高倉天皇の漢詩〜悲運の帝王が示した風流の才〜
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高倉天皇、という天皇をご存知の方はどれくらいおられるでしょうか。第八十代とされ、生没年は1161-1181、在位1168-1180。父は後白河天皇、母は建春門院平滋子です。
在位した時期は父・後白河と実力者平清盛による政治的対立があり、その板挟みにあって苦悩しました。治承三年(1179)には清盛がクーデターで後白河を幽閉、翌年には建礼門院平徳子(清盛の娘)との間に生まれた安徳天皇に譲位し、形式上は院政を敷くことになりますが間も無く病没しています。
なお、この高倉天皇は詩歌管弦に長じ、中でも笛の名手だったとか。今回は、この高倉天皇の漢詩をご紹介しようかと。
治承二年(1178)六月十七日、清涼殿で漢詩文の会が催されました。その席の終わりに天皇自らがものした作品がこちら。
禁庭月下勝遊成
有管有絃有頌声
宴席愁追延久跡
詞花猶異昔風俗
(『帝室制度史 第二巻』ヘラルド社 501-502頁)
禁庭 月下 勝遊を成す
管有り 弦有り 頌声有り
宴席 延久の跡を 追いて愁ふには
詞花 猶異なる 昔の風俗と
<超意訳>
宮中の庭園で、美しい月が出ている中、遊覧を楽しんだ。
横笛・笙などの音色もあれば、琵琶・琴も響き、太平を讃える歌声もする。
宴席で、後三条天皇の時代であった延久年間の古例を追慕しつつ憂うるには、
今の優れた詩歌・文章はなお、昔の風俗歌のようにはいかないことだ。
この逸話を記した『古今著聞集』は「高倉院の風月の御才は、むかしにもはぢぬ御事ぞと世の人申ける」(同書 501頁)という一例としてこの話を紹介しており、この詩に「人々感じける」(同書 502頁)としています。政治的には不遇で夭折した悲運の帝王の、風流の才を示した逸話と言えるでしょう。
平仄及び押韻は下記の通り。○が平声、●が仄声、◎は韻脚になります。平仄を始めとする漢詩の規則については、こちらをご参照ください。
○○●●●○◎
●●●○●●◎
●●○○○●●
○○○●●○●
韻を踏んでいるのは「成」「声」の下平声八庚。平仄や韻の位置は、絶句としては有り得ない形です。古詩と見做して良いかと。
・勝遊
心にかなった遊覧。
・管、弦
管楽器、弦楽器。ここでは、横笛や笙などと、琵琶・琴など。
・頌声
功徳や平和を賛美する声。
頌とは、中国における詩の形の一つ。『詩経』で王室や諸侯が祖霊を讃える歌を元来は意味していたが、やがて個人の徳などを讃える文体を意味する様になった。四字一句で、偶数句で押韻する。
・延久
1069-1074の間、後三条天皇と白河天皇の時代に相当する。後三条天皇即位に伴って治暦から改元。
・詞花
巧みに美しく表現された詩歌・文章。詞藻とも。
・風俗
風俗歌。東国民謡の著名なものを貴族社会が受け入れて編曲したもの。元来は大嘗祭において悠紀・主基に定められた二国が歌った風俗歌であった。『楽章類語鈔』『承徳本古謡集』『古今集』などに五十数首が記録され、平安期には貴族たちによって娯楽として愛好されたが鎌倉初期に廃れた。
【参考文献】
『帝室制度史 第二巻』ヘラルド社
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『大辞泉』小学館
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『世界大百科事典』平凡社
『角川新字源改訂版』角川書店
菅原武『漢詩詩語辞典』幻冬社ルネッサンス
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