと同じである。また「あつく侍る」「さむく侍る」と言う事を、俗語では「あつくござりまする」「さむくござりまする」と言う。「思ひはべる」は「ぞんじまする」と言う。みな人に対して相手を敬う言葉である。しかしながら今の人はこのわけを知らず、みだりに「侍る」とさえ言えば、雅語になると思って、歌の詞書などに、多く「はんべる」という事を書くのは大きな間違いである。自分で言う事に「侍る」というのは、まだ間違いで内容に見えるが、目上の人についてさえ「侍る」と書くのは、大きな間違いである。目上の人についてであれば「たまふ」と書くのである。それもその人に対して言う言葉である。目上の人について「侍る」という言葉を書くのは、何を根拠と考えているのかと探ってみたところ、『古今集』を始めとして、代々の勅撰集の詞書では、天子・皇后・春宮(皇太子)を除く他の人々は、摂政・関白・親王といえども、みな「何々したまふ」とは書かずに、「何々し侍る」と書くためである。これを見て人に送る歌の詞書などに、送り先の目上の人について「侍る」という言葉を書いたのである。これは大きな間違いである。勅撰集は天子に奏覧するものなので、天子に対して申し上げることであるため、摂関家・親王といえども、全て天子より目下として「よみ侍る」「何々し侍る」と書くのである。従って新古今集は後鳥羽院が自らお選びになった和歌集なので、卑下して御自分について「侍る」とあるのである。全て「はべる」という言葉は、人に応対して言うときの言葉である。そもそも物語の初期、古い物語に、一つも地の文に「侍る」という言葉はない。新古今集の頃になって、通常の文章にも多く「侍る」という言葉を使うようになった。 <「有る」を「侍る」と言い、「無い」を「侍らず」と言うのは、俗語で「ございまする」「ございませぬ」と言う事である。 ○『源氏物語』帚木巻で、「おぼししり侍りなむ」というのは、前述した目上の人に「侍る」と言っているようであるが、これはその人に向かって言う言葉なので、「ごぞんじがでけませふ(御存知でいらっしゃいましょう)」という事である。 ○『源氏物語』桐壺巻で発端から地の文に、一つも「侍る」という言葉はない。更衣の母「ゆげひの命婦」が来て言う言葉に至り、初めて「侍る」という。これは応対の言葉であることを明らかにしている。> ○多乃牟流(たのむる) 「牟流」は「米(め)」に通じて活用する。「たのむる」は「たのましむる」の意味である。『万葉集』第四に「不令恃者」とあるのを「たのめずは」と読み、同じく「令憑而」を「たのめて」と読んだ。しかし今の人の、多数は「たのむる」が「たのむ」という言葉と同じ意味だと理解しているのは間違いである。「たのむる」は他人が自分に頼らせるのである。「たのむ」は人を頼りにするのである。例えば「今夜来よう」などと言って、自分を頼らせておいて来るのを、「たのめて来ぬ」と言う。なので約束しておくといったような意味に用いるのもこのためである。「いついつに来よう」と約束しておくのを、「たのめおく」とも言うのである。全て「たのむ」と言うのとは大いに意味が変わるのである。この言葉の例は、「進」「休」「痛」「慰」の言葉と同じで、「すすむ」「やすむ」「いたむ」「なぐさむ」は、自分が進んだり休んだりするのであるが、「すすむる」「やすむる」「いたむる」「なくさむる」は、外から進ませたり休ませたりするのである。これらの例によって理解するべきである。「定」「求」などの言葉は「さたむ」というのも、「さたむる」と言うのも上述の例と同じ事であるが、これらは「さだみ」「もとみ」という事はないので、「たのむ」「たのめる」と同類ではない。 <「頼」(たのむ、たのまむ、たのみ)、「進」(すすむ、すすまむ、すすみ)、「休」(やすむ、やすまむ、やすみ)、「慰」(なぐさむ、なくさまむ、なくさみ):以上は自分でする事である。「使頼」(たのむる、たのめて)、「使進」(すすむる、すすめて)、「使休」(やすむる、やすめて)、「使慰」(なくさむる、なくさめて):以上は人にそうあらせる事である。外から進ませたり休ませたりすることである。「やすむる」は他人が自分を休ませることである。「たのむる」は人が自分を頼みにさせる事である。> ○末許止也(まことや) 俗語で「まこと」と言ったり、また「ほんに(本当に)」と言う事である。これは話題を改める言葉である。他の事を言って、さてまた前の話題に立ち返って話すときに、言い出しに使う言葉である。また言おうとしている事を忘れて、他の話題を話すうちに、ふと思い出して言おうとしての言い出しに使う。俗に「ほんにかの何々は」というような意味合いである。 ○左古曾(さこそ)云々登(ど) 「さこそ心づよかりたまへど」などというように、「さこそ」と言って、下に「ど」で受ける言葉は、俗語で「なんぼ何々しても」と言う意味である。「さこそ心づよかりたまへど」とは、「なんぼ強がりなさっても」という意味である。 ○登美二(とみに) 俗語で「さつそくに(さっそくに)」「きふに(急に)」という事である。 ○耶我天(やがて) 俗語で「そのまま」と言う意味である。俗語の「やがて」とは少し違う。 ○安津志幾(あつしき) 「幾」は「かきくけ」に通じて活用する。俗語で「病身な」という事である。病気で体の弱い人を弱いと言う、その弱いという意味である。 ○与宇世須波(ようせずは) 俗語で「わるうしたらば(悪くしたなら)」という意味である。 ○知義理(ちぎり) 「理」は「らりるれ」に通じて活用する。「ちきる」「ちきらん」「ちきれ」等は、活用して用いる言葉である。「ちきり」と言う時は名詞になる。「ちきり(契り)」は俗語で「やくそく(約束)」という事である。互いに物事を言い交わしておく事である。また、前世の因縁と言う事も「ちぎり」と言う。これも俗語で「過去の約束じゃ」と言うのと、よく一致する。 ○陀爾(だに) この言葉は二つの意味に用いる。俗語の「なりとも(であっても)」という意味と「さへ(でさえ)」という意味と二つである。 ○乎記手(をきて) 名詞専用に修飾する言葉である。物事を決めて言いつけることを「をきつる」と言う。心のうちで何をして、こうしてと決める事を、「心をきて」と言うのである。 ○伊美志記(いみじき) 「記」は「い、き、く、う」に通じて活用する。俗語で「きつい」と言う事である。「いたう」「いと」なども、「きつう(大変に)」という意味であるが、中でも「いみしき」は程度が強い。良い事・悪い事とも程度が強く甚だしいことを言う。「いみじううるはしき」「いみじうよはき」などと言う。また「いみじき」とだけ言って、善悪両方の意味で程度が強く甚だしいことに用いる。例えば、「いみしき目を見る」などというのも、「いみしく悲しき目をみる」などという意味である。「いみしき人のありさま」などというのも、「いみしくよき人(たいそう良い人)」にも「いみしくあしき人(たいそう悪い人)」にも言う。これらも俗に「きつい」という意味である。たいそう見苦しい様子を見て、「きついなりじゃ」と言ったり、またたいそう良い事を見て、「きついものじゃな」と言うのは、これは「いみしき」というのに同じである。 ○加義利(かぎり) 三つの意味がある。一つは俗語の「かぎり(の限り)」と同じである。次の一つは俗語の「ばかり」という意味である。「おとこみこのかぎりにて」とは、これは「男御子ばかりで」と言う事である。「なをしのかぎりをきたまひて」は、これは「なをしばかりをきたまひて(直衣ばかりを着なさって)」という意味である。もう一つは例えば「上手のかぎりめしよせて」、これは「上手と言うほどの者は皆召し寄せて」という意味である。 ○保伊(ほい) これは「本意」という意味のことも時々あるが、多くは俗語で「のぞみ」という意味である。 ○左宇々々志幾(さうざうしき) 物足りない様子で、心寂しいという意味である。ただ、寂しいとは少し違う。 ○曾々乃加周(そそのかす) 勧め誘うことを意味する。俗語で悪い事に誘い込む事だけを意味するのとは異なる。 ○須左末志鬼(すさましき) 「志」の字は清音(「し」)で読む。面白くないと言うことである。 ○禰牟須流(ねんずる) 二つの意味で用いる。一つは心中で堪忍自重し堪える事である。もう一つは心中で祈り願う事である。 ○乎乃我自志(をのがじし) 俗語で「めいめいに」という意味である。 ○左波伊倍登(さはいへど)又は左古曾伊倍(さこそいへ) 俗語で「なんといふても(何と言っても)」と言う意味である。 ○伊加弖(いかで) 俗語で「なんとぞして(何として)」と言う事である。また「どうぞして(どうかして)」と言うのとも同じである。 ○古止都久流(ことつくる) 「久」は「け」に通じて活用する。「かこつける」という意味である。 ○宇留波志記(うるはしき) 美麗である事を言うのではない。『源氏物語』でいう「うるはしき」は、きっとして正しくて強いことを言うのである。美麗は「めでたき」という言葉によく合致している。「うるはしき」はきっとして正しい事を主として、優れているという意味をかねている言葉である。「うるはしだつ」というのも、「きっとめく(きっとした感じである)」という意味である。 ○牟都加流(むつかる) 俗に腹を立てて叱ることを言う。俗語で幼子が泣くのを「むつかる(むずかる)」と言うのも、これから転じたものである。 ○豆々末志記(つつましき) 俗に言う遠慮する、気遣いな、恥ずかしいなどという意味を兼ねる。 ○耶乎羅(やをら) 俗語で「そつと(そっと)」という意味である。 ○牟豆加志幾(むつかしき) 二つの意味に使う。一つは「むさむさとした(むずかった)」という意味である。もう一つは「おそろしき」と言う意味である。ただし、この「おそろしき」は、凄まじくおそろしい様子の意味には用いず、女児などが者を怖がると言った様子の意味に用いるのである。 ○与豆加奴(よづかぬ) 世間並みでないということである。「よづく」は世間並みということである。 ○化爾(げに) 俗に言う「なるほど」ということである。 ○毛農雨木(ものうき) 俗に言う「いやな(嫌な)」という意味である。「嬾」の字も「嫌な」という意味である。「いやらしき」という意味にも、「ものうき」という言葉を用いる。 ○於保衣奴(をぼえぬ) 俗に言う思いもよらぬ、思いがけないという事。 ○牟久豆計幾(むくつけき)、又は牟久々々志幾(むくむくしき) 「おそろしき」という意味である。「むつかしき」と言う言葉と同じ意味である。 【参考文献】 『本居宣長全集第四巻』筑摩書房 『大辞泉』小学館 『日本大百科全書』小学館 関連記事: 上二つは部分訳・抄訳になってます。御了承ください。 関連サイト: 「本居宣長記念館」(http://www.norinagakinenkan.com/index.html) こちらにある記載も参考にしています。
by trushbasket
| 2019-06-30 14:26
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