どうも、松原左京です。著作『童貞の世界史』に関連して、時々ここでも童貞関連の話題を持ち出したりしてます。
さて。「我が国の未婚男性は、女性や既婚男性と比べると自己肯定感や幸福感が低い傾向にある」、そんな調査結果があるそうです。童貞の場合、基本的に独身でしょうから私としては捨て置くわけにはいかぬ話題です。
関連サイト:
「東洋経済オンライン」(https://toyokeizai.net/)より
「なぜか自己肯定感が低い日本の未婚男性の実像」(https://toyokeizai.net/articles/-/302836)
何でも、特に「男らしさ規範」が強い既婚男性は「妻子を養っている自分」に社会的存在意義を見出し、それで自己肯定感・幸福感が強くなるのではないか、とうい分析があるとか。しかし、誰もが結婚できるわけでないのは勿論、男性全員に「男らしさ規範」を持てというのも無茶な話です。嗚呼、童貞・独身の男性が自己肯定感を高く持つ事は不可能なのでしょうか?否。答えは、断じて否。実のところ、上記引用記事の末尾に、福音というべき分析があります。「生きがいとなるような趣味やライフワークを持っている」場合、未婚男性も既婚男性に負けない自己肯定感を持ちうるのだとか。要は、「自分は何のために生きるのか」「どんな人間でありたいのか」という答えをしっかり持ち、それに尽力できているという実感があれば幸福感・自己肯定感は高められるという事なのでしょう。
思えば。世間とか他人とか、外部世界に精神の拠り所を求めるのは、危うさをはらんでいると思います。自分の力ではどうにもならぬ側面が強く、他の都合でいつどのように崩れるか分からない。なので、己の拠り所は己の心の中にしっかりと築いておきたいもの。家族や恋人、仕事。そこから幸福感・充実感を得られる。それは、確かに素晴らしいことに違いありません。しかし、自己肯定感や幸福感の根底にそれを置くのは、ちょっと待った方が良いかもしれない。それは、相手に精神的に依存する事になりますまいか。自己肯定感・幸福感に脆さを残す事になりますまいか。
「己はどのような人間でありたいか」「人生を何に使いたいか」、それを自身の中でつきつめ、世間からのお仕着せでない自分自身の、自分だけの答えを得る。それが世間でいう「幸福」と一致する事もあれば、そうでない事もあるでしょう。しかし、ただ漫然と世間の価値観を無批判に受け入れるのでなく、自分の中で自問自答・自己検討を忘れずに行なう。行い続ける。それが有るとないとが、自己肯定感・幸福感に違いとなって出るのではないでしょうか。「他ならぬ、自分自身が選んだ道」という実感の有無にも繋がるでしょうから。
冒頭で述べた調査結果の一方で、未婚者の中でも寂寥感を覚えない人の割合が増加傾向というデータもあるそうです。
関連サイト:
「東洋経済オンライン」(https://toyokeizai.net/)より
「1人でも「寂しくない」未婚者が増える背景」(https://toyokeizai.net/articles/-/246355)
外界のコミュニティに精神的に依存するのではなく、己の中に拠り所を作れている人が増えているのではないか。そんな分析がされていました。事実なら、頼もしい話です。
そういえば。近年の20代が童貞である事を羞じる事はなくなった、そんな話も聞きます。自己肯定感を、性行為の有無に左右される事がなくなったからだ、という意見も聞きます。そうだとすると、ある意味で良い傾向だと思います。まあ、次世代確保という点からは頭が痛いのかもしれませんが。
関連サイト:
「ライブドアニュース」(https://news.livedoor.com/)より
「【トイアンナ】なぜ40代は「若者の童貞化」を許せないのか? 「ヤラハタ」という呪いがあった時代」(https://news.livedoor.com/article/detail/17180929/)
「童貞か否か」を自他が気にし、時にはマウンティングや侮蔑の対象とする。そんな事象がまかり通ったのも、「性体験の有無」に自己肯定を依存する風潮が少なくとも世間の一部で存在したから。その風潮を無視して突っ張るのは容易ではない時期があったから。そう解釈する事はできそう。それを念頭に置くと、私としては若者たちに「頼もしさ」を感じます。エールを送りたくなってきます。次世代確保という面からは、色々と考えないといかんのでしょうけどね。
という訳で。毎度のことではありますが、
人の才や器は人体の一局所の特殊な摩擦経験の有無によって決まるものではない
独りで生きて何が悪い
という結論でまたも締めておこうと思います。
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