2020年 09月 19日
南朝遺臣ながら、足利将軍家に重んじられた伝統貴族の話〜歌道の重鎮、花山院長親〜
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六十年にわたる南北朝の争い。この戦乱は、足利政権が圧倒的な武力をもって、敵対してきた南朝を自らが奉じる北朝に吸収させる結果となって終わりました。旧南朝の皇族や廷臣たちには、そのまま表舞台から消えていった人も多いでしょう。長慶天皇や宗良親王のようにいつどこで没したかすら異説がある人もいるレベルですから。
しかしそんな中、南朝の大物でありながら、南北合一後は勝者である足利将軍家から尊重された人物もいます。それが、今回扱う花山院長親(?-1429)です。
長親の父は花山院家賢で、祖父は師賢。師賢は、後醍醐天皇が鎌倉政権に対し挙兵した際にこれに殉じた(※1)人物で、太政大臣を追贈されました。父は内大臣となっています。
※1 後醍醐天皇が奈良に逃れる際、鎌倉方の目をくらますため天皇の替え玉として比叡山に上り挙兵したという逸話がある。挙兵が失敗した後、笠置で後醍醐と合流するが敗北後にとらえられ下総に流罪となり、そこで死去。
長親も父祖同様に南朝に仕え、権中納言や文章博士を経て内大臣となっています(文献によっては右大臣とも)。
南北朝合一前後に出家し、耕雲と号しました。面白いのはその後で、南朝旧臣という経歴にもかかわらず、義持・義教と歴代足利将軍から重んじられているのです。その理由は、和歌指南。
元来、和漢の教養に富んだ人物であり、南朝時代にも宗良親王が『新葉和歌集』を編纂した際に相談にあずかったという事です。その後も歌集『耕雲千首』『耕雲百首』や歌論書『耕雲口伝』などの著作があります。その歌論は漢詩や禅による影響も指摘され、当時の歌壇で主流だった二条派よりも柔軟な考え方をしていたとされます。
和歌以外にも、仮名文字の起源や音韻に関する研究書『倭片仮字反切義解』や、将軍義持の伊勢行に同伴した際の紀行文『耕雲紀行』、そして面白いところでは渡唐天神(※2)伝説を記した『両聖記』なんて著作もあります。
※2 天満天神、すなわち菅原道真が中国に渡り参禅したという伝説。『両聖記』は、道真が南宋の臨済僧無準師範に参禅し衣鉢を受けたとあり、禅僧の間で好んで描かれた。
多くは歴史の闇に消えた、旧南朝の廷臣たち。しかしその中でも、伝統貴族文化の権威であるが故に出家の身ながら次代にも重んじられた長親。なかなか興味深い、変わった事例なように思われます。
【参考文献】
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『日本大百科全書』小学館
『世界大百科事典』平凡社
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『日本人名大辞典』講談社
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ロゴヴィスタ
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by trushbasket
| 2020-09-19 12:19
| NF








