歌枕「高師浜」と「高師山」〜「こうのもろはま」「こうのもろやま」じゃありません〜
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南北朝好きの「あるある」として、こんな話を時に目にします。南海電鉄の「高師浜」駅を、つい「こうのもろはま」と読んでしまう、というもの。足利尊氏に執事として仕えた高師直(こうのもろなお)やその一族でやはり武将として活躍した高師泰(こうのもろやす)、高師冬(こうのもろふゆ)といった面々の印象が強いからでしょうね。
無論、この駅名の読みは「こうのもろはま」ではありません。正確には「たかしのはま」です。大阪府高石市の大阪湾に臨む地域をこう呼びます。奇しくも師直が南朝方の名将・北畠顕家を討ち取る大殊勲を挙げた石津の古戦場から比較的近くにある事も、師直とイメージが結びつきやすい一因なのでしょうか?はてさて?
さて、この高師浜ですが。高石市から北方の浜寺(堺市)にわたって白砂青松の景勝地をなし、その景色から歌枕とされました。例えば『万葉集』には置始東人の
大伴の 高師能浜の 松が根を
枕き寝れど 家し思はゆ
〈超意訳〉
大伴の(※)高師浜で、松の根っこを枕に寝ている旅の最中でも、家の事が思われる。
※「大伴」とあるのは、この地域が大伴氏の所領である事に由来するとされる。
という歌があり、『小倉百人一首』にも祐子内親王家紀伊の
音に聞く たかし(高師)の浜の あだ浪は かけじや袖の ぬれもこそすれ
〈超意訳〉
名勝と噂に高い高師浜で波を袖にかける愚かな真似はしますまい、濡れてしまいますから。同様に、恋多き人と噂に高い貴方の誘いには乗りますまい、弄ばれて涙で袖を濡らす事になりましょうから。
という作が見られます。
この地が大きく変化したのは近代になってから。明治三十年(1897)年に現在の南海本線、更に大正八年(1919)に同支線高師浜線が開通。大都市大阪からの鉄道交通の便が良くなって海水浴場として賑わうよつになり、周辺も臨海高級住宅地として開発されていきました。
一方、三河国渥美郡高蘆郷(愛知県豊橋市)には「高師山」なんてのがあります。こちらも、「こうのもろやま」ではありません、「たかしやま」です。高志山、高石山と表記する事もあります。遠江国浜名湖西岸にかけて広がる台地をも含めてこう呼ぶ事もあるようです。こちらも歌枕として知られ、『古今六帖』には高市黒人(『万葉集』時代の叙景歌人)の
あふことを 遠江なる たかし山
たかしやむねに もゆる思ひは
〈超意訳〉
貴方に逢おうにも遠く離れた、遠江の高師山に私はいます。胸中で火のように燃え盛る貴方への思いは、山にも負けぬ程に高くなっています。
という歌があり、また『続古今和歌集』巻第十 羇旅歌では
百首歌の中に 中納言為氏
猶しばし 見てこそゆかめ 高師山
麓にめぐる 浦の松原
〈超意訳〉
旅の道のりを進めるのは、もうしばらく眺めてからだ。高師山の麓に繰り広げられる海浜の見事な松原を。
なんて作も見られます。
師直が実は和歌に親しんだ人物でもあった事を考えると、高一族と見紛う字面の歌枕が二つもあるというのは、面白い偶然と言えなくもないかもですな。
【参考文献】
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『日本大百科全書』小学館
亀田俊和・杉山一弥編『南北朝武将列伝 北朝編』戎光祥出版
亀田俊和『高師直』吉川弘文館
橘守部著『万葉集檜嬬手』古今書院
西田長男『日本神道史研究 第三巻』講談社
太田亮『遠江』磯部甲陽堂
『小倉百人一首』日吉堂
『続古今和歌集 中』吉田四郎右衛門尉刊行
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