山岡荘八『伊達政宗』(ただし漫画版)で、心に引っ掛かった言葉〜例によって仏教関連〜
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引き続き、重苦しい辛いニュースが続きますね。ですが、敢えて平常運転といたします。でないと、こちらも精神的に持ちそうにないので。
さて、大河ドラマにおける伝説的名作の一つに、『独眼竜政宗』があります。その原作となったのは、山岡荘八の小説。主人公・伊達政宗は幼少期から虎哉禅師による薫陶を受けました。それだけに、特に幼少期を描いた序盤は仏教的な話題もちらほら出てきます。今回、手元にある横山光輝先生の漫画版を題材にして、その辺りに触れてみようかと思います。
幼い梵天丸少年(のちの政宗)の教育を始めるに当たって、禅師は若君の付き人たちにまず様々な事を言って聞かせます。基本的な教育方針を了解させるためです。
その中の一つが、「自燈明 法燈明」という言葉。これについて、禅師は「誰も直接 お釈迦さんに 会っておらぬ わしも 又聞きの 又聞きでの」(横山光輝 山岡荘八原作『伊達政宗 1』講談社漫画文庫 95頁)と前置きした上でブッダの言葉として「自燈明」は
お身たちは自らを 燈明として 自らを 拠りどころとして 決して他人をあてにしてはならぬ(同書 同頁)
という意味だと解説。ただし、最初から自分自身は照らす燈明は持っていない。だから、法、つまり「天地の自然 宇宙の真実」(同書 96頁)を寄りどころに他人を頼らず修行(これが「法燈明」)すれば「自分の燈明であたりがよく見えるようになる」(同書 同頁)とのこと。
世間というのはあてにならない。だから、宇宙レベルの視野を片隅に持って自分自身をしっかり持つ。そういう事なのかも。これで合ってるかどうかは分かりませんが。ただし。これ、気をつけないと独善に陥る危険もありそうです。とりあえず、禅には「これが正しい」「これが悟りだ」という思いが生じたら、それは即ち迷妄に他ならない、という教えがある事もここでは触れておきましょう。
閑話休題。虎哉禅師は、更に法句経の文句として
己こそ己の主である 他にいかなる主があろうぞ 自分自身を立派に調御された時 はじめて大きな力が出る おがむのは自分をおがめ(同書 同頁)
と若君に教えていくとも続けました。この言葉については、過去に触れた記事があるようです。
更に序盤で虎哉禅師絡みで心に残ったのは、禅師を訪れた雲水の
人間など神仏に 見放されますと 馬から落ちましても 死ねまするし 正月の餅一切れ咽喉につかえても死ねまする(同書 192頁)
という台詞。どう足掻こうと、どれほど科学技術が進もうと、人の命は、人間の力ではどうにもならぬ部分はある。予測できぬところはある。僕の中で魚の小骨のように刺さって、死生観に幾許か影響を与えたように思います。
余談ながららこの雲水が信長を評した「生み落とされた 母の御前に 生命を狙われ 血肉をわけた ご舎弟を斬らねばならぬ羽目となり」(同書 190頁)という件、政宗のその後を思うと意味深長ではあります。
死と常に背中合わせだった乱世。そこに生きた人々の精神には、伝統と思索に裏打ちされた宗教的思想が現代とは比べ物にならぬほど深く根を下ろしていました。その辺りもきっちり描いてくれる辺り、原作も名作と称するに足るかと思います。そうした要素は、現代人にとっても、時には響くものがある。特に、この頃は。つくづく、そう思います。
【参考文献】
横山光輝 山岡荘八原作『伊達政宗 1』講談社漫画文庫
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