歌枕「宇津の山」 駿河の難所〜附:『秋篠月清集』、宇都宮の蓮生信生兄弟〜
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今回も歌枕シリーズで、お題は「宇津の山」です。
宇津の山とは静岡市宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部とにまたがる山で、南側に宇津ノ谷峠があります。東海道における難所の一つと知られました。奈良時代までは海岸沿いの日本坂を越えていたものの、急峻である事から平安以降は「蔦の細道」を用いるようになりました。『伊勢物語』で「蔦楓は茂り」とあることに呼び名は由来するそうです。この時に在原業平が詠んだとされる
駿河なる 宇津の山べの うつつにも
夢にも人に あはぬなりけり
〈超意訳〉
駿河にある 宇津の山では、現実でも夢でも知る人に 会うことはなかった。
という歌は有名ですね。そんな由緒もあってか、昔から歌枕として高名です。例えば、『秋篠月清集』には
うつのやま うつつかなしき 道絶えて
夢に都の 人は忘れず
〈超意訳〉
宇津の山を通る現実は辛い。絶え絶えな道を行く旅の夢にも、都にいるあの人を忘れる事ができないでいる。
なんて歌が。
なお余談。『秋篠月清集』は鎌倉初期の摂政藤原良経による私家集で、1600首におよぶ和歌がまとめられています。隠遁志向を背景とした、人生の無常を見つめた長高清雅な歌境が高く評価されているそうです。
話を戻して、『続拾遺和歌集』巻第十八 雑歌下も見ておきましょう。
信生法師ともなひてあづまのかたにまかりけるにうつの山の木に歌をかき付て侍けるのち程なく身まかりにければ都にひとりのぼり侍とてかの歌のかたはらにかきそへ侍ける
蓮生法師
うつの山 うつつにて又 こへてゆかば
夢とみよとや 証残しけん
〈超意訳〉
信生法師と一緒に東国に参りました際、信生が宇津の山の木に歌を書きつけました。その後まもなく信生が亡くなり、一人遺された身で都へ上りました際、その歌の傍に書き添えたのがこの歌です。
行きにも越えたこの宇津の山を、帰りも私は生きて現実に再び越えていったのだけど、あれは夢だったと言わんばかりに、あの時に弟が残した歌が残っている。
なお、ここでも余談。「蓮生」といえば源平合戦で活躍した熊谷直実が有名ですが、この蓮生は別人。俗名を宇都宮頼綱(1178-1259)といい、やはり鎌倉の御家人です。北条時政による陰謀に関与した嫌疑を受け、出家して法然の弟子証空に帰依、西山往生院などの再興に尽力しました。また藤原定家と親交を結び和歌に精進、娘は定家の子・為家に嫁いでいます。「宇都宮歌壇」と呼ばれる一派を形成、『小倉百人一首』編纂にも影響したとされています。『新勅撰和歌集』以下の勅撰和歌集には39首入手集を果たしています。
信生は彼の弟で、俗名は塩谷朝業(1174-1237)。源実朝の死を契機に出家して兄同様に証空に帰依。彼もまた歌人として知られ『新勅撰和歌集』以下の勅撰和歌集に14首入集しています。京から鎌倉に向かう紀行文と歌集である『信生法師集』でも知られています。
京や鎌倉、宇都宮を往来した事で和歌が東国に定着するのに貢献した二人といます。
さて、歌枕としての「宇津の山」。今回取り上げたいずれの用例も「うつつ」という言葉と共に用いられているのがわかりますね。「うつ」とかけられているのは言うまでもありません。これが恐らくは一つのパターンだったのでしょうな。
なお、近世になりますと。街道整備が進んだ結果、蔦の細道からその北の鞍部を通るようになったそうです。
【参考文献】
『日本大百科全書』小学館
『世界大百科事典』平凡社
『大辞泉』小学館
『続拾遺和歌集 下』吉田四郎右衛門尉刊行
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
『日本歴史地名大系』平凡社
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