平安期の天皇と「源氏」
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2019年 07月 28日
これは、京都大学歴史研究会の現役サイトに掲載したレジュメです。ただ、pdfファイルが閲覧できなくなっている事がありましたので、念のためこちらにも再掲載させていただきます。少し古いレジュメなので、現在からすれば旧説も含まれているかと存じます。御了承ください。 はじめに 皇室の流れを汲む名門、と言えばまず「源氏」を浮かべる人は多いと思われる。何しろ、武家の名門と言えば「清和源氏」であり最もよく知られた王朝物語の主人公も「源氏」であるからだ。この「源氏」なる一族は、多くが平安期の天皇にルーツを持っている。今回は、平安期の天皇との関係を中心に「源氏」のあらましを概観する。 賜姓と臣籍降下 皇族が姓を賜って臣下の列に加わる現象は平安期以前からも認められたが、これには朝廷と皇族双方の思惑がある。朝廷としては皇族の数が増加するにつれ経済的な負担が増大したため、人員を整理したいところであった。傍流の皇族としては、皇位の望みがない以上は皇族の地位にこだわるよりも、臣下として官職に付く道を選ぶ方が世に出るためには現実的であり経済的にも見通しが明るかったのである。 臣籍降下の比較的早い例としては、天平八年(736)に敏達天皇の玄孫・葛城王が上表し「橘宿禰」の姓を受けたというものが挙げられる。彼こそ聖武天皇時代に権勢を振るった橘諸兄である。また、長屋王(天武天皇の孫、政争に敗れ自害)の末裔も後に「高階」の姓を受けている。 桓武天皇時代になると、多くの皇族が臣籍降下する。例えば桓武の皇子・岡成に「長岡朝臣」、桓武の皇子・安世に「良峯朝臣」、光仁天皇の皇子・諸勝に「広根朝臣」の姓が与えられた。中でも知られているのが葛原親王・万多親王・仲野親王の子孫たちに与えられた「平朝臣」であろう。「平朝臣」はその後、仁明天皇の子・本康親王、文徳天皇の子・惟彦親王、光孝天皇の子・是忠親王の末裔にも与えられ、「源朝臣」と並び称される姓となる。中でも葛原親王の子・高棟や孫・高望の系統が知られており、一般には特に断りがない場合「桓武平氏」と言えばこの二人の末裔である。高棟の子孫は貴族として存続しやがて建春門院滋子や平時子を輩出。高望の子孫は地方に土着して武家となり、平将門、そして平清盛ら伊勢平氏を輩出、更に板東八平氏や北条氏を出したとされる。 他に知られた臣籍降下の例としては、平城天皇の子孫から生まれた在原氏・大江氏がある。こうした中で最も例が多く、知られているのが「源氏」である。 「源氏」のおこり 弘仁五年(814)、嵯峨天皇は信(まこと)を始めとする自らの皇子・皇女に「源朝臣」の姓を与えた。これが「源氏」の始まりである。以降、皇族から臣籍降下する場合には「源氏」とされる事が次第に通例となっていく。嵯峨天皇が「源氏」の姓を特別視していたのは間違いないようで、遺詔で生母に過失がある皇族には「源氏」を名乗らせないよう命じている。なお、彼ら「嵯峨源氏」の例から、四位から経歴を開始するのが一世(皇子)・二世(皇孫)の常例となった。一世の源氏は大臣になる例も少なくなかったが、多くは世代を重ねると共に没落していった。 主な「源氏」 「源氏」は一つの氏族として氏長者を定められているが、氏族としてのまとまりは弱いものであった。普通は、先祖に持つ天皇の名を冠して「○○源氏」と呼ぶ事が多く、大半が平安期の天皇を源流とする。以下、主な源氏を列挙する。特に断りがない場合、「○○親王」は源氏の名称由来となった天皇の皇子である。 ・嵯峨源氏 上述のように嵯峨天皇が皇子・皇女に「源朝臣」を名乗らせた事に端を発し、左京一条一坊を与えられた。嵯峨天皇の皇子である源信(まこと)、常(ときわ)(東三条左大臣)、弘(広幡大納言)、明(あきら) (横川宰相入道)、定(さだむ) (四条大納言)、勝、融(とおる) (河原左大臣)らが「源朝臣」を賜る。信は左大臣にまで昇進、笛・箏・琵琶に長じていた。融は自邸・河原院に海を模した庭園を作ったことで知られ、光源氏のモデルの一人である。嵯峨源氏には風流を愛した人物が多いとされる。融の系統が最も栄え、武家となった渡辺氏を輩出。 ・仁明源氏 任明天皇の皇子である源冷(すずし)、光(西三条右大臣)、多、覚らの系統である。光は菅原道真を左遷される動きに同調したとされ、祟りで急死したと伝えられる。嵯峨源氏・仁明源氏には一字の名を持つ人物が多いのが特徴である。 ・文徳源氏 文徳天皇の皇子である源能有(近院大臣)、毎有らの系統である。能有は菅原道真と親交があった事で知られている。 ・清和源氏 最もよく知られた源氏であろう。清和天皇の系統からは皇子である源長猷(ながかず)・長鑒(ながみ)や貞純親王の子・経基、貞数親王の子・為善、貞真親王の子である蕃基(しげもと)・蕃平・蕃国・元亮らが「源朝臣」を賜った。特に知られているのが経基の子孫であり、世間一般では特に断りがない場合、「清和源氏」と言えばこの経基の系統を意味する。なお、『石清水文書』の「源頼信告文」を根拠として経基の系統が実は陽成天皇の末裔であるとする説もあるが、定説になるには至っていない。経基の子・満仲は摂関家と結びついて中央で軍事貴族となると共に摂津国多田に土着し、以降は武家となる。満仲の子である頼光(摂津源氏)、頼親(大和源氏)、頼信(河内源氏)の代には更に勢力を広げていく。摂津源氏からは多田氏・土岐氏を輩出、源三位頼政もこの系統である。河内源氏は平忠常の乱を契機に東国に勢力を及ぼし頼義・義家を経て義朝・為朝や頼朝・義仲・義経といった源平合戦期に活躍した武将を輩出。また足利氏・新田氏もこの系統である(なお、徳川将軍家は新田氏の末裔を自称)。義家の弟・義光からは武田氏を始めとする甲斐源氏、佐竹氏が出ている。 ・陽成源氏 陽成天皇の皇子である源清蔭・清鑒・清遠や元平親王の子・兼名、元長親王の子・兼明が「源朝臣」を賜っている。 ・光孝源氏 光孝天皇の皇子である源近善・貞恆・是茂・旧鑒(ふるみ)・音恒らである。なお、宇多天皇も一旦臣籍降下して「源定省」と名乗っていた事は知られる。その子・醍醐天皇もその期間に誕生しており当初は「源維城」といったが、父と共に皇族復帰した後に「敦仁」と改名。 ・宇多源氏 一世の源氏としては皇女二人、二世の源氏として敦実親王の子である雅信・重信。雅信・重信は共に左大臣に昇進しているが、中でも雅信は娘・倫子が藤原道長の正室となった関係もあって子孫が繁栄。雅信の子のうち時中は蹴鞠・楽器に長じており庭田家・綾小路家・大原家を輩出。時方からは五辻家・慈光寺家が出た。扶義の孫・成頼は近江国佐々木荘に土着して武家・佐々木氏(近江源氏)の祖となり、子孫から京極・六角氏が出る。 ・醍醐源氏 醍醐天皇の皇子である源高明・自明(よりあきら)・兼明、克明親王の子・博雅、有明親王の子・忠清、盛明親王の子・則忠らが「源朝臣」を賜る。高明は光源氏のモデルと目された人物で、左大臣となるが藤原氏の陰謀により安和の変で失脚。また、彼は故実に長じており『西宮記』を残している。一条天皇時代に能吏として知られた源俊賢は高明の子で、大納言の家系となった。一方、兼明は高明の後に左大臣となるが、やがて皇族に復帰し二品中務卿となる。これは藤原兼通が政敵である彼を敬して遠ざけた結果とも言われる。 ・村上源氏 貴族社会で最も成功した源氏である。具平親王の子・師房の系統である。摂関家と縁戚関係にあり大臣をしばしば輩出。院政期には摂関家を凌ぐ勢いを示し、頼朝と政治的に渡り合った源通親を出している。堀川・久我・土御門・中院の各家に分かれ、久我家から更に六条家・岩倉家・千種家、中院家から北畠家が出た。なお、南北朝期に軍事勢力として活躍した赤松氏・名和氏も村上源氏を称している。 ・冷泉源氏 冷泉天皇には男子が四人おり、即位した二人(花山天皇・三条天皇)以外の二人は臣籍降下して源氏となったという。為尊・敦道であろうか。 ・花山源氏 花山天皇の曾孫・顕安が「源朝臣」を賜る。彼の系統は神祇伯となり、白川家を名乗る。 ・三条源氏 小一条院(※)の子である基平・信平、敦平親王の子・通季の系統。 ※敦明親王。後一条天皇の皇太子となるが、藤原道長の圧力により地位を辞退し、その後は太上天皇に準ずる待遇を得た。 ・後三条源氏 輔仁親王の子・有仁は白河院の猶子となり「源朝臣」を賜る。輔仁親王は後三条天皇に寵愛され皇位を期待されたが、自らの系統に継承させたい白河天皇は輔仁一派を圧迫しその子を臣籍降下させたのである。その罪滅ぼしかは不明だが源有仁は栄達し「花園左大臣」と称される。美男で多才であった事から光源氏になぞらえられた。 ・後白河源氏 治承四年(1180)に以仁王が反乱した際、平氏政権は彼の皇籍を剥奪して「源以仁」と改名し土佐に流罪とする決定を下している。皇族のままで配流するのは憚りがあったためだという。この決定は明らかに懲罰の意味合いがあり、嵯峨天皇が「源氏」に込めた想いを考慮すると時代の変遷を思わせる。なお、平家没落後に木曽義仲が以仁王の子・北陸宮を皇位につけるよう要求していたのを考えると、反平家勢力からはこの「臣籍降下」はなかった事にされているようだ。なお、以仁王の男児はいずれも出家したという。 その後 主な「源氏」は上記のように平安期が中心であったが、鎌倉期以降も新たな「源氏」誕生が時にみられた。 ・順徳源氏 忠成王の子・彦仁や善統親王の子・善成が「源朝臣」を賜る。善成は左大臣となった。 ・後嵯峨源氏 宗尊親王(鎌倉将軍)の子・惟康親王(鎌倉将軍)が一時期「源朝臣」を賜るが弘安十年(1287)に皇族復帰。一定年齢に達したため将軍職を退いて京に返すための、鎌倉政権による手配だという。 ・後深草源氏 久明親王(鎌倉将軍)の子・守邦親王(鎌倉将軍)とその弟・久良親王が嘉暦三年(1328)に「源朝臣」となったとされる。ただし元徳二年(1330)にいずれも親王宣下を受けて皇族復帰。惟康親王と同様な事情であったが、京に帰される前に鎌倉政権が滅亡したため守邦は「鎌倉政権最後の将軍」として名を残した。 ・後醍醐源氏 『浪合記』は宗良親王の子・尹(ただ)良(よし)親王が元中三年(1386)に南朝から「源朝臣」を賜り、その子・良王は津島に隠棲し神主となったと伝えている。ただし『浪合記』の史料価値には疑問が呈されており、真偽は不明である。 一方、九州で一時期勢力を誇った懐良親王の子・雅良王は庇護者であった菊池氏が足利方に降伏したため山林に逃れ、「後醍院越後守源良宗」と名乗ったという記述が『後醍院系図』にあるそうだ。 ・正親町源氏 八条宮智仁親王(正親町天皇の孫)の子・忠幸が「源朝臣」を賜り広幡家となる。 しかし、平安後期以降は、傍流の皇族は出家する事例が多くなったため臣籍降下の頻度は減少している。 おわりに 本文では源氏に関して平安期の天皇とのかかわりを軸に概観したが、まだ調べきれなかった点はある。『尊卑文脈』には他に「亀山源氏」「後二条源氏」なる項目が存在したが、いずれも明確に臣籍降下した者は明らかでなかった。また足利期に南朝残党と共に「神璽」(神器の一つ)を奪った源尊秀なる人物は『康富記』によれば「後鳥羽院後胤」とあるが、真偽は不明。「後鳥羽源氏」と呼びうる存在なのだろうか? 【参考文献】 児玉幸多編『日本史小百科 天皇』 近藤出版社 『國史大辞典5』 吉川弘文館 『平安時代史事典 下』 角川書店 『天皇皇族歴史伝説大事典』 勉誠出版 日置昌一編『日本系譜綜覧』 講談社学術文庫 北山茂夫『日本の歴史4平安京』 中公文庫 土田直鎮『日本の歴史5王朝の貴族』 中公文庫 竹内理三『日本の歴史6武士の登場』 中公文庫 『新訂増補國史大系60上 尊卑文脉第3編』 吉川弘文館 『大事典desk』 講談社 元木泰雄『平清盛の闘い』 角川書店 奥富敬之『天皇家と源氏 臣籍降下の皇族たち』三一書房 森茂暁『闇の歴史、後南朝』 角川選書 『改訂史籍集覧第三冊』近藤出版部 『日本大百科全書』 小学館 「芝蘭堂」(http://homepage1.nifty.com/sira/)より 関連記事: 清和源氏を称える書物に関連した南北朝話。 平安期の、経済的に世知辛い状況に関する話。 ※2019/7/31 大幅に加筆。
by trushbasket
| 2019-07-28 19:09
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