2024年 08月 23日
「板田の橋」in『玉葉和歌集』〜所領絡みが一段落した寿ぎを『万葉集』リスペクトで〜
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またしてもすっかりご無沙汰してしまいました。もう少し頻繁に更新をしたいと努力はしているのですが。
さて。『玉葉和歌集』巻第十五 雑歌二に、こんな歌がありました。
二条院讃岐伊勢国にしる処侍けるにわづらひあるによりて鎌倉右大臣にうれへんとてあづまにくだり侍けるにほいのごとくなりて帰りのぼり侍ければ申つかはしける
〈超意訳〉
二条院讃岐には伊勢国に治める所領がござぃしたが、支障があったので鎌倉右大臣源実朝に愁訴しようと東国に参りました結果、望みの通りの裁定が下り都へ戻って参りましたので申し伝えた歌です。
善信法師
をはただの いただの橋の とだえしを
ふみなをしても 渡る君哉
〈超意訳〉
「をはただ」にあるという板田の橋が壊れて渡れなくなったのを架け直してでも渡るかのように、貴方は所領支配に支障が出たのをちゃんと権利を確保できてめでたい事だ。
返し 二条院讃岐
朽ぬべき いただの橋の はしつくり
思ふままにも 渡しつる哉
〈超意訳〉
朽ちてしまった板田の橋を造り直し渡すかのように、所領問題もどうにか思ったとおりになりました。
「をはただ」とはおそらく「をはりだ」(小墾田)、奈良県飛鳥地方、更にいえば明日香村大字豊浦付近の地名と推定されているのだそうで。『古事記』安康天皇段に「雄略天皇が兄の白日王子を殺して小治田に穴を掘って埋めた」とあるのが初出。更に欽明天皇時代には、蘇我稲目が伝来した仏像を小墾田の自宅で安置し寺としたことが知られています。小墾田が豊浦付近とされるのは、この屋敷が豊浦寺の前身と考えられるからだそうです。
さて。伊勢と直接関係ないこの地名が出てきたのは、「板田の橋」とセットで用いるためでしょうな。というのは、『万葉集』に
をはりだの 板田の橋の 壊れなば
桁より行かむ な恋ひそ我妹
〈超意訳〉
小墾田にある板田の橋が壊れてしまったので、橋桁を伝って貴方の元へ参りましょう、愛しい貴方よ。
という歌があるため。歌を聴いた人にそれを連想させるためでしょう。
二条院讃岐(1141-1217)は平安末から鎌倉初期にかけての人物で、源頼政の娘にあたります。二条天皇や後鳥羽天皇中宮である宜秋門院に仕え、『正治初度百首』や『千五百番歌合』にも作品が採られるなど歌人として名声を博し、『千載和歌集』など勅撰集に七十二首が入集しています。今日でも小倉百人一首の
わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね 乾く間もなし
〈超意訳〉
私の衣の袖は、引き潮の時ですら海に浸かった沖合の石のようなもの。人に知られる事もなく、恋しい人を想っての涙で乾く暇もないのです。
と言う歌で知られているかと。そんな王朝歌人にも、生活がありその糧として所領がある。当たり前ではありますが、それでもそれをめぐるあれこれについての歌が採録されているのは興味深く思いました。
【参考文献】
『玉葉和歌集 下之二』吉田四郎右衛門尉刊行
『大辞泉』小学館
『日本歴史地名大系』平凡社
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
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