歌枕「和歌浦」に見る『続古今和歌集』編纂絡みの歌その3〜花山院通雅による祝福 附:花山院家のこと〜
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歌枕「和歌浦」が「和歌」絡みで名前を詠み込まれたりする、という話はこれまで何度かしてきたと思います。そして、『続古今和歌集』編纂絡みでそんな事例がある事も(下の「関連記事」をご参照ください)。
今回も、そんな事例の追加報告。
取り上げるのは、『続拾遺和歌集』巻第十 賀歌にあるこの歌。
文永三年続古今集竟宴歌 後花山院入道前太政大臣かずかずに みがく玉もの あらはれて
御代しづかなる わかの浦沼
〈超意訳〉
和歌浦に多数の美しい藻があるように、数々の磨き上げられた玉のような優れた歌が集まり、帝の御代が泰平である事を寿いでおります。
竟宴とは、宮中で『日本書紀』や漢籍の進講、勅撰和歌集編纂などが行われた際、その完了を祝って宴のこと。ここで参加した朝臣は当該の進講なり和歌集なりに関係のある詩や歌を詠み、禄を賜るのが通例であったそうです。
玉藻とは、「藻」の美称。
そして、この後花山院太政大臣とは誰か、について。『続古今和歌集』成立が文永二年(1265)で竟宴が翌年という時期を考え、花山院と称する太政大臣なのも思うと花山院通雅(1233-1276)と推定されます。建治元年(1275)に従一位太政大臣に昇進したためこう呼ばれたと思われます。「後」とつくのは、彼の先祖にあたる平安末期の花山院忠雅(1124-1193)と区別するためでしょう。こちらは太政大臣になったのは仁安三年(1168)年の事で、故実に明るく「当世の国老」と重んじられた人物だったとか。
彼らを輩出した花山院家は関白師実の次男家忠を始祖とする家柄で、邸宅「花山院」を家忠が受け継いだ事に家名は由来します。摂関家に次ぐ「清華家」に相当し、運が良ければ太政大臣になりうる家柄ではあったようです。近代には侯爵とされています。
なお邸宅「花山院」は「東一条」「東院」とも呼ばれ、京都市上京区、京都御所の西方に位置した邸宅。元来は清和天皇皇子・貞保親王の屋敷で、周囲に花を多く植えた事からこの名があるそうです。その後は藤原忠平、師輔に始まり藤原摂関家が継承したり、出家した後の花山法皇が居住したりを経て前述した師実、家忠に至るようです。
【参考文献】
『続拾遺和歌集 上』吉田四郎右衛門尉刊行
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『大辞泉』小学館
『日本人名大辞典』講談社
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『日本大百科全書』小学館
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※2023.6.20 参考文献の記述に不備があったので修正。