2020年 12月 12日
永井荷風が教えてくれた、万里小路藤房の伝説地 in 熱海〜文豪はその遁世に理想を見た?〜
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終戦直後の事です。近代の文豪・永井荷風は熱海に短期間身を置いた事がありました。東京の自宅を空襲で失い、焼け出された関係からです。その時期に書かれた随筆『冬日の窓』で、荷風が宿所近くの寺についてこうした言及をしています。
その寺はむかし/\西の方の都から彷徨(さまよ)つて来た尊い人が、初めて庵を結んだ跡だと云ふ。その人はわたくしが日本の史上に最も尊崇する人物の一人なのだ。その人は戦勝の後栄えるべき筈の世の中が、善からぬ政治のために再び敗れる事を予想し、世と人とを見限つて姿を隠したのだ。破るゝを知つて戦ふのも、世を逃れて姿を隠すのも、結果は同じ絶望のさせた事だらう。一人は花やかに、一人は静に、各その身の職分に応じて最後の処置を取つたのだ。罪は世の中に在る。時代に在つて、人には無い。大厦の覆る時、一木は之を支へる力がない。時の運はその力その価なき匹夫にも光栄を担はせ、その才ありその心ある偉人にも失墜の恥辱を与へる。いつの世にも歴史は涙の詩篇ではなかつたか。(永井荷風『冬日の窓』)
戦勝直後に栄えるべき世の中がすぐ乱れる事を予測し、遁世した人物。日本史上で当てはまりそうな人で、僕が知っているのはただ一人。それも、南北朝の人です。その名は、万里小路藤房。
藤房は後醍醐天皇の寵臣の一人として知られる人物です。父・万里小路宣房も後醍醐天皇から篤い信頼を受け北畠親房・吉田定房と共に「後の三房」と称されています。藤房も正二位中納言に昇進し、後醍醐による鎌倉政権打倒の謀議にも参加。後醍醐が笠置山で挙兵した際も付き従っています。鎌倉軍に敗れて捕らえられ東国に流刑となりましたが建武政権が成立すると恩賞方の一員として参画。しかし、恩賞の不公平を懸念して後醍醐に諫言するも容れられず、世の行く末を儚んで京都岩倉で出家し行方をくらませています。
荷風は、こんな藤房について名指しで言及した事はあったろうか。そう思い荷風作品をあたってみたところ、『西瓜』にこんな一節が。
日本の歴史は少年のころよりわたくしに対しては隠棲といい、退嬰(たいえい)と称するが如き消極的処世の道を教えた。源平時代の史乗(しじょう)と伝奇とは平氏の運命の美なること落花の如くなることを知らしめた。『太平記』の繙読(はんどく)は藤原藤房(ふじわらのふじふさ)の生涯について景仰(けいこう)の念を起させたに過ぎない。
(永井荷風『西瓜』より)
やはり、『冬日の窓』で述べているのは藤房の事で間違いなさそうです。では、藤房と熱海に何かかかわりがあるのか。
調べたところ、温泉寺という寺院に藤房が創建したという伝承があるようです。荷風も『断腸亭日乗』で言及している様子。『神典翼』十八之巻には
有温泉寺、傳言、藤原藤房遁世居此、大日本史以爲誣妄、姑附備考
(『神典翼 第三巻』国立精神文化研究所 376頁)
という記載がありました。『大日本史』では、虚妄だとみなされたようですが。
関連サイト:
「静岡県:歴史・観光・見所」(https://www.sizutabi.com)より
「温泉寺(熱海市)」(https://www.sizutabi.com/atami/ontera.html)
史実かどうかはともかく、藤房に対する人々の敬意と共感を伺わせる伝承ではあります。苦境にあっては主君に忠節を尽くし、栄華の世にあってそれに溺れず、かえって世の行く末に絶望し遁世した藤房。世の人々は、彼の身の処し方に一種の清々しさを感じてきたのかもしれません。そして荷風もまたそうした感懐を抱いた一人だったのでしょう。
今回、「青空文庫」を見るともなく見ていた時にぶつかった記述から、話が広がっていきました。直接は関係ないと思っていた別の話題へ、時にこうして繋がっていく。点と点が結びついて線になるように。これもまた、読書の醍醐味です。
【参考文献】
「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp/cards/)より
鶴岡善久『幻視と透徹 詩的磁場を求めて』沖積舎
『神典翼 第三巻』国立精神文化研究所
『日本大百科全書』小学館
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『日本人名大辞典』講談社
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