千家十職に関する初歩的なメモがわりな記事
|
「千家十職」という言葉をご存知でしょうか。三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)の宗匠たちの好みに従って茶道具を作る十の職人の家を指します。どういった方々がメンバーなのかを含め、見る限りでは茶の湯を嗜む方々の間では、常識と言って良さそうな感じ。
しかし、中には「十も覚えられない」「そもそも○○師って、何をする職人さんなの?」といった方もおられるかも。という訳で、今回は千家十職に関する基本的な事をメモ書きとしてまとめてみようかと。
千家十職の原型というべき体制ができたのは18世紀頃と推定されています。この時期に家元制度が固まっていく中で、千家宗匠たちと職人達の家の密接な関係が形成されたようです。
家元自身の美意識を反映した「好み」道具を大量生産し、流儀組織の整備に伴って増大した弟子たちに与えるシステムがこうした形を求めたとも言われる。
どのような職人の家が三千家に出入りしていたかは多少変動があったようですが、明治中期以降に今のメンバーが固まったと考えられているようです。
楽焼 楽家(吉左衛門)
瓦師の長次郎を祖として天正年間初頭から活動が確認される。轆轤でなく手捏ねで形を作り、軟陶胎の素地に鉛釉を用いて上絵付した上で、一碗づつ800℃内外の焼炎で焼き上げた低火度施釉陶である。利休が好みの茶碗を長次郎に焼かせ、侘茶に相応しいものとした。以後、楽焼の作陶をもって歴代が工夫を積み重ねつつ茶道具制作に従事。二代目常慶から代々「吉左衛門」を襲名。三代目道入は「ノンコウ」の別名でも知られ特に名人の誉が高い。
基本的に黒・赤の楽茶碗が賞翫されるが、花入などの作品も見られる。
塗師 中村家(宗哲)
塗師とは、漆器の細工に従事する職人。主に棗が賞翫されるが、他にも漆器による香合や棚、水指、炉縁、懐石用食器も手がける。
17世紀の初代中村宗哲が茶の湯を好み藤村庸軒と交流があった縁で、千家の道具を扱うようになる。代々「宗哲」を襲名。八代目宗哲は明治維新に遭遇。千家以外にも井伊宗観好みの道具、和宮降嫁や将軍上洛に合わせた道具制作にも従事した。明治期には京都博覧会会社に勤務したり、フィラデルフィア万国博覧会に出品するなどしている。
柄杓師 黒田家(正玄)
初代黒田正玄は関ヶ原の戦いで西軍に参加し敗れたのち剃髪。以後は竹細工を家業とした。小堀遠州から茶の湯を学び、徳川家光の御用柄杓師を勤めると共に千宗旦からの依頼で柄杓を作っている。以後、代々にわたり徳川将軍家御用柄杓師を承ると共に千家宗匠の用もおさめるようになった。
柄杓のみならず、竹花入、籠花入、竹香合を始め茶杓や棚、水指、棗、盆など様々な竹細工を受け持つ。
表具師 奥村家(吉兵衛)
表具とは紙や布を糊で張り付けることで、茶の湯では主に掛物に対して行う。その他、風炉先屏風の貼り付け、紙釜敷製作なども手掛ける。
奥村家は近江佐々木氏の末裔で、17世紀半ばの吉右衛門清定が母方の家業を継ぐ形で京で表具屋を始めた。元禄期の二代目吉兵衛の時代に表千家ならびに紀州徳川家と縁が生じ、以来三千家宗匠好みの表具を制作するようになる。
金物師 中川家(浄益)
金属細工の茶道具を扱う。
初代紹益は越後出身で京に出て武具を製作していたが、天正年間に利休の知遇を得て茶道具を造るようになる。北野大茶会で利休からの依頼に応じて作った利休薬罐が名高い。以後は歴代「浄益」を襲名。三代目浄益が南蛮渡来の砂張(銅と鉛・錫の合金)の模作に成功している。
銅、砂張や南鐐(銀)といった金属を用いた水指、花入、建水、蓋置、火箸入、薬罐、蓋置、香合、火箸、杓立、盆といった多彩な道具を手がけている。
指物師 駒沢家(利斎)
指物とは、金釘を用いず木材を組み立てる事で作る箱など。指物師とは、そうした箱、棚、机などを作る職人を言う。茶箱、棚、炉縁、煙草盆などが該当する。他にも木地水指、風炉先屏風、棗、盆、香合、茶杓も手がけている。
初代宗源は17世紀後半の人。二代目宗慶及び三代目長慶に千宗旦の指物をしたとされる。四代目以降は代々、表千家六世覚々斎から与えられた「利斎」の名を襲名している。
袋師 土田家(友湖)
袋師とは、茶入に被せる仕覆を製作する職人。名物切と呼ばれる中国伝来の織物を用いて袋とする。仕覆以外にも古帛紗、帛紗、釜敷、茶壷口覆や網なども手がける。
土田家は元来、彦根藩井伊家に仕えていたが18世紀に初代友湖が亀岡宗理の教えを受けて袋師となり、覚々斎の知遇を得て引き立てられた。代々は通称を「半四郎」、剃髪すると「友湖」と名乗るのが通例であった。
一閑張 飛来(ひき)家(一閑)
一閑張とは、紙張り素地の漆器。初代飛来一閑が考案したことからこの名がある。木型などを使って和紙を張り重ね、型を抜いて表面に漆を塗るのが基本だという。棗、香合、茶碗、茶箱、茶杓筒、食籠、盆、籠炭斗、煙草盆など多岐に及ぶ。
初代一閑は明末の戦乱を逃れて渡来し、故郷の西湖飛来峰にちなんで飛来家を名乗った。やがて千宗旦の知遇を得て茶の湯に親しむ。清貧生活の中で木地や張抜で器を作り紙を貼り漆を塗って道具とし茶を楽しんだ。宗旦も彼の作品を愛好した縁で、千家代々の塗師を勤めている。
釜師 大西家(清右衛門)
釜師とは、茶釜をはじめとする鉄の鋳物を製造する職人。釜以外にも唐金の風炉・花入・建水なども手がけている。
大西家の初代浄林、二代目浄清の兄弟はそれまで主流だった草庵風の釜から大名茶に多い広間向き、書院向きの作風を特徴とした。そのためか浄清は小堀遠州好みの釜も多数製作。六代目浄元以後の時代には、千家の好みに合わせた草庵風の独自性ある釜を造るようになる。特に18世紀に生きた七代目浄玄は、「くろ玄」と通称され歴代の中でも名人として名高い。
土風炉師 永楽家(善五郎)
土風炉師とは、茶席において釜をかける土器の風炉をつくる人。土風炉のみならず、茶壷、花入、茶碗、水指など多彩な茶陶を受け持っている。
春日大社の供御器を造る職人であった西村宗全が、武野紹鷗の指導によって土風炉を制作、晩年に善五郎を名乗る。二代目宗禅が堺、三代目宗全が京へ移住。三代目は小堀遠州から高く評価された。十代目了全の時代に、土風炉のみならず三千家の後援の下で茶碗、火鉢、灰器、香炉、香合、花入といった茶陶をも造るようになる。十一代目保全は青木木米や仁阿弥道八と共に幕末期における京焼の名手とされ、永楽焼の祖とみなされる。永楽の姓を名乗るようになったのは十二代目和全からである。
【参考文献】
『現代の千家十職』淡交社
『淡交別冊愛蔵版No.21 千家十職 茶の美の創造』淡交社
『日本大百科全書』小学館
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『日本人名大辞典』講談社
『世界大百科事典』平凡社
『大辞泉』小学館
関連記事:
「茶道具の価値づけ方から見る、文化に接する上での心得~文脈を理解し、最終的には価値観と眼力で~」








