空襲後、焼野原の東京で行われた昭和二十年六月場所〜厳密には、無観客じゃなかったんですね〜
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収束する気配のない、新型コロナウイルスの脅威。それを受けて、大相撲三月場所も無観客での開催を決定したそうです。
テレビ報道によれば、無観客の本場所は初めてとの事。これを聞いた際、「あれ?大昔に一度あったはずじゃ…」と思ったのですが。実のところ、下記リンク先でも触れられている通り、思い浮かべた「昔の事例」は非公開ではあったものの厳密な「無観客」ではなかったようです。
関連サイト:
「NHKオンライン」(https://www.nhk.or.jp)より
「大相撲春場所 無観客で開催へ 力士感染なら中止も」(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200301/k10012308621000.html)
という訳で。今回は、「昔の事例」たる昭和二十年六月場所についてせっかくなので少しお話ししようかと。
第二次大戦の末期にあたるこの年の三月十日、東京は大空襲によって焼野原となりました。両国にあった当時の国技館もこの際に炎上。また、現役力士である豊島や松浦潟をはじめとする相撲関係者からも、空襲の犠牲者を出している状況でした。しかしながら、六月。軍部の意向もあって、相撲協会は焼けた国技館で本場所開催を強行。状況が状況なのもあって、非公開で七日間のみ。観客は高級軍人や傷痍軍人、女学生といった極少数の招待客のみでした。そして幕下以下は、春日野部屋の仮土俵を用いて五日間。これも非公開。
ただし、海外向けの短波放送で実況は行われたのだそうです。なお、一般国民が短波を聞くのは禁じられていたそうで。軍部を中心とした、「日本はまだ屈していない」という対外的なアピールという性格がこの本場所開催には強そうですね。
さて、この異例づくめの場所で優勝したのは、東前頭1枚目の備州山大八郎。アンコ型で、出足の速い押し相撲を身上とする力士だったようです。成績は7戦全勝でした。初日に横綱羽黒山を破る金星、四日目に大関佐賀ノ花を倒す銀星を提げての偉業です。翌十一月場所で関脇に昇進したのが、彼の最高位となります。
なお、横綱陣は、東の照国と西の羽黒山が5勝2敗。東張出の安芸ノ海が6勝1敗と地位の面目は保っている印象です。なお、大横綱双葉山はこの時は西張出で、初日に小結相模川を破って以降は休場。翌場所も休場し引退していますから、この初日が双葉山最後の取組となりました。
そして、6勝1敗と好成績を挙げた関脇東富士は、場所後に大関昇進。やがて戦後初期に怒涛の寄りを武器とする横綱として名を轟かせる事になります。
戦前を代表する不世出の横綱が最後の取組をする一方、次世代のホープがいよいよ大関昇進を確実に。ひっそりとながら、時代の変わり目にもあたる場所だったようです。
さて、この春場所を無観客とは言え開催する事には異論もあるようです。僕も正直、何が正解かはまだ明言できません。今はただ、このまま開催されるにせよ、中止を余儀なくされるにせよ、後世から見てより良い未来の第一歩であって欲しい、そう祈るばかりです。
この場所の成績は下記サイトを参照しました。
関連サイト:
「相撲レファレンス」(http://sumodb.sumogames.de/Default.aspx?l=j)
そのうち、昭和二十年六月場所はこちら。
「昭和20年夏場所」(http://sumodb.sumogames.de/Banzuke.aspx?b=194506&l=j)
【参考文献】
半藤一利『大相撲こてんごてん』文春文庫
須藤功『写真ものがたり 昭和の暮らし4 都市と町』農山漁村文化協会
荒井太郎『歴史ポケットスポーツ新聞 相撲』青空ポケット新書
水野尚文・京須利敏編著『平成19年版大相撲力士名鑑』共同通信社








