御子左家四代と春日野の松〜俊成、定家、為家、為氏〜
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和歌の権威としての「御子左家」、をご存知の方も多いかと思います。この「御子左家」とは「御堂関白」藤原道長の六男権大納言長家の系統を指します。長家が醍醐天皇の御子である兼明親王邸を代々引き継いだ事に由来する呼び名だそうで。俊成、定家といった名高い歌人が陸続した事から、歌道師範としての権威となっていったそうです。
さて、『続拾遺和歌集』巻第七雑春歌にはそんな御子左家四代が歌を書きつけた松に関する話があるようで。少し見ていきましょう。
五社に百首歌よみて奉りける比夢の告あらたなるよししるし侍とて松うえ侍ける 皇太后宮大夫俊成春日山 谷の松とは くちぬとも
梢にかへれ 北の藤なみ
〈超意訳〉
五つの神社に百首の歌を詠んで奉納した時、夢にはっきりとお告げがあった、との事で松を植えました。春日山の谷の松の戸がたとえ朽ちてしまったとしても、枝の先端にまた咲いておくれ、北にある藤の花房よ。
其後年をへて此かたはらにかきつけ侍ける 前中納言定家
立かへる 春をみせばや 藤なみは
むかしばかりの 梢ならねど
〈超意訳〉
その後、年月が経ってから上の歌の側に書き付けました
またやって来る 春を父に見せたいものだ
風で揺れ動く藤の花は 昔そのままではないけれども。
おなじくかきそへ侍ける 前大納言為家
言のはの かはらぬ松の 藤浪に
又たちかへる 春をみせばや
〈超意訳〉
同様に側に書き添えました
先の歌にある言葉と同様に松にかかる藤の花房に、またやって来る春を見せたいものだ
三代の筆の跡を見て又かきそへ侍し 前大納言為氏
春日山 いのりし末の 世々かけて
むかしかはらぬ 松の藤なみ
〈超意訳〉
三世代にわたる筆跡をみて、さらにそこに書き添えました
春日山の、代々かけて祈ってきた末にある、昔と変わらぬ松にかかる藤の花よ。
俊成、定家は比較的知られていますがその後の二人について。
藤原為家(1198-1275)は定家の子、若い頃は蹴鞠に耽溺して父を嘆かせましたが承久の乱以後は一念発起。歌論書『詠歌一体』を著し平淡な美を重んじる考えを示しました。また『続後撰和歌集』『続古今和歌集』の選者にもなっています。
藤原為氏(1222-1286)は為氏の嫡男(二条家)で、『続拾遺和歌集』編者となりました。なお弟の為相(冷泉家)や為教(京極家)と対立し家が分裂する結果にもなっています。為氏が『続拾遺和歌集』でこの四代の歌を取り入れたのは、「自分こそが俊成に始まる流れの正統後継者なのだ」と示す意図があったのかもですな。
俊成が叙情性を知的手法で表現する歌論を唱え『千載和歌集』撰者となり、定家が華麗妖艶と評された歌で名声を博し『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の撰者となったのに続こうという子孫たちの強烈な意気込みと自負も見えてきます。
そういえば。「御子左」を自ら称したのは南北朝期の二条為定が初めだそうで、これも俊成定家の嫡流という自負の表れだとされています。俊成定家まで遡って「御子左」と称されるようになったのは近代の事だそうです。
【参考文献】
『続拾遺和歌集 上』吉田四郎右衛門尉刊行
『大辞泉』小学館
『日本大百科全書』小学館
『日本人名大辞典』講談社
『世界大百科事典』平凡社
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