〈読書案内〉森鴎外『混沌』〜意外と明治も令和も通じるものがあるのかも〜
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非婚化・少子高齢化といった現代社会の問題。それらは最早不可避のものであり、良し悪しを論ずるのではなくそれを前提とした社会のありようや物の考え方をすべきではないか。そういった問題意識の下に意見を発している論客の一人に、荒川和久という人がいます。荒川氏に関しては、確か当ブログでも松原左京氏が何回か言及していた記憶が。
今回は、この荒川氏の文章を読んで、とある近代文豪の講演をふと連想したので、話題にしてみようかと。件の文章はこちら。
関連サイト:
「日経COMECO」(https://comemo.nikkei.com)より
「今までの人生、順風満帆で過ごしてきたおじさんが陥りやすい「終末孤立」の正体」(https://comemo.nikkei.com/n/n7f481899973b)
リンク先で荒川氏は、「自己の多人化」、すなわち他者との関係性に応じて「自分のなかに新しい自分をどんどん生み出していく」のが大事である、と主張。逆に「確固たる唯一無二のアイデンティティ」を重んじ「ブレない軸がある」事を誇る人は、晩年に孤独に苦しむ危険がある、とも警鐘を鳴らしています。
(以上、括弧内は上記リンク先より)
これで僕がふと思い出したのは、森鴎外が明治四十二年(1909)に津和野小学校同窓会で行ったらしき講演なのです。現在では『混沌』という題で知られています。
関連サイト:
「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp/)より
「森林太郎 混沌」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/49246_39321.html)
ここで、鴎外は器の大きい人と小才人との違い、といった点に着目して以下のような話をしています。
洋行した際に、鴎外同様にヨーロッパに来た日本人たちを見た印象として。「非常にてきぱき物のわかるらしい人、まごつかない人、さう云ふ人が存外後に大きくならない」もので、逆に「非常にぼんやりしてゐる」ような雰囲気の人の方が「却つて後に成功」する事に驚いた、と述べています。
前者は新しい物事に出会っても「器に一ぱい物が入つてゐて動きが取れぬ」「窮屈」であるのに対し、後者は土台に「差し當り混沌としてゐるところ」があるが、「動く段になると刀も出れば槍も出れば何でも出て來る」のだとか。そして、「彼の混沌たる物の中には、幾ら意表に出た、新しい事を聞いても、これに應ずる所の物がある」のだとか。
具体的には「兎に角かう云ふ事は善い事、かう云ふ事は惡い事と云ふこと」と決めつけるやり方では対応できず、「どんな新思想が出ても驚かない」心持で、自分の中でそれに対応する部分を見出す、というくらいでなくてはいけない、といったニュアンスの様子。
(以上、括弧内は森鴎外『混沌』より)
「唯一無二のアイデンティティ」に拘る人と、「自己の多人化」を果たせる人。そして、「器に一ぱい物が入つてゐて動きが取れぬ」人と「動く段になると刀も出れば槍も出れば何でも出て來る」人。これらの論の当否に関してはここでの判断は避けますが、何だか、双方とも問題意識は通じるものがあるのかも。まあ確かに、「これが正解だ」とか「自分はこうしかできない」と決め込んでしまうのは、何につけてもよろしくないのかもな、とは僕個人の感想としては思わなくもなく。
明治の昔も令和の今も、人々が生きる上で、社会を泳ぎ抜く上での問題意識は共通しているのか。それとも、鴎外の時代からの苦悩を、今日の我々もまだ乗り越えられていないのか。あるいは、そもそも両者に共通点があるというのが僕の思い込みか。その辺りは、僕の手には余る問いではあります。とはいえ、なかなかに面白いと思いましたので、今回取り上げた次第です。
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