2025年 07月 04日
『続千載和歌集』で吉野をうたった歌〜後醍醐即位直後の勅撰和歌集〜
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『続千載和歌集』をちまちま読み進めてるのですけど、巻第十八雑歌下にこんな二首が。
述懐歌中 後一条入道前関白左大臣
いかにせん つらき処の 数そへて
よしののおくも 住よからずば
〈超意訳〉
辛い思いの募る場所ばかりが増えていく。これから隠遁しようと思う吉野の深い処までもが住み心地が悪かったなら、私はどうしたものだろうか。
弘安百首歌たてまつりける時 静仁法親王
老の身に 吉野のおくの すす分て
うき世を出る 道はしりにき
〈超意訳〉
年老いたこの身は、吉野の奥深くまで進み分けて隠遁する。憂世から逃れる道は知っているのだ。
ともに、世を逃れ隠遁するための場所として「吉野」(奈良県南部)が詠まれています。
『続千載和歌集』は、文保二年(1318)に編纂命令が出て元応二年(1320)に完成した勅撰和歌集です。後醍醐天皇即位直後にあたります。
勅撰集で吉野をうたう和歌があるのは珍しくもなんともないのですが、そんな時期の勅撰集でこうした歌を見ると。後醍醐が後に吉野を軍事的抵抗の拠点とし最終的にその地で崩御した事を思うと、偶然とはいえ縁のようなものを感じてしまいます。まあ、実際に編纂命令出したのはまだ院政で実権持ってた後宇多法皇(後醍醐の父)なんですけどね。
あとは、余談ながら人名解説。
後一条入道前関白左大臣とは一条実経(1223-1284)のことらしいです。九条道家の四男で一条家の祖。父の寵愛を受けて天福元年(1233)に従三位となり寛元四年(1246)には左大臣・関白・摂政へと昇進しましたが、宝治元年に父の失脚と共に一度地位を失います。後に復権し弘長三年(1263)に左大臣、文永二年(1265)に関白となりました。「円明寺殿」とも呼ばれます。
静仁法親王(1216-1296)は、土御門天皇の第四皇子。後嵯峨天皇の同母弟にあたり、後深草天皇の護持僧や園城寺長吏、熊野三山検校を務めています。
【参考文献】
『続千載和歌集』下之二 吉田四郎右衛門尉刊行
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『日本大百科全書』小学館
『大辞泉』小学館
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ロゴヴィスタ
『日本人名大辞典』講談社
永井義憲『日本佛教文學研究第一巻』豊島書房
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