<言葉>「平常心是道」〜日常を守り続けるのも修行であり戦いです〜
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新型コロナへの対策という事で、世の中全体が大変な状況ですね。相変わらず。しかしそんな中でも、人間は腹も減るし、眠くもなる。だから、こういう状況であろうと、日常を守り続ける事はとても大事です。今回は、そんな感じの禅語を。
お題は、「平常心是道」。お茶席で、床の間にこの言葉がかかっているのをご覧になった方もあるかと存じます。
『無門関』第十九によりますと。趙州禅師が若き日、師匠である南泉禅師に「如何是道」と質問したところ、南泉が答えたのがこの言葉なんだそうです。
そしてこれ、南泉のオリジナルでもなく、そのまた師匠である馬祖道一が言及した言葉だとか。『景徳伝燈録』にそうした記載があるそうです。
正直を申しますと、『無門関』におけるこの言葉が出た後のやりとりは、いかにもな禅問答、といった内容だったので省略いたします。いや、ホントは省いちゃいかんのでしょうが、下手に首突っ込むとボロが出るのが目に見えてますから。ご勘弁を。
この五文字について、新井石禅は
道なるものは必ずしも高尚悠遠にして模索すべからざるものと思ふてはならぬ。
吾人の平常心が其の儘道の現はれであるという意味
(いずれも新井石禅著『修道禅話』丙午出版社 一頁)
と解説。「夜が明ければ起きる。起きれば洗面する。茶を飲む、飯を喫する、業務に就く、応接を為る」(同書 同頁)といった日常のなすべき事、それこそルーチンにしているような事の中に、「道」はある。そういう解釈のようです。
だから、そうした日常生活そのものが、修行である。等閑にこなしていては、いけない。そういったお話になりそうですね。大変だ、こりゃ。
起居、洗顔、食事、掃除、入浴などなど。そういった、普段から何気なくこなしている日常生活動作。それだけでなく、日常のさり気ないところにある小さな喜びを見つけ出す。それらを間違いなくこなし、日常を守り抜く。それもまた紛れもなく仏道であり、修行である。そういう事になるんでしょうか。何分、半可通の身なので何かしら勘違いしてるかもしれませんけど。
日常を守る事が容易でなくなりつつある今、小さな幸せを見出し笑顔で過ごす事にも努力を要する今。この言葉が胸の奥に染みてくる思いがいたします。何気ない日常を心して過ごし、守り続ける。能う限り、幸せを見出し、笑顔を心がける。これもまた、コロナとの戦いなんだと思います。
【参考文献】
『国訳禅学大成 第七巻』二松堂書店
井上秀天著『無門関の新研究 中巻』宝文館
新井石禅著『修道禅話』丙午出版社
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