<言葉>「看脚下」「照顧脚下」〜まずは自分の周りから〜
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新型コロナウイルスによる災禍、まだまだ気が抜けぬ状況が続いています。それだけに世や人のあれこれ、天下国家の云々に思う所が生じるのも人の情の自然かとも存じます。
そんな中、今回お題とする言葉は「看脚下」および「照顧脚下」。
「看脚下」とは、『碧巌録』にある言葉だそうです。法演禅師が夜道を歩いていた際、途中で手にしていた灯が消えました。そこで、同伴していた三人の弟子たちに「一転語を示せ」、と禅問答を仕掛けます。何でも、暗い道を人生に見立て、見解を求めたのだとか。弟子たちがスケールの大きそうな答えを返す中、最後の圜悟克勤が返した答えこそが「看脚下」だったのです。意味はそのまま、「足元を見ろ」。暗闇の中だからこそ、自分の足元をちゃんと確認しないと危ない。考えてみれば、当たり前の話です。しかし人生も世間も、そして禅もまた、同じ事だというのです。まずは、自分がいるこの時、この場所を見つめ直す事が第一という事ですね。
因みに圜悟克勤は南宋の禅僧で、門人教育のため『碧巌録』『撃節録』を編纂した事で知られます。書に長じ、その墨跡は後世まで珍重されました。
「照顧脚下」もまた、同様に足元に注意しろ、という意味です。禅寺の玄関によく掲げられており、履物をきちんと揃えて脱げ、という意味合いもあります。しかし、「看脚下」同様に人生や禅の真髄に関わる言葉でもあるそうな。
こちらは『徹心録』由来だそうで、三光国師が「如何なるか是れ祖師西来意」と問われた際の答え。達磨大師が西のインドから中国へやって来た理由は何か、すなわち禅の意義は何か、という問い。それへの答えがこれなんだそうで。「看脚下」と同様な意味合いを読み取ってよさそうな。
因みに三光国師こと孤峰覚明 は、鎌倉から南北朝にかけての禅僧。元で修行し、帰国後は後醍醐・後村上天皇から帰依を受けています。
深遠な心理や天下国家に想いを馳せるのも大事かも知れぬ。しかしそれもまた、己の足元、すなわち今この時、この場所をしっかり見つめて認識する事が第一である。そこから始めなければどうにもならぬ。そうでなければ、足元がぐらついて倒れる。そう解釈する事も不可能ではなさそうです。
無論、「こうに違いない」と決め付けたり思い込んだりは禁物でしょうけど。青天也須喫棒。
でもまあ。僕自身も含め、大半の人は手や目が届くのは、とりあえず我が身やその周り。まずはそこに力を尽くし、その上で徐々に視線を広げていきたい。そう考えています。
【参考文献】
『国訳禅学大成 第一巻』二松堂書店
有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社
武田鏡村『禅のことば 人生を豊かに生きるための120選』PHP研究所
『日本人名大辞典』講談社
『日本大百科全書』小学館
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