2019年 09月 11日
【言葉】大燈国師は語る、「専一究明己事底」~自分とは何か、本当に求めるものは何か~
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どうも、松原左京です。先日の台風で、首都圏が大変なことになっていますね。中でも千葉や神奈川ではまだ水道・電気の復旧がままならないところもあるそうで、熱中症や脱水が心配されるところです。一刻も早い回復を祈るほかありません。
という訳で。誠に勝手ではありますが、過去記事に倣う形で通常営業をさせていただこうかと存じます。
さて。『童貞の世界史』に登場する童貞偉人たちは、どういう事情で童貞を貫いたのか。その理由は、様々でした。性愛に関心が無かったケースもあれば、若い頃に失恋してそのままになった人もあり。宗教上の理由や使命感から性愛を遠ざけた例もある一方で、恋愛を望みながらも生涯果たせなかった事例もあるなど。
しかし、どのケースでも共通しているのは、「自分が最も望んでいるもの、最も優先したいもの」がはっきりしていたという事。その結果、性愛が除外されたり後回しになった。そう見る事はできそうです。まあ、「偉人」と呼ばれるレベルの業績を遺しているのですから、この点はあるいは当然と言えば当然なのかもしれません。生涯童貞かどうかに関わりなく。
という訳で。そうした生き方に関連した言葉を今回は御紹介しようかと思います。鎌倉時代から室町初期にかけて活躍した禅僧に、宗峰妙超という人がいました。元に渡航して修行し、帰国後は花園天皇・後醍醐天皇らから信任を受け大徳寺を建立した傑僧です。「大燈国師」という呼称でも知られています。
その大燈国師の遺言というべき『興禪大燈國師遺誡』には、以下のような一説があるそうです。
専一究明己事底、与老僧日日相見報恩底人也(『塗毒皷 全』貝葉書院)
「ただひたすら、「自分とは何か」という問題を明らかにしようと取り組んでいるなら、日々この大燈と相まみえているも同様な同志の人である」といった意味のようです。自分とはどのような人間なのか、自分の魂が本当に欲しているものは何なのか。常に、その事を真摯に己に自問自答して生きていく。どのような生き方を最終的に選ぶにせよ、充実した悔いの無い人生を送るにはそれが大事なのかもしれません。
童貞であるか否か、という事は、それに比べれば些細な問題に過ぎますまい。周囲に流される形で「童貞を捨てなくては、結婚をしなくては」と焦るのも、逆に無闇に反発・逆張りする形で「何が何でも性愛には近づくまい」と依怙地になるのも、いずれも正しいありようではないでしょう。逆に、己の魂が欲するものに本当に沿っているならば、童貞であろうがそうでなかろうが、構わないのではないかと。
己が何者か、己が本当に欲するものは何か。それをごまかしなく自問自答し続ける事が、生きる上では大事なのだと思います。無論、その結果が人の道に背く場合は無論そのまま実行する訳にはいかぬでしょうけど。
という訳で。今回は、「専一究明己事底」という言葉を御紹介させていただきました。まあ、禅僧の言葉というのは、理解しにくいといいますか奥が深いものですから、今回の解釈が正しいのかどうかは、分かりませんけどね。
参考文献:
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ロゴヴィスタ
『塗毒皷 全』貝葉書院
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by trushbasket
| 2019-09-11 20:06
| 松原左京









