『敗戦処理首脳列伝』外伝?・金沢貞将~鎌倉政権最後の執権はこの人?~
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我が百年の命を棄て
公が一日の恩を報ず
(同書 138頁)
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2019年 08月 11日
鎌倉政権最後の執権は、一般には赤橋守時とされています。足利尊氏の義兄にして、鎌倉攻防戦で倒幕軍と戦って果てた悲運の人物ですから、南北朝好きには比較的知られた存在といって良いでしょう。 しかし、細川重男先生によれば、その後にもう一人、執権に任じられた人がいるかもしれないのだそうです。その人物こそ、今回取り上げる金沢貞将(?-1333)。 金沢家は北条氏の中でも家格の高い家で、父・貞顕も十日のみながら執権を経験した人物です。なお、貞将の訓みはかつて「さだまさ」と考えられていましたが、「さだゆき」なんだそうです。ちなみに、「さだまさ」と訓むのは貞将の兄弟である貞匡という人物。 さて、貞将の話に戻りましょう。彼は正和四年(1315)に評定衆・官途奉行、文保二年(1318)に右馬権頭・越後守となり五番引付頭人。鎌倉政権の要人として順調な経歴をたどりました。正中元年(1324)には六波羅南方探題となり、五千騎という前例のない大軍を率いて上洛しています。時しも、朝廷内部の討幕計画疑惑(正中の変)が浮上した最中ですから、警戒を要するという判断があったのでしょう。実際、父・貞顕から書状で朝廷情報の収集を指示されているそうで。 元徳二年(1330)には鎌倉に戻り、一番引付頭人に就任。これは執権・連署に次ぐ北条一門第三位の地位なんだとか。 そして話は、一気に鎌倉政権滅亡時まで飛びます。元弘元年(1331)の後醍醐天皇挙兵を経て同三年(1333)、後醍醐天皇方である楠木正成・護良親王らの活躍を契機に討幕勢力が勃興。足利高氏(のち尊氏)が後醍醐方に寝返って六波羅探題を滅ぼし、関東でも新田義貞が挙兵して鎌倉へ攻め上りました。破竹の勢いで進撃する新田軍の前に鎌倉の守りは突破され、北条一門は最期の時を迎えます。『太平記』第十巻によれば、貞将も防衛のため市街戦に参加、自身も七箇所の傷を受ける奮戦ぶりをみせました。そして討死を覚悟した貞将は得宗(北条氏家長)・北条高時に挨拶のため伺候。その際、高時はその忠節や奮闘に報いるため「両探題職に居ゑさせらるべき由、御教書」(兵藤裕己校注『太平記 二』岩波文庫 137頁)を出しました。貞将は「多年の望み達しければ、今は冥途の思ひ出になりぬと悦びて」(同書 同頁)、御教書の裏に 我が百年の命を棄て と記し、再び戦場へ向かい討死したという事です。 さて。よく見ると、ちょっとひっかかる部分がないでしょうか?貞将が「多年の望み」と喜んだはずの「探題職」、通常は六波羅探題と解釈されています。しかし、上述の通り、貞将は已に六波羅探題は経験済み。そして、この時点では北条一門のナンバー3ですから、上は連署そして執権しかありません。「功績に報いるに六波羅探題職」ではちょっと変なのです。その点に注目したのが細川重男先生でした。細川先生によれば、鎌倉の訴訟解説書『沙汰未練書』は「探題」について「関東者両所」、そして京都では「六波羅殿」を指すと記しているそうで。関東の「両所」とは執権・連署を意味するという事でしょう。そしてこの時点では執権赤橋守時が討死している一方、連署の北条茂時は存命。したがって、「探題職」とは空職になっていた執権を意味するのではないか。細川先生はそう推測しています。流布本系『太平記』ではこの時に貞将が相模守に任じられたという記述も加えられているのも、その推測を補強するのだとか。相模守といえば、鎌倉後期には歴代執権が任じられた官職でしたから。流布本が編纂された時点では、この「探題職」が執権の事だと解釈されていたと推定されるのだそうで。 ただし、この記載があるのは『太平記』のみなので、どこまで事実を伝えているかは不明。かといって、虚構と切って捨てることも無論できません。「ひょっとしたら、執権に任じられたかもしれない」という辺りが落としどころなんだそうです。 戦争での敗北、政権の滅亡が最早不可避な状況での首脳就任。そう考えると、貞将も上記の推定が正しいなら「敗戦処理首脳」の一人とみることはできなくもないかも。という訳で、今回の記事も『敗戦処理首脳列伝』外伝という事になるかも。 時代の流れの中、どうにもならぬ悲運の中で精一杯に奮闘した武士の一人であった金沢貞将。南北朝愛好者として、その生き様と共に(ひょっとしたらあったかもしれない)執権就任についても記憶に留めておきたいと思います。 【参考分権】 細川重男編『鎌倉将軍執権連署列伝』吉川弘文館 兵藤裕己校注『太平記 二』岩波文庫 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版 関連記事: この記事における分類に当てはめるなら貞将の場合、難易度激高である「敵陣営の力が自国より遥かに大きく、しかも敵の戦争目的が自国の征服にある:難易度 非常に高い(というか無理)」の究極形となるでしょう。すでに政権所在地の守りが突破され市街戦に突入、自身も戦闘で少なからず負傷した最中での任命ですからね。無論、「祖国滅亡に殉じて散った事例」になる以外選択肢はありませんでした。というか任命自体が、討死必至の状況でせめて死出の旅を飾るためのものでしたから。 貞将の没年齢は三十代後半と推定されています。討死当日の任命ですから、在職期間は一日足らず。 貞将は大河ドラマ『太平記』に登場。久野真平さんが演じていました。 関連サイト: 大河ドラマ『太平記』第二十二回「鎌倉炎上」に関する解説です。ドラマでは、軍記物『太平記』とは異なり、東勝寺で一門と共に自害。父・貞顕の乞いに応じて父を刺し、返す刀で自らも後を追っています。 ※2019/8/12 誤字修正、文書修正。
by trushbasket
| 2019-08-11 17:41
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