<言葉>森於菟『なきがら陳情』より〜文豪の嫡男、生きている人間を怖がる?〜
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今回取り上げる「言葉」は、為になるお言葉でも名言でもありません。どちらかと言えば「変わった発言」寄りですが、心に引っ掛かった言葉です。まあ、最近は堅苦しい禅語ばかり話題にしてた気がしますし、たまにはこういうのもありでしょう。いささか不謹慎のきらいがある領域に踏み込むかもしれません。あらかじめご了承ください。
近代の文豪・森鴎外の長男、森於菟。彼は解剖学者の道を進み、その一方で晩年は随筆家としても事績を残しました。その作品集である『耄碌寸前』について、以前、話題にした事があります。飄々としたユーモアと確かな知性に裏打ちされた、父の名を辱めぬ文章だったと記憶します。そんな随筆の中で、僕が好きな一つに『なきがら陳情』というのがあります。クスリとさせるユーモラスな筆致の中に、そこはかとない哀しみも通低音として感じさせる逸品。
閑話休題。哲学者・中島義道は、鴎外を「ぐれていなそうでぐれている作家たち」(中島義道『ぐれる!』新潮新書 176頁)の一人に分類していました。ならば、鴎外の子供達のうち、そうした一面を強く引き継いでいるのは於菟じゃなかろうか。個人的にはそう思っているのですが、『なきがら陳情』は於菟のそんな側面が割に強く出た作品かと。
脱線したので話を戻しますと。『なきがら陳情』の冒頭近くに、こんな話が出てきます。
戦前、陸軍士官学校から毎年、東京帝国大学における解剖学実習の見学のため士官候補生たちが送り込まれていました。そんな中、於菟が引率教官に見学の目的を尋ねると、「勇気を養うためであります。」(森於菟『耄碌寸前』みすず書房 75頁)とのこと。
恥ずかしながら、この詳しい意味は未だにわかりません。「解剖中の遺体」という、ともすれば恐怖の対象となりかねない「非日常」の極みを見せ度胸をつける、という話でしょうか?だとしたら、正直どうかと思わなくもないですが。もしくは、職業柄、死と隣り合わせになる軍人の卵たちに学生のうちから「メメント・モリ」な感覚を持たせ慣らせる、といった意味があったのかもしれない。その辺りの意図は、今なお読み解けないでいます。まあ、時代だなあ、とは思います。とはいえ当事者たちの名誉のため、候補生・指導教官たちの見学態度は礼節に富み真摯なものであった、と於菟が証言している事は一応言及しておこうかと。
ともあれ、引率教官からの答えを聞いた於菟は
実は、僕としては、生きている兵隊さんを見ることの方が、よっぽど勇気を養うことになるのである。実際、こう長い間死体といっしょに生死(?)を共にしてくると、僕にとっては死体の方がよっぽど馬が合う。(同書 同頁)
などと言っています。どうやら御遺体より、生きている人間の方が怖いらしい。やれやれ。
実際、後の頁で雑誌社から電話連絡を受けた際には、「白昼死体置場にお化けが出てきたよう」(同書 77頁)な気分なので、「もう一度死体の顔でも見てこなきゃ生きた心地がしない」(同書 同頁)とこぼしている始末。そんな於菟の本音は、やはり以下のようなものみたいです。
一般に申して、僕はどうも生きた人間と接するのが苦手である。(同書 同頁)
解剖学的には、いやになるほど似ていてほとんど何の変わりもない肉体に宿っている、亡霊の種類が、余りにも多様なので、どう先様を扱ってよいのやら、全くわからなくなることがある。(同書 78頁)
とは言え正直、この辺りは身につまされます。流石に、生きた人間より御遺体の方が馴染みやすいか、と問われると言葉に困ります。ですが、心情はわかる気がしてしまう。改めて考えてみれば。生きている人間と接するのは、とかく危険が付き纏います。どう対応してよいのか、個人差が大きすぎてわからない。傷つけてしまうかもしれず、傷つけられるかもしれぬ。悪意や敵意をぶつけられるかもしれず、あるいはぶつけてしまうかもしれぬ。時には、相互に身の危険を恐れなければならぬ。そして、また改めて思えば。だが相手が御遺体なら、侮辱や危害を受ける心配は基本的にありません。少なくとも、科学的に妥当性がある、もしくは客観性などに信頼がおける資料による限りは、そうした事例は現時点では報告されていない、はずです。多分。極端ではあるし、いささかならず不謹慎な考えとは言えます。ただ、理解はできなくもない。ましてや、職業柄慣れ親しんでいる於菟なら尚更、生きた人間より御遺体の方に親近感を寄せても不思議はないかもなあ、とも。やっぱり、「ぐれていなそうでぐれている」気がするなあ、於菟さん。
その意味ではこの発言、
幽霊より生きてる人間の方が よっぽど怖いんでね…!
(『金田一少年の事件簿R』亡霊校舎の殺人 第5話より)
という台詞に通じるものがあるかも。まあ僕は幽霊も十分怖いんですが、それでも実在が証明された脅威という点では確かに生きた人間に及ばないのも事実。
この新型コロナ騒動で、多くの人々は死を身近なものとして、現実のものとして、向き合わざるを得ない羽目になりました。その結果、様々な人間の業が剥き出しになったように思います。それを受け、「ウイルス怖い、そして人間はもっと怖い」となった人も少なくないのでは。そんな形で、自分の業と直面した人も結構いるのでは。
それでもまあ、我々は、残念ながら(?)、我々自身が「生きた人間」である以上は、生きた人間たちに混じって交わりながら暮らしていかざるを得ないわけで。衝突事故を避けるよう距離感に心して生きるか、衝突覚悟で交わっていくか。その辺りでどんな答えを選ぶかは、人によって違うし、どちらが間違いという訳でもないのでしょう。
ただ、それでも。僕個人としては、生きた人間同士の衝突がもたらす様々な憤懣や悲劇を見るにつけ、少なくとも今は距離感に心した方がよいのかなあ、という方向に傾いているのは否めません。ソーシャルディスタンス、ソーシャルディスタンス。無闇に近付かず、かといって過剰に遠ざけず。「正しく怖がる」必要があるのは、ウイルスだけじゃないな、などと詮ない事を思ったりするこの頃です。我ながら、臆病極まりない発言ではありますけれども。
【参考文献】
森於菟『耄碌寸前』みすず書房
中島義道『ぐれる!』新潮新書
漫画・さとうふみや、原作・天樹征丸『金田一少年の事件簿R』(アプリ「マガポケ」にて参照)
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※2020/6/3 誤字修正。








