『童貞の世界史』落選者列伝 鍾会〜曹魏末の英才、独身で子もなかった?〜
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どうも、松原左京です。何年振りでしょうか。大変ご無沙汰しております。NF氏がネタに苦しんでいるようなので、久々にしゃしゃり出て参りました。
今回、これまた久々に『童貞の世界史』落選者列伝。三国志からです。すなわち、曹魏末の武将・鍾会(225-264)を取り上げます。
三国志の武将とはいえ、劉備や曹操は勿論、諸葛亮も世を去って久しい時期の人物なのでご存じない方もあるかも知れません。しかし、蜀漢を滅亡させた戦における曹魏軍の指揮官の一人であり重要人物と言えましょう。
鍾会は政界の重鎮で書家としても名声があった鍾繇の子として生まれました。字は士季、潁川郡長社県(現在の河南省長葛県あたりだそうで)の人です。
曹魏の実権を握っていた司馬師や司馬昭の下で参謀として活躍し、毌丘倹や諸葛誕の反乱鎮圧に貢献しています。
また父同様に書に長じた他、人物批評や清談(当時流行した哲学論議)を好んだり『才性四本論』などの文章を残したりもしています。こうした文化人としての一面は『世説新語』で多く取り上げられています。
さてこの鍾会。名将として知られた鄧艾と共に蜀漢攻めを担当しますが、蜀漢の名将姜維の守備する剣閣を落とせず。その間に鄧艾が別働隊を率いて別ルートから蜀漢の首都を攻略しこれを降伏させると、やがて鍾会は鄧艾と対立し讒言によってこれを失脚させます。そして蜀の地で自立の野心を抱き反乱を目論みますが、配下武将がこれに従わず失敗。この時に殺害されています。
末路が宜しくなかったとは言え、軍事に才覚をふるい司馬氏の覇権に貢献し、文化人としても事績を残した当代における傑物の一人とは言えるでしょう。
さてこの鍾会、生涯独身だった可能性があるにはあるようです。最後の蜀漢攻めの指揮官になった際、これを危ぶむ意見があったそうで。その際、鍾会は「單身無重任」、すなわち独身で有効な人質となる身内もいない、だから大軍を預けて野心を持たれると危険だ、といった内容の話が出たようなのです(※)。上述の通り、鍾会はこの戦役で命を落としています。その出発時点で妻も子もない、となると生涯童貞の可能性も検討の余地はあるかな、と考えました。
※ちくま学芸文庫の『正史三国志』では「鍾会はひとり身ですから〔制度上、都に置いてある〕人質を大事にしないだろう」(陳寿著 裴松之注『正史三国志4 魏書4』今鷹真、小南一郎訳 ちくま学芸文庫 308頁)という訳が当てられています。
しかしながら、鍾会のその辺りに関する事情については、それ以上の事はわからず。童貞だったかどうかまでは踏み込み得ませんでした。そして考えてみれば、彼は「子孫を残して祖先の祭祀を絶やさない事が重視される」儒教社会における名門の出身です。事実、鍾会の子供時代を概観しますと。母親から4歳で『孝経』、7歳で『論語』、8歳で『詩経』、10歳で『書経』、11歳で『易経』、12歳で『左伝』『国語』、13歳で『周礼』『礼記』を教わり、その上で15歳で太学に入学。そんなガチガチの儒教教育を受けた人間でした。そんな人物ですから、本人の意志がどうであれ一定の年齢になると周囲の圧力やお膳立てで婚姻した経験を有している可能性が高い、そう推定するのが自然かと。何らかの事情でこの時点では独り身だったものの、その前には婚姻しており子は出来なかったかあるいは夭折した、と考える方が妥当かもしれない。そう考えて、落選扱いといたしました。
参考文献:
陳寿著 裴松之注『正史三国志4 魏書4』今鷹真、小南一郎訳 ちくま学芸文庫
劉義慶『世説新語』1-5 井波律子訳注 東洋文庫
『三國志選』中華書局
『日本大百科全書』小学館
『世界大百科事典』平凡社
※2023/2/8加筆
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関連サイト:
「京都大学歴史研究会」(http://kurekiken.web.fc2.com/)より
「呉の文化人達」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/020524b.html)
興味のある方は、ぜひ。
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