<OBサイト記事再掲>本居宣長『真暦考』 翻訳:NF
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2019年 07月 14日
※OBサイト「れきけん・とらっしゅばすけっと」で掲載していた記事です。当該サイト消滅に伴い、最低限の修正を経て本ブログにて再掲載いたします。現代からすれば表現に問題があるところや、説として古いものもあるかと思いますがあえて極力そのまま現代語訳しています。 はじめに これは、太古の我が国における季節認識について本居宣長が古典から考察したものです。日本独自の精密な暦がないことについても、宣長は考察を加えています。 「真暦考」 新しい年が来ては去り、年の始めに戻っては巡る様子は、始めと終わりの極みはないが、大穴牟遅少名毘古那の神代の昔から、天の様子が、ほのかに霞が立ち、のどかさが兆し始め、柳の葉も萌え始め、鶯なども鳴き始めて、様々な物が新しく始まる頃を、年の始めと定めていたのである。 ・天は「そら」、和は「のどけし」、新は「あらたまる」 <年の始めは、本当にこうしたときであるべき理屈がはっきりしているのに、中国では、太古の夏王朝時代には、今の正月を正月としていたのに、殷王朝時代には、今の十二月を正月とし、周王朝時代には、今の十一月を正月として、それぞれその月を年の始めとしていた。 これを「三正」と言って、例のようにみなこれを理屈が通っているかのように言っているが、実際にはそんなことはなく、どれも全ての事を、改めるのが良いとする国の風俗であるから、ただ自分の功績を示そうとして、このような事まで変えたものである。それにしても世の中のために良いのならそれでも良いが、慣れた事が急に変わって、紛らわしいので、かえって民の煩いとなって、良い事は全くない。だからこそ周の時代までも、国々の民は、やはり慣れてきたそのままに、夏時代に決められた今の正月を、正月としてきた事実がある。これからも、正月を改めるのは、民の煩いであり、良くないことであることを理解すべきである。 さて秦王朝時代には、また改めて、今の十月を正月としたのを、漢王朝時代になっても、景帝という王の時代まではそのままで、『史記』『漢書』といった書物に、年の始めごとに「冬十月」と記しているのは、これまた奇妙なことである。もし十月を年の始めとするならば、例の三代(夏・殷・周)のように、その月を正月を言うべきである。年の始めを十月と言うのは、どういう意図なのか。これは年の始めは、秦の定めを採用しながら、月の名は夏の定めによっているからであろうか、大変紛らわしい。 さて武帝という王の時に、また専ら夏王朝の定めを用いてから、今の世に至るまで、改めることはない。これは、孔丘も、「夏王朝の暦を用いよう」と言ったように、本当にそうあるべきことである。 さて皇国でも、今の立春の頃を春の始めといい、年の始めとするのは、「中国から暦が渡来して後に、長暦で推定して、上代からそう定めたものであろう」と、思うのは間違いである。これは暦によることなく、元来からそうであったことは、上述した通りである。> さて一年が来ては去る間を、四つに区切って、春夏秋冬といったのは、これまた神代からそうやって来たことであるから、今はその理由を、どのようにしても知ることはできないが、試みに述べるならば、暖かいのと暑いのと涼しいのと寒いのと四つの変化があるからであろう。 <そもそも一年は、四月から九月までの六ヶ月が夏で、十月から三月までが冬と、二つに分けたとしても、また通常のように四つにしても、また二月ずつ六つに分けても、また四十五日ずつ八つに分けても、どれも同じ事であって、問題がないと思われるのに、四つに分けているのは、必ずそうでなければならない自然の様子である。暑さと寒さの間に、暑くも寒くもなく、暖かい時期と、涼しい時期とがあるので、二つでは足らず、六つや八つではややこしくて、多すぎるからである。 さて暖かい・暑い・涼しい・寒いによって分かれたのについて、それぞれその中間を季節の中間とすれば、二・三・四月を春、五・六・七月を夏、八・九・十月を秋、十一・十二・正月を冬と定めるべきであろう。三月は暖かい盛りなので、春の半ばとして、六月は暑い盛りなので、夏の半ばとするようなものだ。 しかしそうではなく、みなその始まりを季節の始めと決めているものである。正月は暖かい最初で、七月は涼しい最初であるから、春と秋の始めであるようなものだ。その他も同じである。これも神の御心でお定めになったものである。> この春夏秋冬というものは、たいそう古くから言われていて、『古事記』『日本書紀』の歌にも、時々見られる。 <「春日(はるひ)」というのは、『日本書紀』武烈御巻における影媛の歌に見られ、「夏蟲」というのが、仁徳御巻における磐媛命の御歌に見え、「夏草」というのが、『古事記』の遠飛鳥宮段の、衣通王の御歌に見え、「秋の田」というのが、『万葉集』二巻の磐媛命の御歌に見え、「冬木」というのが、『古事記』明宮段の吉野国栖人の歌に見えている。その他に歌でない用例には、更に古いのもある。> こうしてこの四つの時節を、また始め・半ば・末と、三つずつに区分して、春の始め・秋の半ば・冬の末などといった。 <上代の四季は、暦での節句の区分と同じで、春の始めは、いわゆる立春の頃である。そして立春の頃から、二月の節の頃までを、春の始めとし、それから三月の節句までを、春の半ばとし、それから四月の節の頃までを、春の末とした。夏秋冬もそれになぞらえて理解できる。そうしてこのように三つずつに分けて、始め・半ば・末と言ったけれど、何月と言って一年を十二ヶ月と定めることはなかった。> その春の始めは、すなわち年の始めであるから、上述したとおりであり、夏秋冬の始め・半ば・末も、またその時々の物の様子を見聞きして知ったことは、春の始めと同様で、天の様子・日の出入り・月の光の清らかさや鈍さなどを考え、あるいは草木の様子を見て、この気の花が咲くのは、この季節のこの頃、その木の実がなるのは、その季節のその頃、この草が生えるのは、いつのいつごろ、その草が枯れるのは、何時の何時頃などと知って、あるいは田の作物や畑の作物に関しても、稲の刈り時は何時頃、麦の穂が熟すのはこの頃、というように理解し、あるいは鳥が南方へ行ったり帰って来たりを見、虫が穴に入ったり出てきたりを知るなど、すべて天地の様子から、時節に従って、移り変わるものによって、季節の何時頃と定めていたのだ。 ・上なる天は「そら」、季は皆「とき」、以下も皆同じである。四時を四季とも言い習わすことによる。某は「その」と読む。 <後世には暦というものがあって、月日の定めは皆それに委ねているので、天地の間にある物の様子を見聞きして、考えようともせず、何時も心を向けていないので、見ても分かることはない。なので今の人の心には、上述のようにして定めたのが、頼りにならないと思うであろうが、太古に暦がなかった時代には、必ずそうして定める習慣であったので、人はみな良く見聞きして理解し、間違うことはなかったのだ。全て何にしろ、心を注いで常に慣れていることと、心も寄せず慣れていないこととでは、思いのほか、大きな違いがあるものである。『万葉集』の歌で、「ひさかたの天のかぐ山、此ゆふべ霞たなびく、春たつらしも」「うつなびく春たちぬらし、わが門の柳のうれに、鶯なきつ」「春過ぎて夏来たるらし、白妙の衣ほしたり、あまのかぐ山」「妹が手を、とろしの池の浪間より、鳥音けになく、秋過ぬらし」などと詠んだのは、どれも見聞きしたものによって、その季節を知ったと言う内容で、上代の心情に合致している。その中で、「春過ぎて」という大御歌は、特に人の所業をすら御覧になって、お気づきになったという御内容である。その他にも例は多いが、分かりやすい二つ三つの例を挙げた。一般に今の世に至っても、歌に詠む情趣だけは、漢意の小賢しさはまれで、多くは太古の心に合致しているが、『万葉集』などはいうまでもない。> そうして一つの季節が来たり去ったりするのを、 <「来経」(来たり行ったり)は「きへ」。「きへ」とは、『古事記』で、倭建命の御歌に答え申上げなさった、美夜受比売の歌に、「あらたまの年が来経(きふ)れば、あらたまの月は来経(きへ)ゆく」とあり、『万葉集』十五巻に、「あらたまの月日も来経(きへ)ぬ」とあるように、年月日のどれであれ、まだ来なかったものが、次々に来て去っていくのを言う。そして「来経」と言えば、すなわち年・月・日が過ぎていくことをさしており、『万葉集』などに、「け長く」と多くの歌で詠んでいるのも、「来経長く」であって、その様子が長いことをいう古語である。また日を数えて「いくか」と言うのも、「幾来経」であり、暦を「こよみ」と名づけたのも、「来経見」であり、一日一日と次々に来て去るのを、数えていくための名である。したがって今、「一季の来経」というのは、春夏秋冬どれであれ、一つの季節が巡る間のことである。以下で言うのも全て同じ意味である。> ただ三つに分けて行っただけであり、その間の日を、何日と決めて言うことはなかった。だから年の始めや季節の初めなどでも、はっきりと何日からということはなく、その日数もまた、必ず幾十日というようなはっきりしたものではなくて、全ておおらかであった。 <年や季節の日数も、始めの日も、はっきりした決まりはなかったけれど、神代から何万もの年を経てきたその間に、限りなく存在する世間の人の中には、懸命で考えの優秀な人も、いたに違いないので、暦はなくとも、みな詳細に理解しているであろう事も、ないわけではなかったけれど、中国の人のように作為をしようという気持ちはなく、人心も大らかであったので、世間に知られずに来たことを、無理に考察して知ろうという心情もなかったため、ただ元来そうであるままに、大らかにすごしていたのに違いない。 しかし一般世間の人の理解でも、大体において一年一季節の日数などは、自然と時代ごとに探り知って、次の時代に言い伝え、伝えたのを聞いては、自分達でもまた探り知っていただろうから、その季節の始めは、昨日であるか今日であるか明日であるかという程度までは、自然と決まっていたであろう。しかしやはり、はっきりと今日からという決まりはなかったので、ただ考えて読み取ったそれぞれで、各人ごとに、一日二日の違いはいつもあったであろう。そのように違いはあっても、元来日数は決まっていないので、あれもこれも違いはなく、次の季節でもまた同じことであった。 しかしながら季節の始めや月の始めを、はっきりと定め、その日から数えて、二日目に当る日を二日(ふつか)といい、三日目に当る日を三日(みか)と言って、次々にどれもこのように何月何日と定めて言うのは、遥か後世になって、暦を用いる時代になってからの事である。ただしその後も中世までは、ただ「二日三日」とだけ言うのでなく、「二日(ふつか)の日三日(みか)の日」などと言ったと思われ、仮名書きでは多くそう書かれている。これは古語の習慣で良いものは、暦を用い始められたときに、決められたことであろう。その理由は、一般に上代には、一二三から千万に至るまで、ただ物の数を数える名称であり、順番を言う名称ではなかった。物の順番を一何々二何々と言うのは、漢籍が渡来して、読み慣れた後の事である。中国で一二三などというのは、数を数えるにも、順番を言うにも、兼用する文字であるので、ここでも自然とそれが移って、順番を言うのにも用いる習慣となったのであろう。元来からそうだったではなく、古語に、物の順番を一二三という例は全くない。あの倭建命に答え申上げた歌に、「夜には九夜(ここのよ)、日には十日(とをか)」と詠んだのも、日の順番ではなく、夜と昼の数を言った言葉である。したがって日数を「いくか(何日)」と数えることは、上代からあったのである。また「みかしほ播磨はやまち」と詠んだ、「みかしほ」も、「三日の日の潮」でなく、「厳潮(いかしほ)」の意味であって、「速」というのにかかる枕詞であることは、『古事記伝』建御雷神の件で言った通りである。また『万葉集』の歌などで、三日月と詠んだのも、「三日の月」というのではなく、「朔日(ついたち)から三日にあたる夜の月」という意味である。したがってあの「二日の日三日の日」などと言ったのも、「二日に当る日、三日に当る日」という意味を縮めた名称である。しかし後世になると、ただ二日三日などとのみ言って、昔の通りに言うのを、逆に言葉が重複するように思うのは、ただ昔の意味を失ったためである。 そもそも暦を用い始めなさった時期は、やや時が下った時代ですら、やはり古語そのままの意味を失っていなかったのを考えると、ましてや上代には、季節の中での日の順番を、何日と定めることがなかったのも、無理もないことだ。もし定めようとしても、一日ごとに名づけるべき名称がないであろうに、無理に名づけようとすれば、後世の睦月(一月)如月(二月)といった月の名のように、三十日の名を、ことごとく付けねばならなかった。しかしそうするまでもなく、その季節の始めすら、何日からとは決めていなかったので、以降の日々も、どうして定めることがあろう。 ある人がこう尋ねた。「もし日の順番が定まっていなければ、例えば親が亡くなられた後なども、毎年どの日を命日と定めて、偲んだのであろうか。」そこで、こう答えた。「上代には、そうした類のことも、ただあの季節のいつ頃と、大まかに定めて、事足りていた。後世のように、何月何日と定めたのは、正しいようであるが、一般に暦の月順日順は、年の巡りとは違っていき、同じではないので、去年の三月末日は、今年には四月十日ごろにあたるので、実際は十日ほど違って、月でさえその同じ月に相当しない時もあるのだから、逆にその日には疎くなるものだが、あの上代のようであるときは、その人が亡くなったのは、この木の黄葉が散り始めた日である、などと定めるので、年毎にその日は、本当のその日に巡り合せて、違うことがない。したがってこれは、大雑把であるようで、逆に大変正確で緻密であるのだ。」 一般に過去や、将来のことを、何時と指して言うかというと、近い事に関しては、その事があったのは、何日前、その事があるのは、あと数日と言い、あるいは「数十数日前、その季節のその頃、その事があった」とか、「あと数十数日して、その季節のその頃、その事があるだろう」などといったのである。しかし遠い事に関しては、それほど多くの日数を数えることもできず、また日順が決まっていない時代には、何日目の日ということがなかったので、そこまで探ることもできず、ただ去年のその季節のいつ頃、来年のその季節のいつ頃と言ったり、また何年前の、その季節のその頃とか、後数年してからの、その季節のいつ頃などといったであろう。 更に遠い昔のことになると、どこの宮で天下を統治された御代の、何年という都市のその頃などといった。このように言うのはどれも、年も日も、その数を数えて言うので、上代の言葉である。したがって上代の御代の年を、「元年二年三年」などと史書に記しているのも、読む上で注意がいるのである。まず「元年」は、文字のまま「はじめのとし」、と読んでよいが、「二年三年」以降はみな、順番を指していう文字なので、文字のまま読んでは、皇国の言葉遣いにはならず、「ふたとせ」とだけ読んだら、ただ数を数えただけの言葉であり、その年をさして言うことにはならない。また「ふたつのとし」と読むと、「年」というものが二つあるのを指す言葉になり、全く適切でないからである。だから「元年(はじめのとし)」から数を数えて、「ふたとせ(ふたつ)」にあたるとして、「ふたとせといひしとし」などというのが、上代の言葉であるから、今もそう読むべきである。「三年四年」以降もみな同じである。しかし近年の人が、文などに、年号月日を書く際、その年号の「二つの年、三つの年」などと書くのは、皇国の言葉遣いを知らないものである。中世までの文書には、そう書くことはなく、その年号の「二とせにあたる年」あるいは「二とせといふとし」などとのみ書いていた。これは昔の意味合いが残っていたのである。この言葉遣いに関しては、年を言うだけでなく、何事でもその順番を言う際には、どれもそのように言うのが皇国のものである。> さてこの四季の巡りにはよらず、他にまた月というものがあり、天にある月が、満ちたり欠けたり、見えたり見えなかったりする一巡を、一月とした。 <上述の美夜受ひめの歌で、「あらたまの月は来経行」とあるのは、この「月」である。> その定めは、一月を三つに区分し、「ついたち」「もち」「つごもり」と言った。それはまず西方の空に、日が没した後に、月がほのかに見え始める頃を始めとして、それから十日ほどを、「月立(ついたち)」といった。月がだんだんと立ち行くころだからである。 ・月立は「ついたち」 <「朔(ついたち)」の始めを決めるのは、日の順番にかかわらず、今の二日の日であれ、三日の日であれ、夕暮れに月が見え始める日を始めとした。暦に「朔」としている日は、まだ月がみえないので、まだ晦(つごもり)の末である。中国では、「合朔」と言って、月と日が正に一方向で合致し、全く月の光が見えない日(NF注:新月)を、「朔」としていたが、皇国の昔はそうでなかった。「ついたち」とは、「月立」の意味であり、月が空に立ち行って見えるのを言うのである。「立」とは空に見えるのを言う。霞霧などの「立つ」は、下から立ち上るのを言うのに対し、これは西方に下る時期であるから、「立つ」という意味が異なるようであるが、昨日まで見えなかったのが、初めて見える点では、立ち上るのと同じである。そうしてだんだんと夕暮れに月が高く見えてくる時期を、広く「月立」といった。倭建命が、美夜受比売の御衣の裾に、「月の水(つきのけがれ)」がついているのを御覧になって、「月立にけり」と御詠みになったのも、天の月が立つのになぞらえて、月とおっしゃったのである。「月立」という内容は、これで理解できる。 ところで「春の立」「秋のたつ」などというのは、中国で言う立春立秋から出た言葉なのか、あるいはこの「月の立つ」から移ったのか、分からない。『万葉集』で、「正月(むつき)立つ」と詠んでいるのは、「月が立つ」のを言っているのだ。また今の世の言葉で、「月日がたつ」というのは、「過ぎて行く」ことであり、これは「今月の立」を、前の月が過ぎた方に移して言う言葉である。> そして中頃の十日ほどを、「もち」といった。月の形が満ちているからである。その中で、月立の始めから十四五日にあたる日の夜における月は、「望(もち)」の極みである。 ・十四五日は「とをかあまりよかいつか」、望は「もち」 <「もち」とは満ち足りている意味であり、月が満ちたのを言う名称である。中旬の間は、空の月が全くの円形ではないけれども、欠けたところがなく、ほぼ満ちているのでこういうのである。さて今、「望」の極みを、十五六日といわず、十四五日にあたる日といったのは、上代の「朔(ついたち)」は、暦の二日三日頃であったからである。 ところで『伊勢物語』で、「そのころみな月のもちばかりなりければ」とあるのは、中旬を広く意味している。六月(みなづき)へかけて言っているのは、後に続く言葉であるが、中旬を「もちばかり」と言っているのは、古語が残っているのである。また『万葉集』三巻の歌で、富士の嶺の雪の事を、「六月(みなづきの)十五日(もち)に消ぬれば」と詠んでいる。空の月の事ではなく、十五日を「もち」といったのは、これも古語である。> そして末の十日ほどを、「月隠(つごもり)」といった。つきが段々と隠(こも)り行くためである。その中で三十日頃にあたる夜は、「月隠」の極みである。 ・月隠は「つごもり」 <この頃は、月が出るのが遅くなり、段々と見える事が少なくなっていくので、「月ごもり」と言う。「つごもり」は「月隠(つきごもり)」の意味であり、月が隠れて見えないのを指す名称である。さて暦に依拠して見ると、天の月が一巡りする周期は、二十九日と六つ(十二時間)余りであり、二十九日よりは多く、三十日には足らないので、三十日と定めると、月が出入りする時が、前の「月」(NF注:monthの意味)よりは遅くなり、二ヶ月の間には、だいたい一日違ってくるので、暦には大小の「月」(NF注:monthの意味)を区別して、二ヶ月のうち一ヶ月を二十九日として、晦(つごもり)と朔(ついたち)を整えているのだが、皇国の上代には、一般に日数にはこだわらなかったので、ただ空の月を見て、朔の始めを、ある人は今日と思い、別の人は昨日と思い、もう一人は明日だと思って、思い思いに定めても、どれも間違いではなかったので、大小の月に分けなくとも、晦と朔が乱れる事はなかった。> こうして一ヶ月を定めたけれども、月ごとの名もなく何月を始め・終わりとする順番もなく、四季にもかかわる事はなく、ただ一ヶ月一ヶ月と過ぎていくだけで、全く年の巡りとは別事であった。そうはいっても月が十二回巡れば、大体は一年であるが、年の周期とは、十日ほど日数が足りないので、 <年の一巡りは、暦の立春から立春の頃までだから、三百六十五日と三つ(六時間)であり、上述の十二ヶ月の日数が、三百五十四~五日であるのとは、十一日ほどのずれがある。> いつも四季の始め・終わりとは、遅れたり先立ったりしながらずれており、例えば秋の最中の頃に、天の月は、月隠の末の時も月立(ついたち)の始めである時もあった。しかし元来が別々であるので、四季は四季で月は月として、関係なかったのである。 <このように四季と月の二つは別々であったので、閏月という物を加えなくとも、年の巡りがずれることはなかった。> そのようにしてこの、月というものの周期も、朔(ついたち)・望(もち)・晦(つごもり)、または「はじめつかた」・「中比(なかごろ)」・「末つかた」、というだけであり、これまた何日という日付はなかった。 <この、一ヶ月を三つに分けて言うだけで、日の順番がなかった決まりは、中世まで辛うじて残っていたようで、『古今集』春下、業平朝臣の歌の詞書に、「やよひのつごもり」とあり、歌には「春はいくかもあらじと思へば(春は幾許も残っていないと思うと)」と詠んでいる(NF注:春は三月までとみなされており、春がわずかに残っていることから三十日ではないと解釈できる)。その頃までも、月の末の方を広く「晦」と言っていたので、三十日の日よりは前のことでも、詞書には「晦」といったのである。それなのに後世の解釈では、三十日の日であるが、歌には大らかにそう詠んだといっているのは、太古の事を知らないままでの強引な解釈である。 さてまた物語などでも、一ヶ月を四つに分けて、朔・十日・二十日・晦と広く言うことも多い。『伊勢物語』に、上述したように、「六月のもちばかり」とあるのは言うまでもなく、「時はやよひ(三月)のついたち」云々や、「む月(一月)の十日ばかりのほどに」云々、「さつき(五月)の晦に」云々、「しはす(十二月)の晦に」云々、「時はみな月(六月)のつごもり」云々、「かみな月(十月)の晦がた」云々、「時はやよひの晦なりけり」などと言っている。後世のように、どれも一日に限った名称ではないならば、このように多く晦などと、同じ日だけを言うはずがあろうか。また『蜻蛉日記』で、「つごもりに成ぬれど、人は卯花のかげにも見えず、廿八日にぞ」云々とあり、これも晦になるとはその月の下旬になるんを言うのだ。だから下で「廿八日にぞ(二十八日である)」と言っている。また『源氏物語』藤末葉巻で、「四月朔ごろ」と言っている所で、「七日の夕月夜」とある。また浮舟巻に、「朔ごろの夕月夜」とも言っている。本当に一日の日ならば、夕月夜というほどには、月は見えるはずはない。また『栄花物語』若水巻で、「朔も過ゆけば」と言って、「十日のひるつかた」と言っている。これも「朔」とは、上旬を指している様子である。また鳥辺野巻で、十二月二十二日の事を、「つごもりになりぬれば」と言っている。また『狭衣物語』でも、「晦になりぬれば」と言って、「霧ふたがりて月もさやかならぬ」と言っている。もし三十日の日であれば、月はあるはずはない。これらから分かるであろう、上代に定まった意味合いが残っているのである。この他、十日頃・二十日頃といって、広い範囲で用いているのも多く見るが、これも意味合いは同じ事である。 また今の世の中でも、一ヶ月を、「始つかた」「中ごろ」「末つかた」、と分けて言うこともある。月にのみ用いて、他には全く言わない言葉である。これも古語が残ったものであろう。> そもそも上述の件は、季節の始めなども、はっきりとしてはおらず、月順も日順もなく、また天の月に依拠した「月」はあったけれど、別物であるなど、どれも不足しているように思われるが、こう考えるのは、全てが詳細で入り組んでいるのをよしとする、後世の考え方であり、上代は、人の心も何でも、ただ広く大らかであったので、これで事足りており、 <一般に世の中のものは、あればあるで便利であるだろうが、またあるが故の煩わしさも出るものであり、なければ、ないで事足り、煩わしさがない分、逆に良い場合もあるものである。例えば今の世で、山寺へ登る坂などに、道程を細かく区分して、何町と記した石碑を立てた場所が、あちこちにある。また大きな道には、多くは一里塚というものがあり、どれも道を行く人の目印となるのだが、この大きな道を行く人は、一里塚で事足りており、あの一町ごとの道しるべがなくても、不便だとは全く思わない。また一般の道には、一里塚すらないのも多いが、これまたなければないで事足りており一里塚があれば、とは思わないようなものだ。> またあの空にある月に依拠した「月」と、年の周期とを、無理に一つに合わせることもなく、ただ天地のあるがままであった。 <この二つを、横実で一つに合わせたのは、大変良いように一見思われるが、実際には天地の有り様ではない。もしこのように一つになるはずの理屈であれば、元来自然と一つになるはずなのに、そうではなく、遅れたり先立ったりしてずれるのは、必ず別々であるはずの理屈だからであろう。さて上述した、上代の周期の決まりを述べたのは、そうした古い伝説があるわけではなく、私が年来、この事を不思議に思っており、長年あれこれと思いをめぐらして、思いついた内容である。しかしそれはやはり、「どうしたことだ、今推論に走るべきではない」と、納得しない人が必ずあるだろうが、必ず私が述べた通りでなければならないものである。> これこそこの天地の始めの時に、皇祖神が御作りになり、全ての国に授けなさった、天地そのままの暦であり、中国などのように、人が作為して作ったものではないので、八百万千万年を経ても、全くずれることなく、改める欠点もない、尊い素晴らしい真の暦であった。 ・皇祖は「すめろぎ」、イザナギの大神とイザナミの大神を指して申し上げる。 <中国などの暦というものは、神が御作りになったものではなく、聖人が自分の作為で作って、民に時間を授けるとか、お為ごかしに言うけれど、上述のように、天地の自然からなる暦で、民は授からなくとも、時を自分で分かるのであって、まず去年蒔いておいた青菜の花が咲いたのを見ては、苗代の時期を知り、作っておいた麦の穂が熟すのを見ては、田植えの時期を知り、またその稲を刈る時期から、また麦を蒔く時期をしるように、年毎にそのようにしていけば、どうしてその時期が分からないと言う事があろうか。教えずにいるべきことを、それでも細かく教えるのは、どれもあの国の人の習慣であるのだろう。 さてその暦は、月の大小と閏月で、朔晦と節句がずれないように、一つに合わせているなど、大変巧みであるが、やはり歳差というものがあり、数十年たてば、一度という程度にずれていくので、後世には、次々のその仕組みは詳細になるけれど、方法を完全にすることはできないので、時々はその暦を改めないわけには行かない。また北斗七星の斗柄は、太古には、子(ね)の月には子の方角(北)にあり、寅の月には寅の方角(東北東)にあったのだが、今の世では、寅の月に寅の方角にはなく、丑の方角(北北東)にあるということだ。これは間違いではなく、確かな事実である。 そうであればこのようなことも、数千年もたてば、このように違いが出るものと思われるので、これらの他にも、今までは間違いがなくて、上手く考えたものだと思うものも、また数千年たった後には、違っていくであろうと推測される。そのように考えれば、月・日・星の巡りも何もかも、後には順序がなく、どれも乱れていくはずではないか、と疑うであろうが、そうはならない。どれも月・日・星の巡りは、全て定まっており、何万年を経ても、全く違うものではないので、数千年の間に違いが出る事であっても、このように違っていくのは、どれも本来の形に戻るものであって、それもすなわち決まりのうちであるから、本当に違いが出るのではないのだが、違うと思うのは、例えば十日程度の寿命であるものが、天の月が、形も出入りする時も、夜ごとに変わってゆくのを見て、大変に違いの出るものだな、このようにして、後世にはどうなるのであろう、と思うようなものだ。自分の寿命が短く、また始めのように戻るのを、見る事ができないための疑いである。 そうであれば暦法というものは、数万年を経て、数千年の間に違いが出るものが、また元に戻るのを、何度も経て試みなければ、本当に考え極める事はできないのである。また考えが精密になってゆく間に、以前の考えが違う点が、次々に見えて、ついに尽きる事がないのは、これもまた、思いもよらず段々と元の形に戻って、過去に精密と思われたのが、かえって粗雑である事が、露顕したものである。 こうしてとうとう本来の形にまた戻ってきたときにこそ、皇国の上代における大らかな定まりが、真実である事が分かるであろう。ただしこれらは、物事の趣旨を尽くして論じたのであるが、そうするまでもなく、近年は常に、月ごとの季節と、天の月による「月」とを、正しく合わせる事ができず、閏月を設けようとする間際には、半月のずれがあり、正月の始めは、まだ十二月の中頃であり、七月の半ばは、まだその月の始めである。こうして閏月を置いた後は、やはり半月のずれがあって、今度は時期が先に立つのも同程度である。これらもやはり、その精密さが尽きないものであろうか。 だから近年になると、中国でも、時代毎の暦法に一年の周期と天の月による「月」とを、一つに合わせて、天の月による「月」を主にするのは、良くないと言う事を、考える人も出てきたのは、ようやく本来の形に戻る兆しである。> そうであるのに、やや時代が下り、中国の書物が渡来した後に、あの国の定めに倣って、一年を十二ヶ月として、その月順を四季に区分して、 <中国の十二ヶ月は、天の月による「月」で定めているが、皇国でその上代に定まっていたのは、自然のままに、一年の巡りに従って、暦の季節と同じであった。> 睦月如月などと、その月の名も定められた。 <どれもこれを「月」と名づけたのも、ともに中国に倣ったものか。またここでも、元来より天の月に依拠した「月」というものはあったので、その名をとったものであろう。『万葉集』に「む月たつ」と詠むなど、「月に立」というのも、これを指す言葉である。> この時から、春何月・秋何月などと、月の名を挙げて、またそれを季節に関わらせていうのも始まったのである。さてその月の名は、『古事記』『日本書紀』などの歌には、一つも見えるものはないが、それは自然と漏れ落ちたのであろう。どれも大変古いので、月順が定まった時代にできたであろう、『万葉集』には多く見られている。 <この名も、中国に倣えば、そのまま正月・二月・三月などと名付けられる筈であるが、そうでなく、新たに名付けて、睦月・如月・弥生、などと名付けられたのは、上述したように、物の順番を一・二・三などという事は、昔はなかったためである。> さてこうして月順が決まり、月々の名前もできたけれど、あの天の月による「月」と、その月順とは、別々であった。、あた何日という日順や、一ヶ月の日数が決まらなかった事など、これらはやはり元のままであった。 <この時にしっかりと月順を決め、月の名を付けた以上は、暦を用いて、二通り(暦の「月」と天の月に依拠した「月」)の月を合一させ、日順をも共に決められるはずであるのに、なおもそこまでは及ばなかったのは、なぜかと言えば、全て何事でも、長らく慣れ親しんできた事は便利であり、急に改める事は、不便であるものだから、神代から、何事も大らかであるのに慣れてきた世の中が、新たに日順などがはっきりと決まり、月の大小や閏月、といった事が出てきたなら、逆に煩わしく、不便であるものだから、急にそうはならなかったのであろう。 さてこの時、年の周期を表す「月」と、天の月に依拠した「月」とは、やはり別々であったので、正月の朔、八月の望の夜、十二月の晦などのように、朔・望・晦を、月の名につけて言う事は、まだなかった。それはもっと遥か後に暦を用いられる時代になってからの詞である。その理由は、睦月などと言うのは、月順の「月」の名であり、朔などというのは、天の月に依拠した「月」に関するものだからである。この二通りの「月」には、長短の違いがあるので、いつでも遅れたり先立ったりして、同じようには並立しないので、たとえ無理に何月の朔・晦などといっても、始め頃か中頃か終わり頃か、分からないであろう。> そもそもこの月順が決まったのは、どの御代からとも、明らかには分からないが、暦を用い始めなさった頃よりは、遥かな昔と思われるので、 <『古事記』長谷朝倉宮(NF注:雄略天皇)の御代に百済の国から、和爾(NF注:「王仁」の事)などという知識人たちが渡来して、初めて皇子たちに漢籍を教え申上げたところ、皇子たちが大変よく御理解なさった事や、伊波礼の若桜宮(履中天皇)の御代から、国々に文書官を置いて物事を記録なさったことなども、『日本書紀』に見えているためである。『古事記』に、息長帯比売命が、筑紫末羅(松浦)の玉嶋川で、年魚(あゆ)を釣ったことを記録したのに、「当四月上旬(うづきのついたちにあたれり)」といっているのは、まだ漢籍が渡来していない時代で、月順も月の名もない時代であるから、四月というのは、そのときの言葉ではない。その次の文章に、「故四月上旬之時(かれうづきのついたちごろ)、女人云云釣年魚(おみなのしかしかしてあゆをつること)、至于今不絶也(いまにたえず)」とあることから見ると、後世にそうした事が行われたのが、四月上旬である事により、その始めをも、その月の名で語り伝えたものである。元はただ、夏の始めなどと、語り伝えていたのであろう。> また甲子などという事を用い始めなさったのも、同じ御代からのことであろうか。 <甲子とは、十干十二支を指す。暦はなくとも、年と月との甲子は決める事はできる。さてこれも、あればあるで便利なように見えるが、なければないで、事足りるであろう。これに色々と細かい理屈を言うのは、例によって中国の風習であるから、論ずるまでもない。> こうしてまた多くの御時代を経た後に、暦を用い始めなさってからは、 <中国の暦が、皇国に渡来したのは、まず師木嶋宮(NF注:欽明天皇)の御代の十四年に、暦博士と、暦とを献上せよと、百済国に勅命を下されて、同十五年に、暦博士固徳王保孫という人が参上したという記事が見えている。これが始まりであろう。しかしまだ世間には行われず、また小治田宮(NF注:推古天皇)の御代の十年に、百済法師観勒という人物が渡来して、暦本を献上したのを、陽胡史(やこのふむびと)の祖玉陳という人が、この僧に暦法を習い、習い終えたようであるが、この時も、すぐにこれを採用して、世間で用い始めなさった記事は見られない。『政事要略』に、この御代の十二年正月朔から、初めて暦を用いなさった事が書かれているが、おそらくその通りであろう。> 月順の「月」と、天の月に依拠した「月」とを、合一して、何日という日順も、一年や一ヶ月の日数も、どれもはっきりと決まって、全ては今のようになった。 <しかし『日本書紀』には、神武御巻に、「是年也太歳甲寅、冬十月丁巳朔辛酉」云々、「辛酉年、春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮」などとあるのを始め、どれも上代の事にも、みな年月を記し、また甲子に表して、日付までを記しているのは、全く理解できない。そもそもこれはみな、後世から逆に推測して、長暦というもので決めたと、世間の人は単純に思うだろうけれど、まず御代ごとの年数も、言い伝えに変化があり、明らかでないので、何年ということからして疑わしい。しかし年については、ともかく一つの言い伝えによってでも、定められる。次に何月という事は、上代には、月順も月の名もなかったので、どうしたものかと思うが、元々は例えば、春の始めと言い伝えていたのを、月順ができてから後に、正月と言い伝えたとすれば、これもなるほどとおもわれるが、何日と日付が記されているのは、どうにも解釈できない。日付が決まっていない時代の事を、何日と言い伝える事のできるはずがあろうか。 もし上代に月順・日順がなかったという、私の考えを、信じない人もいるならば、ここでそう考える理由を詳細に説明しよう。一般に暦というものがない時代には、何月何日と定める術がない。月を大小に区別せず、一年に閏月を加えなければ、日順と天の月の巡りがずれ、また月ごとの季節も、どれもずれていくからである。まず暦法によって見れば、月の周期は、二十九日六つ(十二時間)余りであるから、大小を区別せず、いつも三十日を一ヶ月として、朔を定めたなら、一年間に、五六日のずれが出て、正月の朔は天の月に合致していたとしても、十二月になると、朔とする日には、天の月は上弦の月であろう。このようにして、五年余りすると、また本来の正しい形に戻るが、その間には、朔に天の月が満月になったり、下弦の月になったりする月もあるだろうが、そうした時期もやはり朔としているものだろうか。また一年一巡りの周期は、三百六十五日と三つ(六時間)だから、十二ヶ月が日数三百六十四五日であるのとは、十一日ほどのずれがある。たとえ十二ヶ月をすべて三十日としても、やはり五日余りのずれがあるので、閏月なしで過ごしたなら、時節の暑さ寒さなども、みなだんだんとずれていき、二十年の間に、百日ほどずれ、三十四年余りで、ついに半年ずれて、冬と夏とが入れ替わり、六月ごろに、十二月のように寒いであろうのに、それでも夏六月といい、十二月の頃に、六月のように暑いであろうのに、やはり冬十二月といっているであろう。 したがって、中国のではない他の暦を用いなさったならともかく、ただ暦がなかったなら、何月ということすら、天の月に依拠しては、決められないのに、ましてや何日という事を、どのようにして定めようというのか。『日本書紀』を読もうとする人は、必ずこの点を理解するよう。> 天明の二とせといふ年のなが月の十日あまり二日の日(天明二年九月十二日) 本居宣長考畢 天明九年己酉春発行 書林 伊勢松坂日野町 柏屋兵助 京都堀川通綾小路下ル町 銭屋庄兵衛 同 堀川通高辻上ル町 銭屋利兵衛 【参考文献】 『本居宣長全集』第八巻 筑摩書房 倉野憲司校注『古事記』岩波文庫 関連記事:
by trushbasket
| 2019-07-14 15:11
| NF
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