建武の乱における、討ち取ったと誤認した話〜これも「正成の罠」と人は認識?〜
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「戦場の霧」なんて物言いを、時に聞きます。また、「人は信じたいものを信じる」なんて言葉も聞いた事もあります。そうした言葉に関連した話題として。「ある人物が戦死したか生存しているかの情報が錯綜する」という現象が時にあるようです。
戦国期にも、上杉謙信の家臣・落合信介を川中島合戦で討ち取ったと、武田氏が誤認したという話があったようで。どこまで事実かは存じませんが。
関連サイト:
「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」(http://iiwarui.blog90.fc2.com)より
「我が心を証人とする」(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12362.html)
戦国だけでなく、南北朝にもそうした話は当然ありました。
ここで参照するのは、『太平記』第十五巻。色々あって建武政権と敵対する事になった足利尊氏と、建武政権側の軍勢(以下、「宮方」と呼称)が京の都を巡って激戦を繰り広げていた時の事です。宮方の有力武将である楠木正成が、一計を案じました。戦闘があった翌日、数人の律僧たちを戦場となった市街に行かせてこう言わせたのです。
昨日の合戦に、新田左兵衛督殿、北畠源中納言殿、楠木判官殿以下、宗徒の人七人まで討たれて候ふ程に、孝養のために、その尸骸を求め候ふ也。
(兵藤裕己校注『太平記 二』岩波文庫 471頁)
〈超意訳〉
昨日の合戦で、新田義貞殿、北畠顕家殿、楠木正成殿など、主だった人が七人も討たれなさったので、供養のため、その亡骸を探し求めております。
当時、律宗の僧侶たちは時宗僧同様、人々の葬礼に関与していましたから、戦死者の亡骸を探し求めるのは不思議な事ではありません。
あな不思議や。宗徒の敵どもの皆一度に討たれたりける。さればとよ、勝ち軍をばしながら、官軍京をば引いたりける。いづくにかその頸どものあるらん。尋ねて獄門に懸け、大路を渡せ
(同書 471-472頁)
〈超意訳〉
ああ、不思議な事もあるものだ。主だった敵たちが皆、一度に討たれたとは。なるほどそのせいだ、勝ち戦をしたのに、官軍が京から引き上げたのは。どこに彼等の首級があるのだろう。探し出して獄門に晒し、都大路を渡すのだ。
確信が持てるような首級は見つからなかったものの、兵達の功名心とか、足利軍首脳部の「本当だと信じたい心理」とかが働いてでしょうか。「ちと面影の似たりける頸」(同書 472頁)二つを、義貞と正成の首級として晒したそうで。
ところが京童の目にも疑わしかったのか、それとも宮方の工作員によるものか。
これはにた頸なり。正成にも書きたる虚事かな。(同書 同頁)
といった落書が記される一幕も。因みにこれ、「似た」と「新田」、「まさしげ(本物っぽい)」と「正成」に引っ掛けているのは申すまでもありますまい。
それはさておき。かくして敵将を討ち取り勝ったも同然と油断した足利軍。敵陣に動きが見えても、
すはや、山門の敵どもこそ、大将を討たせて、今夜皆方々へ落ち行くげに候へ(同書 同頁)
〈超意訳〉
ややっ、山門(比叡山)にいる敵たちは、大将が討たれたので、今夜皆であちこちへ逃げ去っていくようですぞ。
と相手が逃げるものと決めつけてのんでかかっています。そこへ思わぬ総攻撃を受け、足利軍は大敗。そうしたストーリーの流れになってます。
この『太平記』の逸話、余りに面白すぎてそのまま事実と受け取るのは問題がありそうです。しかし、一方で元となる何らかの事実があった可能性もまたある。
という訳で、この時期を扱ったもう一つの軍記物『梅松論』も見てみましょう。やはり、上洛した足利軍と都を奪還しようとする宮方との戦いの最中の話です。少し長いでふが、まずは原文をば。
御方の軍兵馳向て責戰し程に。越前國住人白河小次郎義貞と號して討て頸を取。赤威の鎧をはぎ取て来る間。諸人大慶の思ひをなす所に。是は義貞にてはあらず。葛西の江判官三郎衛門が頸なり。存日に義貞に顔色こつがらも少も替らず。赤威の鎧を着たりけるを。聞ゆる義貞重代の鎧薄金と同毛なる間。一旦大将討取たりとて。御方のよろこびけるも斷也。(『群書類従 第拾參輯』経済雑誌社 168頁)
〈超意訳〉
御味方の軍勢が敵に攻めかかって戦っている時のこと。越前国住人白河小次郎が義貞のものだと称して討った敵の首級を取り、その敵が着用していた赤威の鎧も剥ぎ取ってきたので、人々が大いに喜んでいたが、これは義貞ではなく、葛西の江判官三郎衛門という人の首級であった。義貞と顔色や骨柄がよく似ており、着ている赤威の鎧も義貞が着用する家代々の薄金の鎧と同じような色なので、間違えるのも無理はなかった。
ここから先は、確たる根拠のない僕の妄想です。ひょっとしたら。『梅松論』にあるような、義貞辺りを討ち取ったと誤認してぬか喜び、という出来事は実際にあったのかも知れない。で、そのすぐ後に足利軍は敗北し、京を捨てて西国に走る羽目になった。そして、その二つの記憶が誰かの中で悪魔合体。その結果、一部で「実は、あれは、御味方を混乱させるための正成の罠だったんだよ!」「な、なんだってー!」なんて話が生まれたのかも。そういえば、その後の足利軍について、『梅松論』はこんな話も伝えていました。軍勢を立て直し西国から再上洛する途中、味方の水軍が合流。しかし、足利軍はこの新手を見て正成の計略ではないか、と一騒ぎになったそうで。勢いに乗った状況で、味方が更に数を増やす。そんな意気上がる筈の場面ですら、足利軍はありもしない正成の影に勝手に怯え、パニック寸前になっていた訳で。それを思うと、京での大敗と正成が結びつけられた可能性は、なくもなさそう。
で、『太平記』編纂にあたっていた著者が、思惑もあってこれ幸いとこのエピソードに飛びついた。そんな妄想も、湧いてきます。
この妄想がどこまで当たっているかは、存じません。なので、話半分にご覧いただければ幸いです。無論、『太平記』が記した正成の大活躍が事実だった可能性も否定できません。キレッキレな出来の落書もありますし、これはこれで虚構と片付けるのは勿体ないように思います。
まあ、何にせよ、『太平記』と『梅松論』を照らし合わせて読む、という作業は時に興味深い想像をもたらしてくれる、と言う事はできそうです。
【参考文献】
兵藤裕己校注『太平記 二』岩波文庫
『群書類従 第拾參輯』経済雑誌社
『精選版 日本国語大辞典』小学館
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