菊池寛、四條畷合戦を語る
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年明けから少し経ったこの時期。この時期における南北朝関連の話題といえば、四条畷の戦いです。南朝の楠木正行軍と北朝の高師直軍が激突した合戦であります。
この戦いが行われたのは、南朝正平三年・北朝貞和四年(1348)一月五日(旧暦での話ではありますが)のこと。楠木正行は名将として名高い正成の子にあたります。正行はこの時期、畿内における南朝の主力として活躍、立て続けに足利方の武将たちを撃破。事態を重く見た足利方は重鎮である高師直に大軍を預けて攻撃させます。これを迎え撃つ正行は四条畷で少数の兵で師直の本陣に突撃。一時は師直を追い詰めたものの、圧倒的な兵力差の前に最終的には討死。南朝方は大打撃を受け、一方で師直は足利政権内部での発言力を強める結果となりました。一方で正行の激闘ぶりも語り継がれ、父の名を辱めぬ名将として名を歴史に刻んでいます。
さて、この四条畷の戦いについて、文豪・菊池寛が『四条畷の戦』という文章に語り残しています。今回はその文章についてお話ししようかと思います。
冒頭で菊池は、昭和九年(1934)に中島久万吉商工相が足利尊氏を賛美したとして非難され辞任に追い込まれた事件に触れています。この文章、かなり色々と世情がきな臭くなった頃に書かれたのが伺えます。にもかかわらず、結構遠慮のない意見を述べているのが面白いところ。
例えば建武中興について。理由はどうあれ武士たちと伝統貴族の間が円滑にはいかず武士に忿懣が募った事、そこへ加えて恩賞への不満があった事について述べ、その結果として名門武家である足利尊氏に信望が集まったのは故なき事ではないとしています。さらに尊氏についても
人物としては相当のものである。
(菊池寛『四条畷の戦』より)
と高く評価し、「中島商相位に賞められてもいい」としながらも「純忠無比な楠公父子を向うに廻した」のが不運であった、として「恐らく勝利の悲哀を此の男程痛切に味った者は、国史には尠(すくな)いのではなかろうか。」と憐憫を寄せています(括弧内部はいずれも同書より)。末尾に、中島商相を攻撃したと思しい一部貴族院議員への苦言をちらと覗かせているのも含め、時期を考えると割に踏み込んだ発言といえそうな。
さて。主題である四条畷の戦については、彼我の戦力差が歴然であることから
南朝恢復の重任を以て任じて居たものの、正行も、到底勝つべき戦とは思っていなかったであろう。(同書)
としつつも、正行は決して自暴自棄ではなかったとも述べています。これまでの戦歴を踏まえ
元来正行は常に寡兵を以て、敵の不意を襲って大勝利を得て居る。尤もそれより外に方法はないのだ。(同書)
というのを前提として、四条畷でも高師直の大軍を相手に
正行は敢て東条に退いて自重せず、速戦速決で得意の奇襲に出でたと解す可きだろう。(同書)
と推論。どこまでも可能性に賭けたものであろうとしています。
興味深いのは、この時の北畠親房に関する記述。親房は別働隊を率いて堺にいる高師泰(師直の兄弟)に対峙していたと菊池寛は記しています。曰く、
吉野朝廷からは北畠親房が老躯を提(ひっさ)げ、和泉に出馬し、堺にある師泰に対抗して居た。(同書)
とのこと。そういえば、他の戦前の本にも
親房は吉野から河内に下り隆資と共に軍を督し、ここから更に興良親王を奉じて和泉に下つたけれども、正行四条畷に破れ、和泉の吉野軍も沮喪するにいたったのである。正平三年は親房は和泉に止まり、東條の隆資と共に吉野軍の恢復に勉めてゐた。
(辻森秀英著『親房の歴史』厚生閣 128頁)
と記述するものがありました。『太平記』などにはこの辺りの記述はありませんでしたが、根拠となった文献が何かは気になるところ。御存じの方がおられましたら、御教示いただけると幸いです。
さて、以下は余談。九州における南朝忠臣とされる菊池氏を顕彰する「菊池同族会」なるものがあったそうですが、やはり菊池姓である著者・菊池寛も会員であった事が本人により明かされています。なかなか興味深いトリビアですね。
【参考文献】
兵藤裕己校注『太平記 (四)』岩波文庫
辻森秀英著『親房の歴史』厚生閣
『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ロゴヴィスタ
『日本大百科全書』小学館
「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp)より
「菊池寛 四条畷の戦」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1369_37261.html)
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