〈言葉〉「万里無片雲」〜秋らしい気持ち良い禅語ですが … 〜
|
ついこの間まで暑いくらいだったというのに、あっという間に寒さが訪れたこの頃。秋らしい気候が日中に残っている間に、いかにも秋という趣の禅語をご紹介しておこうかと思います。
万里無片雲
見渡す限りひとひらの雲もない晴れ渡った青空、というニュアンスの言葉です。秋に相応しいスッキリとした光景ですね。この時期に茶室などの床の間にかけるには良さそうな言葉です。
とはいえ。禅の観点からは手放しで喜んで使える言葉かというと微妙なようで。『禅林句集』などによれば、昔の中国で修行僧が禅僧に問うたそうです。「万里無片雲」な状況は、どうであるかと。すると禅僧の答えは意外な事に、このようなものでした。
青天須喫棒
(有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社 181頁)
この言葉、以前にも少し触れた覚えはありますが、「その晴れ渡った空というやつなんぞ、棒でぶっ叩いてやらんといかん」という意味。驚いた修行僧が、「青天の何がいかんのですか」と反問したところ、禅僧は修行僧を黙って棒でピシリ。そんな逸話が残されているのです。この禅僧、臨済禅師の弟子である宝寿沼だそうですから、唐代の話という事になりそう。
それはさておき、修行僧はなぜ棒で撃たれたのか。手元の解説書によれば、青天を悟りになぞらえる「勝手な理屈をつけて質問」(有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社 182頁)する姿に宝寿沼は「思い上がった態度」(同書 181頁)や「濁った心」(同書 182頁)を見たのだそうで。
思えば、「これが悟りだ」と決めつけてしまう事もまた妄念・妄執なんだそうで。雲一つない青空のような心が悟りだなんて、悟らぬ先から分かる筈もないですし、そのような心境に安住する事は傲慢・怠慢に繋がりかねません。
そもそも、雲一つない晴天は人間にとって心地よい素晴らしい天候ではありますが、かといって曇空や雨がなければそれはそれで困る。人の精神も似たようなものなのかも。
…なんかややこしい話になりましたが、とりあえず今は、秋を思わせるサッパリした文字面を味わい何となく気持ちよくなれば充分かな、とも思います。それはそれとして、この言葉の背景にある逸話や精神は知っておいた方が良いのでしょうけどね。乱文御容赦。
【参考文献】
有馬頼底著『やさしくわかる茶席の禅語』世界文化社
関連記事:
「「諸悪莫作 諸善奉行」とは言うけれど…〜自他の悪を滅せるとはゆめゆめ思うな 親鸞の言葉から〜」








