明治前期における茶室のありよう〜博物館、公園など公共の場における交流の場〜
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茶の湯にとって、明治前半は苦難の時代でした。パトロンであった大名は廃藩置県によって権力を失い、また古寺名刹が廃仏毀釈の嵐の中で没落・荒廃する中で寺内部の茶室も数多く失われたのです。更に西洋文明偏重・伝統文化軽視の風潮も茶の湯にとって向かい風だったのは言うまでもありません。
しかし、明治初期ならではの動きは、茶の湯に新たな生き方を与える事にもなりました。富国強兵・殖産興業のスローガンの下、各地で開かれた博覧会などを通じて提示された茶の湯の新たな展望。今回はそれについて少しお話ししようかと思います。博覧会や博物館の会場で、従来の由緒ある茶室が移築されて多数の人に茶をふるまう会場とされた事が指摘されています。以下、その例をいくつか挙げていきましょう。
明治五年(1872) 第一回京都博覧会
知恩院三門上に煎茶席、建仁寺正伝院に抹茶席。
以後、京都博覧会は毎年のように開催され、明治九年(1876)には御所内、明治十三年(1880)には仙洞御所醒花亭で茶席が設けられた。
明治五年(1872) 金沢兼六園での博覧会
元来は領主である前田家所有物であったが、版籍奉還を期に政府所管となり一般に開かれた施設となる。庭園の東南端に位置する成巽閣を会場として博覧会が開かれ、付属する茶室・清香軒で茶会が催された。
兼六園以外にも多くの大名庭園が明治以降は一般開放されしばしば博覧会場となった。それに伴い、庭園内に茶室が存在することも周知されるようになっていく。
明治九年(1876) 堺博覧会
これを機に塩穴寺から南宗寺に、利休の茶室とされた実相庵が移築された。ただし博覧会には間に合わず、会期中は南宗寺天慶院大黒庵で茶席が設けられている。なお、大黒庵は武野紹鴎好みの茶席と伝えられていた。
明治十年(1877) 上野公園で第一回内国勧業博覧会
前年に東京国立博物館へ移築された興福寺の六窓庵も出展された。六窓庵は金森宗和好みとされる茅葺入母屋造の茶室。興福寺は明治以降、伽藍の維持が困難となり荒れるに任せる茶室を博物館館長町田久成が中心となって移築を進めていた。
明治十三年(1880) 第二回名古屋博覧会
名古屋城の猿面茶室が会場の名古屋博物館に移築された。織田信雄が古田織部に依頼して清洲城に作らせ、後に名古屋城へ移されたという伝承を持つ茶室。床柱に節が二つあり、猿の面を思わせる事からこの名がある。移築から半世紀に亘り博物館に位置し鶴舞公園に更に移されたが第二次大戦で消失し名古屋城内に再建された。
明治二十八年(1895) 奈良国立博物館設置
興福寺大乗院にあった八窓庵が移築された。織部好みとされる。先に述べた六窓庵や、かつて東大寺四聖坊にあった八窓庵(明治二十年(1887)に井上馨邸へ移築)と共に「大和三茶室」と呼ばれた。
こうした事例について、桐浴邦夫氏は
それまで私的で奥向きに設けられていた茶の施設が公の場所に出現し、多くの民衆にその姿を現した(桐浴邦夫著『近代の茶室と数寄屋』淡交社 17-18頁)
と評しています。こうした公開性が、近代数寄者の茶会や茶室にも引き継がれていったのだそうで。
思えば慶応三年(1867)、パリ万国博覧会の瑞穂屋卯三郎による茶店が人気を博しました。それが日本における「博覧会」の原風景の一つ、であったのでしょうか。そして開国したばかりの日本は、茶の消費量が増加するイギリスにとって茶の産地として注目すべき存在でした。西欧を遊学しこの博覧会を見学した日本人にとって、茶は日本を西欧にアピールする材料になり得る事を知る機会となったと思われます。
博覧会、博物館、公園。そうした一般公開された公共施設において茶室が設けられ茶が提供される。こうした現象はパリ万博の「茶屋」が原風景であり、殖産興業が推進される明治日本の博覧会でも「産業」として「日本の象徴」として茶が振る舞われたものでしょう。そして、旧来の茶室にはそれによって破壊の憂き目から救われたものも多く見られました。
茶の湯にとって受難の時代だった、明治前半。しかし、殖産興業や文明開化の波の中で、新たな有り様が準備されつつあった時期とも言えるようです。
【参考文献】
桐浴邦夫著『近代の茶室と数寄屋』淡交社
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