今回、本当に久々に南北朝関連の話を。
鎌倉幕府滅亡への決め手となったポイントは、「足利高氏(尊氏)の寝返り」である。そう考える人は多いと思われます。事実、北条時行(最後の鎌倉最高権力者・高時の子)を主人公とした少年漫画『逃げ上手の若君』は足利を北条を滅ぼした元凶として描いていますし、史実でも時行は尊氏こそ家の仇と述べているそうです。しかし考えてみると、足利氏は源頼朝以来鎌倉幕府に協力し北条氏からも重んじられた名門。そんな足利氏が何故裏切ったのか。今回はそれに関する個人的妄想を垂れ流させて貰おうかと思います。
さて、話を少し変えて。鎌倉幕府が滅亡した決定的理由は、現在ではよくわからないとされているようです。個人的にも。ここで足利氏が鎌倉方の立場を堅持し六波羅攻撃軍や山陰の後醍醐方を破れば、鎌倉幕府は当面の危機を流れる事ができたのではないか。その可能性は十分あると考えています。
しかしながら。では、足利方が鎌倉軍の一員として勝てばめでたしめでたしかと言えば、話はそう単純ではなさそう。
何しろ足利氏といえば、最高権力者北条氏に次ぐ高い家格を持つ家です。その当主が、北条氏を含め誰にも収拾できなかった兵乱を鎮める、とてつもない軍功を挙げる。そうした状況において、どのように報いるのが適当か、という問題が生じるわけです。
この状況、足利氏にとっては実は極めて危険。いわば「武勲をたてすぎた者」(会田雄次『敗者の条件』中公新書 122頁)という、著書で歴史的敗者となる危険因子として会田雄次氏が挙げた条件に当てはまるのです。この問題について、会田氏が紹介した一つの逸話をご紹介しましょう。
シエナの町は、ある武将を傭兵隊長に雇っていた。この武将が敵軍窮迫の窮地から町を救ってくれた。町の人は毎日どうしたらこの武将の功にむくいられるか相談した。どんなにむくいても、その功にくらべればあまりに小さすぎる。たとえその武将を町の主君にしてもなお足りぬということになったとき、最後にある人が立ちあがって言った。「では、あれを殺してしまって、市の守護神(神様は唯一人だから守護聖徒というものを守護神にして祭る)として崇めようではないか」。
問題の武将はこうして処分されたそうである。(同書 125頁)
菊池良生氏によれば、これはブルクハルト『イタリア・ルネッサンスの文化』に掲載された逸話だそうです。この逸話が史実かどうかは、存じません。しかし、「武勲が余りに大きすぎる場合に生じる問題」をよく表すものとは言えそう。
足利一門が憂慮する点も、まさにそこにあったと思われます。実際に北条得宗家をはじめとする鎌倉中枢がどう考えていたかは、この際は二の次となります。
思えば、鎌倉の歴史は有力者粛清の歴史でもありました。将軍家、そして北条氏によって、鎌倉の秩序を脅かす危険があると見做された有力者は次々と滅ぼされてきました。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で放映されてきた内容を想起いただければ明らかかと思います。その後の時代でも複数の有力氏族が、更に北条氏一族の人間ですら、必要と判断されれば粛清の憂き目にあってきました。
まして、足利氏は家格が高いとはいえ、権力中枢と蜜月とは必ずしも言えなかったようで。細川重男氏によれば「足利は家格的には寄合衆家と同等」であるものの「特権的支配層には入っていない」(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』吉川弘文館 99頁)存在だそうです。清水克行氏もまた「家格については依然として高い地位を保障されてはいたものの、北条得宗家を中心とする特権的支配層からは完全に排除されてしまっており、幕政への影響力はほとんどもちえない状態だった」(清水克行『足利尊氏と関東』吉川弘文館 127頁)としています。少なくとも、鎌倉の権力中枢とは微妙な緊張感をはらむ関係であった、とは見て良さそうですね。
そうした要因を考慮に入れるならば。足利一門が「この戦に勝った後の事」を想定し、その結果として「主君を凌ぐ威勢をもつ者」となり「北条氏体制を脅かす危険分子」として粛清される恐怖を覚えたとしても無理はありません。何しろ、「北条氏に次ぐ名門」「権力中枢と関係が微妙な名門」が、「北条氏だけでは収拾できなかった兵乱を鎮める」という大武勲を挙げた訳です。足利氏の意志とは無関係に、「北条氏を脅かしかねない危険分子」または「ポスト北条氏として不満分子から期待される存在」と見なされかねません。北条氏による危惧として現れるか、世間による期待混じりの視線として表面化するかは神のみぞ知るでしょうけど。そこへ北条氏による粛清の歴史も思えば「次は自分かもしれない…」(清水克行『足利尊氏と関東』吉川弘文館 108頁)と足利方が慄くのはむしろ当然だろうと思います。繰り返しますが、北条得宗家ら鎌倉中枢が実際にはどういうつもりでいたかは、ここでは二次的な問題です。
北条高時らが、勝利した足利勢をどう寓しようとしていたかは、今となっては知りようがありません。存外、平和的に礼遇し尊重しようとしたかもしれない。しかしそれでも、足利方が単純素朴にそれを信じ切るのが難しい状況にあったのも、否めない事実な訳です。
そう考えると、事情があったにせよ粛清・族滅の血塗られた歴史を重ねてきた、その因果応報が北条氏を襲う事になったと言えそう。
勝利がもたらすものは、粛清の危険。かといって、敗北は論外です。ただでさえ微妙な立ち位置にある存在なのですから、武力による威信すら失われたのでは社会的失墜は免れません。
足利氏にとって、これから赴く戦いの結果としては「敗北による失墜」「武勲を立てすぎた有力者として粛清の危機に怯えつつ生きる」「粛清される」という嬉しくない三択が予測された訳です。
となると、第四の「盤面をひっくり返しニューゲームに賭ける」という選択肢が魅力的に思えたとしても無理はありません。まして、高氏は若き日に勅撰和歌集に歌を採録された経験があり、母方は上杉氏。京とはパイプのある存在です。この後の後醍醐への傾倒ぶりも思うに、この時期既に個人的シンパシーを有していたとしても不思議はないでしょう。少なくとも後醍醐方として行動する事に感情的抵抗はなかったと思われます。
こうして考えるなら。戦況が膠着状態になったとき。自分の動向が局面を左右する立場に置かれたとき。足利氏が後醍醐側に寝返るという選択をしたのは不思議な事ではなさそうです。足利氏の寝返りは、野心等というよりは、一門を守るための当事者にとっては切実な選択だった可能性があります。
鎌倉中枢がそうした危険に気づかなかった、とは思えません。高氏の妻子を人質として鎌倉に留めさせた事からも明らかでしょう。だがそうした危険も承知で、それでも武門の名門足利の力を借りざるを得ない戦況に北条氏政権は追い込まれた。そして圧倒的不利なスタートから敵をそういう苦境にまで追い詰めた事こそ、護良親王や楠木正成ら後醍醐方の卓越した戦略の証と言えるかも。
とは言え。北条氏にとってかわった後醍醐政権の下でも、足利氏は「勢力が強すぎ武勲を立てすぎた」危険因子な事は変わりありませんでした。尊氏個人が後醍醐をいかに尊崇しようと、後醍醐個人が尊氏をいかに親愛しようと、足利氏は「武勲を立てすぎた有力者として粛清の危機に怯えつつ生きる」立場だったとは言えそう。ともかく紆余曲折の末、尊氏が再度「盤面をひっくり返す」選択に追い込まれるのは周知の通りです。これが歴史の必然かどうかは、存じ上げません。ただ、「野心からでなく生存本能からの動きだった」、「危険因子」たる事を逃れて生き残ろうと足掻き続けた帰結として「自分達がトップに立つ」事になった、というストーリーは、個人的には割に蓋然性の高いものとして映るのは確かです。
【参考文献】
清水克行『足利尊氏と関東』吉川弘文館
細川重男『鎌倉幕府の滅亡』吉川弘文館
山田徹・谷口雄太・木下竜馬・川口成人『鎌倉幕府と室町幕府 最新研究でわかった実像』光文社新書
鈴木由美『中先代の乱』中公新書
松井優征『逃げ上手の若君』1-7 小学館
永井晋 『北条高時と金沢貞顕 やさしさが もたらした鎌倉幕府滅亡』山川出版社
会田雄次『敗者の条件』中公新書
菊池良生『傭兵の二千年史』講談社現代新書
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