後花園院、足利義政、一条兼良に続いて漢詩を詠じたのは…中御門宣胤〜この人も、当時の碩学〜
|
新型コロナ禍がまだ収まりきらず再燃の兆しがある一方、九州を中心とした豪雨災害。世の中、どうなっているのやら。
さて。ここしばらく、寛正五年(1464)の三席御会で詠じた漢詩を続けてご紹介しました。後花園院、足利義政、そして一条兼良。実はこれに続いてもう一人、漢詩を献じた人がいます。その漢詩は、こちら。
黄道雲開日色晴
蓬莱闕下仰高明
八紘知是仁恩洽
野老謳歌唱太平
(『史籍集覽 一二 重篇応仁記』近藤出版部より)
黄道 雲開きて 日色晴れ
蓬莱 闕下 高明を仰ぐ
八紘 是を知る 仁恩の洽しを
野老 謳歌し 太平を唱ふ
〈超意訳〉
太陽の道を雲が開けて晴れとなるように、天子の道も開けて天下を照らしています。
仙人たる院の御前で高く明らかな徳を仰いでいます。
天下は天子の仁徳・恩徳があまねく行き届いているのを知っており、
片田舎の老人すら、声を揃えてその徳を称え、天下は太平だと申しております。
平仄及び押韻は下記の通り。○が平声、●が仄声、△は平声仄声ともに可、◎は韻脚になります。平仄を始めとする漢詩の規則については、こちらをご参照ください。
○●○○●●◎
○○●●△○◎
●○○●○○●
●●○○●●◎
韻は「晴、明、平」の下平声八庚。通常の仄起式七言絶句と見て良さそうです。
この詩の作者については、これまで参考にしてきた『重篇応仁記』を収載する『史籍集覽』は「蔵人頭正四位上行左中弁兼伊勢守藤原朝臣」(同書より)とあります。誰のことか、これだけでは素人には厳しい。他の記録にも当たってみます。やはりこの会について記した『蔭凉軒日録』には「中御門殿」と注釈が。この時期の中御門さんというと、中御門宣胤(1442-1525)でしょうか。…とか言ってたら、『続国史大系 第七巻』に収載された『義政将軍記』廿二下には、この詩の作者について「藤原朝臣宣胤」(『続国史大系 第七巻』経済雑誌社 千百八頁)とも。やはり、宣胤で良いようです。
せっかくなので、中御門宣胤について少しご紹介を。彼の生家・中御門家は藤原北家勧修寺流で、鎌倉後期に坊城経俊の四男・経継が祖です。宮廷貴族としては、権大納言を極官とする「名家」に分類されます。宣胤もまた、先祖達と同様に長享二年(1488)に権大納言になっています。それまでの昇進コースで様々な官職を経験しているのは無論の事で、後花園や後土御門の蔵人頭(天皇の主席秘書官)も歴任しました。まさに、この詩を詠じた時期です。上記の肩書にもありましたね。
さて、宣胤について特筆すべき事と言えば、貴族社会において碩学として存在感を発揮した事でしょう。前回ご紹介した一条兼良に故実などを学び、応仁の乱以後には荒廃した朝廷儀式の復興に尽力しました。『万葉集』の索引というべき『万葉類葉抄』をものすなど、古典にも造詣深い存在でもありました。書家としても当代一級だったと伝えられます。そして日記『宣胤卿記』は、儀式や経済など当時の朝廷事情を知る上で貴重な史料とされています。
当代きっての碩学で、天皇の信頼厚い秘書官。まさに、後花園や義政、兼良といった錚々たる面子に名を連ねて詩を献ずるにふさわしい存在だったと言えそうです。
では、以下で語句解説を。
・黄道
天球上における太陽の通り道。天子の道。
・蓬莱
仙人世界の一つ。山東半島の遥か先にあるとされる。院(上皇)が仙人に擬えられるこが通例であるためか。
・闕下
宮闕のもと、天子の御前。闕とは、宮殿の門を意味する。
・洽
遍と同じ。あまねく。
・野老
田舎の老人。老人が自分を謙る際にも用いる。
・謳歌
声を揃えて歌う、声を揃えて称える
・太平
世が治り平和であること。雅楽「太平楽」を表す事も。
現在の我々を取り巻く状況とはかけ離れた内容に思われる一篇。しかしこの時代も現実問題としては色々あったわけで。ここまでご紹介してきた漢詩の数々も、むしろだからこそ天下泰平の「祈り」を込めたものと見るべきなんでしょうな。
【参考文献】
『史籍集覽 一二 重篇応仁記』近藤出版部
『大日本仏教全書 蔭凉軒日録 第一巻』仏書刊行会
『続国史大系 第七巻』経済雑誌社
久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝』戎光祥出版
『日本大百科全書』小学館
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『大辞泉』小学館
『世界大百科事典』平凡社
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『角川新字源改訂版』角川書店
菅原武『漢詩詩語辞典』幻冬社ルネッサンス
関連記事:








