『新後撰和歌集』を読んでたら、若き日の「あの人」が〜そっか、もう「鎌倉末期」近いんですね〜
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変体仮名に慣れる訓練もあって、江戸期の刊本で勅撰和歌集を読み進めてます。今は『新後撰和歌集』。さて、巻第三の夏歌を見ていると、見覚えのある御名前が。
尊治親王
時鳥 すぎつる里の こととはん
おなじね覚の 人もありやと
〈超意訳〉
時鳥よ、お前がここに来るまでに通り過ぎてきた人里について教えておくれ。私と同様、お前の鳴く声で目覚めた人も他にいたのだろうか。
んん?…確かに尊治親王って書いてますよね?
そして巻第四 秋歌上にも
尊治親王
稀にあふ うらみもあらじ 七夕の
たえぬ契の 限なければ
〈超意訳〉
七夕の年一度という契りも、稀にしか逢えないという辛さにはなるまい。年限はなく、もう逢えないという訳でないのだから。
尊治親王といえば…「あのお方」ですよね。南北朝時代を知る人にとっては忘れようのない存在、「後醍醐天皇」その人です。詠人の名に「後醍醐院」と書かれてないのは、まだ即位前だからでしょうな。
『新後撰和歌集』の編纂を命じたのは後醍醐の父である後宇多院で、正安三年(1301)のこと。完成したのは二年後の嘉元元年(1303)だそうです。全二十巻で一六〇七首をおさめ、住吉の神官である津守家の人による歌が多めなので「津守集」なんて異名もあったそうです。
そして後醍醐天皇の生年は正応元年(1288)ですから、この時期には既に歌の一つ二つは詠める歳頃。親王宣下を受けたのは歌集編纂中の乾元元年(1302)の事です。大宰帥となり「帥宮」と呼ばらるのは歌集が完成した翌年にあたる嘉元二年(1304)。
『新後撰和歌集』が完成した時点では、後醍醐はまだ「尊治親王」と呼ばれる、まだ何者でもない一皇族。彼がやがて日本列島にとてつもない時代のうねりをもたらす事を知る人は、まだ誰もいない。そんな時期ですね。
それでも、そんな形でも。確かに、「あの」後醍醐天皇が既に、勅撰歌人の一人として歴史の片隅に爪痕を残している。そんな時期とも言えます。「もう鎌倉後期(というかほぼ末期)なんだなあ」という事実を、実感させられる四文字でありました。
【参考文献】
『新後撰和歌集 上』吉田四郎右衛門尉刊行
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『日本大百科全書』小学館
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
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関連サイト:
「国際日本文化研究センター」(https://www.nichibun.ac.jp/ja/)より
「新後撰集」(https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i015.html)
このデータベースでは、詠人にしっかり「後醍醐院」と記されてます。調べた限り、計三首が採用されているようです。








