2007年 10月 31日
「あの国のあの法則」 ~50年前の碩学の言葉と地政学的証明~
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かつての拉致事件について、参議院において、「私の生命と安全を守って下さるため、長い期間にわたって努力を惜しまれなかった日本国民と言論、そして日本政府のご恩を、決して忘れることができません」(『民団新聞』1998年10月14日掲載金大統領の国会演説全文より引用)と演説した金大中前大統領が、同じ事件について日本批判を始めたりして、なんだか日韓関係がめんどくさくなっており、全体的に朝鮮半島が悩ましい今日この頃ですが、今回は朝鮮半島について、歴史的に考えてみたいと思います。
参考
金大統領の国会演説全文(民団新聞トピック)
http://www.mindan.org/shinbun/981014/topic/topic_e.htm1998
<金大中氏>「私への人権侵害」 事件で日本政府批判 (エキサイトニュース)
http://www.excite.co.jp/News/politics/20071030224600/20071031M10.138.html
「あの国のあの法則」という言葉があります。
主に朝鮮が嫌いな人によって卑俗な論述に用いられる言葉で、狭義では韓国と手を組んだ外部勢力は戦争や競争に負けるというものですが、広義では朝鮮半島に関わりを持った外部勢力はろくな目に遭わないといった程度の意味で使われているようです。
参考
あの国のあの法則(はてなダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%A2%A4%CE%B9%F1%A4%CE%A4%A2%A4%CE%CB%A1%C2%A7?kid=80506
「第一法則 国家間から企業、個人に至るまで、韓国と組むと負ける。」以下略
あの国のあの法則 (通信用語の基礎知識)
http://www.wdic.org/w/WDIC/あの国のあの法則
上記ページと同様の記述の後に、
「結論として、朝鮮半島の全てと関わるとロクなことがない、ということである。」
とある。
なお、現代日本では、一部に朝鮮に親近感を感じなければならないという風潮が見られるので、このように朝鮮を邪険にした物言いには反感を持たれる方も少なくないでしょう。ですが、さすがに無理のある狭義の方はともかく、広義の方の、朝鮮半島に関わりを持った外部勢力はろくな目に遭わないという認識は、なにも日本の反朝鮮分子のみが持っているわけではありません。朝鮮人自身もこのことは認識しているのであって、2006年9月11日には江原道民日報が「韓半島ジンクス」という論説を展開しています。
そこでは隋の高句麗遠征失敗、唐の高句麗遠征および新羅制圧失敗、対日戦で朝鮮半島に大軍を送った消耗による明の滅亡、朝鮮半島支配を巡る日清戦争の敗北をきっかけとした清の滅亡などを例に挙げ、中国は繰り返し周辺諸族を屈服させ吸収してきたが、朝鮮人を屈服させることだけはついにできず、朝鮮半島にかかわると歴史的被害を被ってしまうとの主張が為されています。
参考
韓半島ジンクス(江原道民日報)
http://www.kado.net/centermenu-01/news_read.jsp?seq_no=15&refer=1733
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-KJ,bF,hT,uaHR0cDovL3d3dy5rYWRvLm5ldC9jZW50ZXJtZW51LTAxL25ld3NfcmVhZC5qc3A/c2VxX25vPTE1JnJlZmVyPTE3MzM(上記記事の日本語訳)
そして、これら中国史の事例に加えて、朝鮮半島経営に手を焼き白村江に結末する古代日本の労苦、秀吉の征服失敗、朝鮮半島からずるずると大陸へ深入りしていった大日本帝国の最終的な運命など、日本史上の経験をも振り返れば、外部勢力が朝鮮半島に関与するとろくな結果にならないということは、認めざるを得ないのではないでしょうか。
したがって、広義の方であれば「あの国のあの法則」は、断じて右翼がかった戯言と切って捨てるべきではなく、むしろ歴史上の信憑性ある経験則として、常に頭の片隅に留めて、国際政治上の日本の身の振り方を考える際などに十分考慮すべき事項ではないかと思われます。
しかし、それでもこの「法則」を、卑俗な非理性的戯言として、拒絶される方がおられると思います。
そこで、50年前の高名な歴史家の同様の主張を引いて、「法則」が学問的理性的な最高度の頭脳によって、とっくの昔に見いだされ主張されていたことを示してみようと思います。
とりあげる人物は、日本中世史の大家、中村直勝氏。京都大学等で教職を歴任し、先見に満ちた論文・著作によって先覚的な業績を挙げたほか、古文書の調査・収集・研究に大いに貢献した碩学です。
さて、この碩学が、「法則」同様の主張を為したのは、1958年刊行の小著『日本史大観』においてです。
すなわち、古代日本の苦難を例に絶海の孤島より大陸に派兵する困難を説くなどして、秀吉の朝鮮出兵を批判した同書第十二章で、氏は、注釈に「朝鮮半島に手を出した国家は必ず破滅してしまう事は、東亜の歴史が教えて居る所である。朝鮮半島には手を出すな、と言いたい。中国五千年の歴史を眺めて、私の言が偽りでない事を知ってほしい。」(『中村直勝全集第一巻』淡交社 580頁)と記しています。
そう、朝鮮人自身が「韓半島ジンクス」の根拠に挙げる中国史、そして本稿で挙げた日本史の古来からの経験、これらを踏まえれば、嫌韓の風潮に乗った俗流歴史論者のみならず、最高の学問的知性でさえも、「朝鮮半島には手を出すな」という結論にたどり着くわけですね。
ところで、朝鮮半島に関わるとろくな目に遭わないという「あの国のあの法則」に当たる現象が存在しているとして、「法則」を成り立たせている原因・背景は何か?今度はこれを考察してみましょう。
まずは、巨大な国力を誇り、簡単に朝鮮征服できておかしくないはずの中国について、朝鮮進出の諸事例を考察し、外敵の敗北をもたらす朝鮮半島の地政学的特質を探り当てることにしましょう。
そのため史上から、中国諸王朝が、名目上の宗主権を超えて朝鮮半島に大きな支配力・影響力を行使した、あるいは行使しようとした事例を集めてみることにします。
中国が最初に本格的な朝鮮半島支配を図ったのは、漢の盛時で、漢は建国期以来の北方の遊牧民族匈奴に対する従属関係を解消するため、長期にわたって総力を挙げた大々的な攻勢をかける(紀元前129~119年)。これによって漢は匈奴に大打撃を与えて、その脅威を完全に取り除き、次いで東方に目を転じて朝鮮半島の大部分を征服(紀元前109年~108年)、半島北西部の楽浪郡を筆頭に四郡を設置した。ただし、間もなく朝鮮諸族の反抗を受けて支配領域は縮小を始め、設置後26年には楽浪郡しか残らなくなっている。
その後、朝鮮半島では、楽浪郡および楽浪郡から分かれた帯方郡にしか中国の支配は残らず、その周囲で高句麗等の朝鮮人国家が成長、中国の東方支配を脅かし始めたが、烏丸の征服(207年)などで中国の曹操軍閥は北辺に対しても勢威を振るい、曹操軍閥の建国した魏は、高句麗をも攻撃して壊滅的な被害を与えることに成功している(244~245年)。
4世紀になると、中国は遊牧諸族の台頭・侵入で分裂に陥り、満州に台頭した鮮卑は楽浪郡・帯方郡と中国本土との連絡を遮断、これを好機と朝鮮諸族は立ち上がって、まず楽浪郡が滅亡(313年)、しばらく後に帯方郡も滅亡する(同世紀半ば)。
中国が分裂状態にある間、朝鮮は中国の脅威を受けず、むしろ高句麗が中国辺境を脅かしていたが、6世紀のおわりには、隋の統一によって中国は長きにわたる分裂を脱する。中国は長らく遊牧民族の突厥に従属していたが、折しも突厥が弱体化したことにつけ込んで力関係を好転させており(583年)、対外的に大いに勢威を奮ってその力は朝鮮にも及んでくることになった。朝鮮半島にも大規模な出兵が繰り返されたが(598年、612~614年)、悪天候と疫病、高句麗の頑強な抵抗と補給の破綻、大遠征の負担への不満が引き起こした国内の反乱によって、成果をあげることができなかった。それどころか反乱によって隋は滅亡へと向かい、この間突厥の脅威も再興している。
隋に代わって中国を統一した唐は、建国時には勢威が奮わず、突厥に従属していたものの、まもなく突厥支配下の諸族が離反した機を捉え、力関係を逆転させて突厥を従属させることに成功(630年)、隋の盛期以上に対外的に勢威を振るった。朝鮮では数度にわたって高句麗を討ったが、これは失敗に終わった(644~646年、655~659年)。そこで唐は、高句麗への正面攻撃をあきらめて、高句麗の背後に手を伸ばし、半島南東部の新羅と結んで食料・軍需品を供給させつつ、まず半島南西部の弱体な百済を海路征服(660年)、ついで高句麗を征服する(668年)。だが高句麗、百済の遺民の反乱や、新羅の抵抗を受け、朝鮮半島支配を断念するに至る(675年)。なおこの直前(674年)にペルシアの王子が亡命してきた時点が唐の対外的勢威の最盛期で、まもなく突厥が独立再興する(682年)など、この頃から唐の勢威は落ち込んでいく。
唐が衰退期に入ってからは朝鮮半島への中国の脅威は消えたが、やがて満州から中国北部にかけての地域で遊牧民の契丹が建てた遼、次いで狩猟民の女真が建てた金が台頭して、10世紀から12世紀にかけて高麗治下にあった朝鮮をしばしば侵略する。南方で宋と対峙していたからか、これら諸国が朝鮮全土を脅威するようなことはなかったものの、その侵略は一度は首都を攻略するなどし、朝鮮を少なからず苦しめた。
さらに13世紀、遊牧民のモンゴル(元)が台頭するに及んで、朝鮮半島全土が徹底的に蹂躙され(1231年以降)、ついには高麗は完全にモンゴルの属国となる(1260年)。元の皇女が王妃となって以降、高麗はモンゴルと混血の国王によって支配され、朝鮮は完全にモンゴルと一体化していった。
日本を統一した豊臣秀吉が二度にわたって李氏朝鮮に出兵すると、明は援軍を送って日本軍と戦うが(1592~1593年、1597~1598年)、援軍と言いながら、日本軍に劣らぬ乱暴狼藉で朝鮮の国土に荒廃をもたらし、戦闘では日本軍相手に戦意を維持できないほどの敗北を重ね、国力を大いに消耗する。これにより既に衰退期にあった明は、さらに衰退の速度を早め、おまけに朝鮮介入に満州防衛の兵力を吸い取られたことで、三十年間どうにか抑止に成功していた積年の悩み、騎馬民族の脅威が復活、狩猟民の女真が台頭して、ついには女真が清を建てて明を滅ぼすことになる。
清の侵略の前に、李氏朝鮮は首都を放棄することとなり、屈服して清と兄弟関係を結んだ(1627年)。その後、清は糧食提供の強請や明征服の軍兵の徴集、兄弟関係の君臣関係への改変要求などを行い、反抗した朝鮮に対して大々的に征伐して、甚大な被害を与えつつ首都までを制圧、朝鮮の臣従と対明出兵、王子・大臣の入質を実現した。
西洋列強の東アジア進出が激化する中、末期の清は日本と朝鮮半島の支配権を争い、1882年に出兵して、一挙に朝鮮の政治支配権を奪取する。その後、日本は経済的には清よりめざましく朝鮮進出するなど、なお清と勢力を争う形勢を取り、日清戦争(1894~1895年)が勃発、清は敗戦によって前近代性・圧倒的弱体を暴露され、列強の猛烈な侵略に曝されるようになる。
この内、最後の事例に関しては、近代化した諸国と近代化できなかった国家の格差の問題が関係しており、人口や地勢といった地政学的要因以外の要素が強く、地政学的な検討には少々不適なので除外しておきましょう。
その上で、上述の事例から分かることは、朝鮮半島は北方騎馬民族、中華帝国、朝鮮民族の三勢力の接点であり、中国の朝鮮経略は、騎馬民族をも視野に収めた大戦略の中で行われているということです。
現に、中国王朝の朝鮮進出は基本的に遊牧民や狩猟民といった北辺の騎馬民族勢力の脅威を克服した後か、あるいは中国王朝が騎馬民族由来で中国化しきっておらず騎馬民族勢力の脅威をそもそも持たない場合にのみ、行われており、ここからは騎馬民族問題の解決が、朝鮮経略の前提となっていること、あるいは騎馬民族問題解決の余波として朝鮮経略が行われていることが明らかです。4世紀の楽浪郡・帯方郡の滅亡から分かるように、騎馬民族によって朝鮮への経路の側面が脅威されれば、中国が朝鮮半島へ政治支配を伸ばすことは不可能なのです。
そしてこのことは、、中国王朝が朝鮮半島に政治支配を伸ばす際には、前提として、全ユーラシア文明の永遠の課題となっている騎馬民族問題を克服するだけの力、あるいは幸運が要求されるということを意味しています。だがこの課題は、世界史上の諸々の民族移動を見れば分かるように、非常な難題であって、このような過大な負担の上に重ねて、朝鮮制圧というさらなる問題を抱えることは決して賢明とは言えません。
戦争における守勢の利や、中国の国力の源泉からはるか僻遠に当たる地理を考えれば、朝鮮の制圧が、相当の難題であることは明らかです。しかも、大勢力ひしめく極東という地域に注目していると忘れがちですが、朝鮮は世界的には決して弱小勢力ではないのです。朝鮮は、対外発展によって東アジア史上に栄光を刻むほどには強くないが、外敵に容易く征服されるほどには弱くありません。そのことは、強固な反抗で、中国の大軍の侵略を跳ね返した高句麗や新羅を見れば明らかでしょう。
したがって、力による打倒で騎馬民族問題を克服した後は、いかに中国が大国とはいえ、朝鮮という強敵を制圧するだけの余力は残りません。また騎馬民族国家の分裂のような幸運によって問題を克服したに過ぎない場合は、騎馬民族の脅威は潜在化しただけであって、朝鮮という相当の強敵へむけて相応の大軍を遠路進軍させることで、軍事力に損耗や歪みが生じ、これによって脅威が顕在化する機会が訪れることともなるでしょう。
例えば、匈奴に全面戦争を挑んで大勝し騎馬民族の脅威を力で克服した漢の事例を見れば、朝鮮諸族が未開状態であったにもかかわらず、漢は朝鮮を押さえきれず、現地民の反抗の前にたちまち支配の縮小が起こっています。
突厥の分裂につけ込んで騎馬民族問題を克服した、隋・唐の事例では、朝鮮半島制圧失敗の直後に突厥の脅威の再興が起こっているが、これは決して偶然ではありますまい。
形式上は朝鮮の援兵であったが、僻遠の朝鮮半島に大軍を送り込んで強敵と戦い国土を狼藉した点で、既に挙げた諸々の侵略と意味において等しい明の遠征では、結果として国防体制に隙が生じて、女真族の脅威が巻き起こっています。
また騎馬民族と朝鮮という僻遠の勢力への続けざまの軍事力行使は、国力の損耗を伴うのであって、騎馬民族と朝鮮に向けた軍事力行使以後、漢は衰退、隋は滅亡に向かい、唐は停滞に入って、明は滅亡に向かっています。
すなわち、中国本土に根を下ろした王朝が朝鮮に手を出すと言うことは、距離の重荷を背負いながら、騎馬民族という全ユーラシア的な脅威の制圧と朝鮮という相当の強国の制圧を同時進行させると言うことであり、これは現実問題として、軍事的に破綻必至の難題、政治的に国力を損なう失策であると言えるのです。
この点朝鮮半島へ侵攻して強力な支配を実現することのできた中国王朝が、騎馬民族由来で中国化の防止に注意を払った元と清であることは、非常に示唆に富むと言えるでしょう。
結局、中国史上には、内陸から騎馬民族が常に文明圏を脅威・圧迫しているという、地政学上の基本問題の変奏として、「あの国のあの法則」あるいは「韓半島ジンクス」が、根拠を持って存在し、国家戦略の展開の限界点および国家戦略上の絶対的な禁忌を示しているのです。そしてかつての騎馬民族のごとく北方からユーラシアを睥睨するロシアの存在、発展による中国の地政学的地位の回復を思えば、今後も中国が法則に補足される可能性が無いとは言い切れないでしょう。
それでは日本の場合はどうでしょうか。
日本の場合は、朝鮮半島進出の失敗例として、古代の朝鮮半島における争闘と敗退、秀吉の出兵失敗、近代日本帝国の拡大と挫折があります。
まずここで注目すべきは、このわずかな事例がそれぞれ、古代的、近世的、近代的国家統一の勃興期に辺り、すべて歴史的な国威発揚時代に当たるということである。この点、古代国家の解体期で国土分裂状態にあった時代の魏、国家権力の低迷期である中世と位置づけられる隋・唐のように、中国が、国威発揚時代以外でも、朝鮮半島進出を行っているのとは対照的です。すなわち、日本の国力は、その上昇期から極盛期でなければ大陸進出が起こらないほど貧弱だと言って良いと思われます。
要は日本にとっても「あの国のあの法則」は、国家戦略の展開の限界点を示していると言えるのです。
なお何らかの理由で、日本が朝鮮半島の支配権を握ることに成功した場合、日本は朝鮮半島の反抗と北方の脅威を同時並行で抑止し続けるという、中国が朝鮮半島進出に際して直面したのと同様の国家戦略上の二重の難題を抱えることになり、日本固有の意味とは別の意味で「あの国のあの法則」の適用を受けることとなります。しかも、中国より圧倒的に狭小な国土・勢力で中国ですら克服できなかった難題に挑まねばなりません。それどころか中国がジンクスを犯すことを厭わねば、中国の直面した難題に加えて、中国と対抗するという第三の難題まで抱えることになるでしょう。そして中国がジンクスを犯すことを厭わない可能性は歴史的に言って高いのです。ですが、比較的長期にわたって大陸政策を維持できた古代と近代の事例が、一方は中国の政治的混乱、一方は中国の近代化失敗によって、中華帝国の勢威が著しく低下するという特異な状況に支えられており、これと対照的に中国の勢威に直面した秀吉の出兵がすぐさま収束したことを思えば、日本には、海を越えた地で、中国の脅威を陸上で受け止め争闘することは不可能と言えるでしょう。
結局、日本の朝鮮半島支配が成功を続ける可能性は、中国が半島を支配する以上に乏しいのであって、支配できてもそれは一時的な徒労にとどまり、その負担はやがて国家転覆すら招く事ともなるでしょう。すなわち、「あの国のあの法則」は、中国の「ジンクス」と同様の地政学的背景の下、日本の国家戦略上の絶対的な禁忌をもまた示しているのです。
それにしても開国によって、唐突に列強の競争に巻き込まれた日本の立場は、進めば「法則」引けば白人様の奴隷という、どちらに転んでも破滅の、何とも理不尽極まりない状況でした。それが先の大戦の自爆的遂行によって、白人列強による世界支配体制を吹き飛ばすとともに、朝鮮半島問題と朝鮮半島問題につらなる大陸政局の負担をアメリカに押しつけ、半島から手を引くことができたのは、大変な幸運だったのでは無いかと思います。
アメリカの外交史の大家ケナンはこの状況について「ついに日本は中国本土からも、満州および朝鮮からもまた駆逐された。これらの地域から日本を駆逐した結果は、まさに賢明にして現実的な人々が、終始われわれに警告したとおりのこととなった。今日われわれは、ほとんど半世紀にわたって朝鮮および満州方面で日本が直面しかつ担ってきた問題と責任とを引き継いだのである。他国がそれを引き受けていた時には、われわれが大いに軽蔑した重荷を、今自ら負う羽目になり苦しんでいるのは、たしかに意地の悪い天の配剤である。」と言い、極東において「法則」に立ち向かうアメリカの不幸=日本の幸福について語っています。
大戦の犠牲は大きく、その結果を手放しで喜ぶことはできませんが、それでも大戦によって国際政治上で日本を挟み撃ちにしていた二つの破滅の消滅がもたらされたのですから、ひょっとすると犠牲への対価としては、望みうる最上の成果が得られたのではないかと思います。なんでも、かつて「ある英国の新聞は、日本は第二次大戦において戦術的には敗けたが、しかしながら心理的には勝ったと書いている」(曽村保信著『地政学入門 外交戦略の政治学』中公新書 208頁)とのことですが、確かに日露戦争が勝ちであった程度には、二次大戦にも勝ったと言えるのではないでしょうか。
とりあえず、我が国の先人達の勇戦に最大級の感謝を。
参考資料
『中村直勝全集第一巻』 淡交社
旗田巍著『朝鮮史』 岩波書店
杉山正明著『遊牧民から見た世界史 民族も国境もこえて』 日経ビジネス文庫
宮崎市定著『中国史』 岩波書店
宮崎市定著『隋の煬帝』 中公文庫
曽村保信著『地政学入門 外交戦略の政治学』 中公新書
ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』 岩波現代文庫
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タマはなくても矢弾は撃てる、ナニは無くとも槍は立つ いけいけ宦官大将軍
れきけん・とらっしゅばすけっと/京都大学歴史研究会関連発表
『明史』 袁崇煥伝(翻訳)
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/my/ensukan.html
『明史』 孫承宗伝(翻訳)
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/my/sonshoso.html
明朝衰亡・上
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2000/000519.html
明朝衰亡・中
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2000/000707.html
遊牧国家の軍隊(当ブログ内に移転しました)
http://trushnote.exblog.jp/14571708/
飛鳥時代の軍制改革
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2003/030523a.html
はじめてのさんごくしin歴研
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2003/031219.html
リンクを変更(2010年12月12日)
参考
金大統領の国会演説全文(民団新聞トピック)
http://www.mindan.org/shinbun/981014/topic/topic_e.htm1998
<金大中氏>「私への人権侵害」 事件で日本政府批判 (エキサイトニュース)
http://www.excite.co.jp/News/politics/20071030224600/20071031M10.138.html
「あの国のあの法則」という言葉があります。
主に朝鮮が嫌いな人によって卑俗な論述に用いられる言葉で、狭義では韓国と手を組んだ外部勢力は戦争や競争に負けるというものですが、広義では朝鮮半島に関わりを持った外部勢力はろくな目に遭わないといった程度の意味で使われているようです。
参考
あの国のあの法則(はてなダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%A2%A4%CE%B9%F1%A4%CE%A4%A2%A4%CE%CB%A1%C2%A7?kid=80506
「第一法則 国家間から企業、個人に至るまで、韓国と組むと負ける。」以下略
あの国のあの法則 (通信用語の基礎知識)
http://www.wdic.org/w/WDIC/あの国のあの法則
上記ページと同様の記述の後に、
「結論として、朝鮮半島の全てと関わるとロクなことがない、ということである。」
とある。
なお、現代日本では、一部に朝鮮に親近感を感じなければならないという風潮が見られるので、このように朝鮮を邪険にした物言いには反感を持たれる方も少なくないでしょう。ですが、さすがに無理のある狭義の方はともかく、広義の方の、朝鮮半島に関わりを持った外部勢力はろくな目に遭わないという認識は、なにも日本の反朝鮮分子のみが持っているわけではありません。朝鮮人自身もこのことは認識しているのであって、2006年9月11日には江原道民日報が「韓半島ジンクス」という論説を展開しています。
そこでは隋の高句麗遠征失敗、唐の高句麗遠征および新羅制圧失敗、対日戦で朝鮮半島に大軍を送った消耗による明の滅亡、朝鮮半島支配を巡る日清戦争の敗北をきっかけとした清の滅亡などを例に挙げ、中国は繰り返し周辺諸族を屈服させ吸収してきたが、朝鮮人を屈服させることだけはついにできず、朝鮮半島にかかわると歴史的被害を被ってしまうとの主張が為されています。
参考
韓半島ジンクス(江原道民日報)
http://www.kado.net/centermenu-01/news_read.jsp?seq_no=15&refer=1733
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-KJ,bF,hT,uaHR0cDovL3d3dy5rYWRvLm5ldC9jZW50ZXJtZW51LTAxL25ld3NfcmVhZC5qc3A/c2VxX25vPTE1JnJlZmVyPTE3MzM(上記記事の日本語訳)
そして、これら中国史の事例に加えて、朝鮮半島経営に手を焼き白村江に結末する古代日本の労苦、秀吉の征服失敗、朝鮮半島からずるずると大陸へ深入りしていった大日本帝国の最終的な運命など、日本史上の経験をも振り返れば、外部勢力が朝鮮半島に関与するとろくな結果にならないということは、認めざるを得ないのではないでしょうか。
したがって、広義の方であれば「あの国のあの法則」は、断じて右翼がかった戯言と切って捨てるべきではなく、むしろ歴史上の信憑性ある経験則として、常に頭の片隅に留めて、国際政治上の日本の身の振り方を考える際などに十分考慮すべき事項ではないかと思われます。
しかし、それでもこの「法則」を、卑俗な非理性的戯言として、拒絶される方がおられると思います。
そこで、50年前の高名な歴史家の同様の主張を引いて、「法則」が学問的理性的な最高度の頭脳によって、とっくの昔に見いだされ主張されていたことを示してみようと思います。
とりあげる人物は、日本中世史の大家、中村直勝氏。京都大学等で教職を歴任し、先見に満ちた論文・著作によって先覚的な業績を挙げたほか、古文書の調査・収集・研究に大いに貢献した碩学です。
さて、この碩学が、「法則」同様の主張を為したのは、1958年刊行の小著『日本史大観』においてです。
すなわち、古代日本の苦難を例に絶海の孤島より大陸に派兵する困難を説くなどして、秀吉の朝鮮出兵を批判した同書第十二章で、氏は、注釈に「朝鮮半島に手を出した国家は必ず破滅してしまう事は、東亜の歴史が教えて居る所である。朝鮮半島には手を出すな、と言いたい。中国五千年の歴史を眺めて、私の言が偽りでない事を知ってほしい。」(『中村直勝全集第一巻』淡交社 580頁)と記しています。
そう、朝鮮人自身が「韓半島ジンクス」の根拠に挙げる中国史、そして本稿で挙げた日本史の古来からの経験、これらを踏まえれば、嫌韓の風潮に乗った俗流歴史論者のみならず、最高の学問的知性でさえも、「朝鮮半島には手を出すな」という結論にたどり着くわけですね。
ところで、朝鮮半島に関わるとろくな目に遭わないという「あの国のあの法則」に当たる現象が存在しているとして、「法則」を成り立たせている原因・背景は何か?今度はこれを考察してみましょう。
まずは、巨大な国力を誇り、簡単に朝鮮征服できておかしくないはずの中国について、朝鮮進出の諸事例を考察し、外敵の敗北をもたらす朝鮮半島の地政学的特質を探り当てることにしましょう。
そのため史上から、中国諸王朝が、名目上の宗主権を超えて朝鮮半島に大きな支配力・影響力を行使した、あるいは行使しようとした事例を集めてみることにします。
中国が最初に本格的な朝鮮半島支配を図ったのは、漢の盛時で、漢は建国期以来の北方の遊牧民族匈奴に対する従属関係を解消するため、長期にわたって総力を挙げた大々的な攻勢をかける(紀元前129~119年)。これによって漢は匈奴に大打撃を与えて、その脅威を完全に取り除き、次いで東方に目を転じて朝鮮半島の大部分を征服(紀元前109年~108年)、半島北西部の楽浪郡を筆頭に四郡を設置した。ただし、間もなく朝鮮諸族の反抗を受けて支配領域は縮小を始め、設置後26年には楽浪郡しか残らなくなっている。
その後、朝鮮半島では、楽浪郡および楽浪郡から分かれた帯方郡にしか中国の支配は残らず、その周囲で高句麗等の朝鮮人国家が成長、中国の東方支配を脅かし始めたが、烏丸の征服(207年)などで中国の曹操軍閥は北辺に対しても勢威を振るい、曹操軍閥の建国した魏は、高句麗をも攻撃して壊滅的な被害を与えることに成功している(244~245年)。
4世紀になると、中国は遊牧諸族の台頭・侵入で分裂に陥り、満州に台頭した鮮卑は楽浪郡・帯方郡と中国本土との連絡を遮断、これを好機と朝鮮諸族は立ち上がって、まず楽浪郡が滅亡(313年)、しばらく後に帯方郡も滅亡する(同世紀半ば)。
中国が分裂状態にある間、朝鮮は中国の脅威を受けず、むしろ高句麗が中国辺境を脅かしていたが、6世紀のおわりには、隋の統一によって中国は長きにわたる分裂を脱する。中国は長らく遊牧民族の突厥に従属していたが、折しも突厥が弱体化したことにつけ込んで力関係を好転させており(583年)、対外的に大いに勢威を奮ってその力は朝鮮にも及んでくることになった。朝鮮半島にも大規模な出兵が繰り返されたが(598年、612~614年)、悪天候と疫病、高句麗の頑強な抵抗と補給の破綻、大遠征の負担への不満が引き起こした国内の反乱によって、成果をあげることができなかった。それどころか反乱によって隋は滅亡へと向かい、この間突厥の脅威も再興している。
隋に代わって中国を統一した唐は、建国時には勢威が奮わず、突厥に従属していたものの、まもなく突厥支配下の諸族が離反した機を捉え、力関係を逆転させて突厥を従属させることに成功(630年)、隋の盛期以上に対外的に勢威を振るった。朝鮮では数度にわたって高句麗を討ったが、これは失敗に終わった(644~646年、655~659年)。そこで唐は、高句麗への正面攻撃をあきらめて、高句麗の背後に手を伸ばし、半島南東部の新羅と結んで食料・軍需品を供給させつつ、まず半島南西部の弱体な百済を海路征服(660年)、ついで高句麗を征服する(668年)。だが高句麗、百済の遺民の反乱や、新羅の抵抗を受け、朝鮮半島支配を断念するに至る(675年)。なおこの直前(674年)にペルシアの王子が亡命してきた時点が唐の対外的勢威の最盛期で、まもなく突厥が独立再興する(682年)など、この頃から唐の勢威は落ち込んでいく。
唐が衰退期に入ってからは朝鮮半島への中国の脅威は消えたが、やがて満州から中国北部にかけての地域で遊牧民の契丹が建てた遼、次いで狩猟民の女真が建てた金が台頭して、10世紀から12世紀にかけて高麗治下にあった朝鮮をしばしば侵略する。南方で宋と対峙していたからか、これら諸国が朝鮮全土を脅威するようなことはなかったものの、その侵略は一度は首都を攻略するなどし、朝鮮を少なからず苦しめた。
さらに13世紀、遊牧民のモンゴル(元)が台頭するに及んで、朝鮮半島全土が徹底的に蹂躙され(1231年以降)、ついには高麗は完全にモンゴルの属国となる(1260年)。元の皇女が王妃となって以降、高麗はモンゴルと混血の国王によって支配され、朝鮮は完全にモンゴルと一体化していった。
日本を統一した豊臣秀吉が二度にわたって李氏朝鮮に出兵すると、明は援軍を送って日本軍と戦うが(1592~1593年、1597~1598年)、援軍と言いながら、日本軍に劣らぬ乱暴狼藉で朝鮮の国土に荒廃をもたらし、戦闘では日本軍相手に戦意を維持できないほどの敗北を重ね、国力を大いに消耗する。これにより既に衰退期にあった明は、さらに衰退の速度を早め、おまけに朝鮮介入に満州防衛の兵力を吸い取られたことで、三十年間どうにか抑止に成功していた積年の悩み、騎馬民族の脅威が復活、狩猟民の女真が台頭して、ついには女真が清を建てて明を滅ぼすことになる。
清の侵略の前に、李氏朝鮮は首都を放棄することとなり、屈服して清と兄弟関係を結んだ(1627年)。その後、清は糧食提供の強請や明征服の軍兵の徴集、兄弟関係の君臣関係への改変要求などを行い、反抗した朝鮮に対して大々的に征伐して、甚大な被害を与えつつ首都までを制圧、朝鮮の臣従と対明出兵、王子・大臣の入質を実現した。
西洋列強の東アジア進出が激化する中、末期の清は日本と朝鮮半島の支配権を争い、1882年に出兵して、一挙に朝鮮の政治支配権を奪取する。その後、日本は経済的には清よりめざましく朝鮮進出するなど、なお清と勢力を争う形勢を取り、日清戦争(1894~1895年)が勃発、清は敗戦によって前近代性・圧倒的弱体を暴露され、列強の猛烈な侵略に曝されるようになる。
この内、最後の事例に関しては、近代化した諸国と近代化できなかった国家の格差の問題が関係しており、人口や地勢といった地政学的要因以外の要素が強く、地政学的な検討には少々不適なので除外しておきましょう。
その上で、上述の事例から分かることは、朝鮮半島は北方騎馬民族、中華帝国、朝鮮民族の三勢力の接点であり、中国の朝鮮経略は、騎馬民族をも視野に収めた大戦略の中で行われているということです。
現に、中国王朝の朝鮮進出は基本的に遊牧民や狩猟民といった北辺の騎馬民族勢力の脅威を克服した後か、あるいは中国王朝が騎馬民族由来で中国化しきっておらず騎馬民族勢力の脅威をそもそも持たない場合にのみ、行われており、ここからは騎馬民族問題の解決が、朝鮮経略の前提となっていること、あるいは騎馬民族問題解決の余波として朝鮮経略が行われていることが明らかです。4世紀の楽浪郡・帯方郡の滅亡から分かるように、騎馬民族によって朝鮮への経路の側面が脅威されれば、中国が朝鮮半島へ政治支配を伸ばすことは不可能なのです。
そしてこのことは、、中国王朝が朝鮮半島に政治支配を伸ばす際には、前提として、全ユーラシア文明の永遠の課題となっている騎馬民族問題を克服するだけの力、あるいは幸運が要求されるということを意味しています。だがこの課題は、世界史上の諸々の民族移動を見れば分かるように、非常な難題であって、このような過大な負担の上に重ねて、朝鮮制圧というさらなる問題を抱えることは決して賢明とは言えません。
戦争における守勢の利や、中国の国力の源泉からはるか僻遠に当たる地理を考えれば、朝鮮の制圧が、相当の難題であることは明らかです。しかも、大勢力ひしめく極東という地域に注目していると忘れがちですが、朝鮮は世界的には決して弱小勢力ではないのです。朝鮮は、対外発展によって東アジア史上に栄光を刻むほどには強くないが、外敵に容易く征服されるほどには弱くありません。そのことは、強固な反抗で、中国の大軍の侵略を跳ね返した高句麗や新羅を見れば明らかでしょう。
したがって、力による打倒で騎馬民族問題を克服した後は、いかに中国が大国とはいえ、朝鮮という強敵を制圧するだけの余力は残りません。また騎馬民族国家の分裂のような幸運によって問題を克服したに過ぎない場合は、騎馬民族の脅威は潜在化しただけであって、朝鮮という相当の強敵へむけて相応の大軍を遠路進軍させることで、軍事力に損耗や歪みが生じ、これによって脅威が顕在化する機会が訪れることともなるでしょう。
例えば、匈奴に全面戦争を挑んで大勝し騎馬民族の脅威を力で克服した漢の事例を見れば、朝鮮諸族が未開状態であったにもかかわらず、漢は朝鮮を押さえきれず、現地民の反抗の前にたちまち支配の縮小が起こっています。
突厥の分裂につけ込んで騎馬民族問題を克服した、隋・唐の事例では、朝鮮半島制圧失敗の直後に突厥の脅威の再興が起こっているが、これは決して偶然ではありますまい。
形式上は朝鮮の援兵であったが、僻遠の朝鮮半島に大軍を送り込んで強敵と戦い国土を狼藉した点で、既に挙げた諸々の侵略と意味において等しい明の遠征では、結果として国防体制に隙が生じて、女真族の脅威が巻き起こっています。
また騎馬民族と朝鮮という僻遠の勢力への続けざまの軍事力行使は、国力の損耗を伴うのであって、騎馬民族と朝鮮に向けた軍事力行使以後、漢は衰退、隋は滅亡に向かい、唐は停滞に入って、明は滅亡に向かっています。
すなわち、中国本土に根を下ろした王朝が朝鮮に手を出すと言うことは、距離の重荷を背負いながら、騎馬民族という全ユーラシア的な脅威の制圧と朝鮮という相当の強国の制圧を同時進行させると言うことであり、これは現実問題として、軍事的に破綻必至の難題、政治的に国力を損なう失策であると言えるのです。
この点朝鮮半島へ侵攻して強力な支配を実現することのできた中国王朝が、騎馬民族由来で中国化の防止に注意を払った元と清であることは、非常に示唆に富むと言えるでしょう。
結局、中国史上には、内陸から騎馬民族が常に文明圏を脅威・圧迫しているという、地政学上の基本問題の変奏として、「あの国のあの法則」あるいは「韓半島ジンクス」が、根拠を持って存在し、国家戦略の展開の限界点および国家戦略上の絶対的な禁忌を示しているのです。そしてかつての騎馬民族のごとく北方からユーラシアを睥睨するロシアの存在、発展による中国の地政学的地位の回復を思えば、今後も中国が法則に補足される可能性が無いとは言い切れないでしょう。
それでは日本の場合はどうでしょうか。
日本の場合は、朝鮮半島進出の失敗例として、古代の朝鮮半島における争闘と敗退、秀吉の出兵失敗、近代日本帝国の拡大と挫折があります。
まずここで注目すべきは、このわずかな事例がそれぞれ、古代的、近世的、近代的国家統一の勃興期に辺り、すべて歴史的な国威発揚時代に当たるということである。この点、古代国家の解体期で国土分裂状態にあった時代の魏、国家権力の低迷期である中世と位置づけられる隋・唐のように、中国が、国威発揚時代以外でも、朝鮮半島進出を行っているのとは対照的です。すなわち、日本の国力は、その上昇期から極盛期でなければ大陸進出が起こらないほど貧弱だと言って良いと思われます。
要は日本にとっても「あの国のあの法則」は、国家戦略の展開の限界点を示していると言えるのです。
なお何らかの理由で、日本が朝鮮半島の支配権を握ることに成功した場合、日本は朝鮮半島の反抗と北方の脅威を同時並行で抑止し続けるという、中国が朝鮮半島進出に際して直面したのと同様の国家戦略上の二重の難題を抱えることになり、日本固有の意味とは別の意味で「あの国のあの法則」の適用を受けることとなります。しかも、中国より圧倒的に狭小な国土・勢力で中国ですら克服できなかった難題に挑まねばなりません。それどころか中国がジンクスを犯すことを厭わねば、中国の直面した難題に加えて、中国と対抗するという第三の難題まで抱えることになるでしょう。そして中国がジンクスを犯すことを厭わない可能性は歴史的に言って高いのです。ですが、比較的長期にわたって大陸政策を維持できた古代と近代の事例が、一方は中国の政治的混乱、一方は中国の近代化失敗によって、中華帝国の勢威が著しく低下するという特異な状況に支えられており、これと対照的に中国の勢威に直面した秀吉の出兵がすぐさま収束したことを思えば、日本には、海を越えた地で、中国の脅威を陸上で受け止め争闘することは不可能と言えるでしょう。
結局、日本の朝鮮半島支配が成功を続ける可能性は、中国が半島を支配する以上に乏しいのであって、支配できてもそれは一時的な徒労にとどまり、その負担はやがて国家転覆すら招く事ともなるでしょう。すなわち、「あの国のあの法則」は、中国の「ジンクス」と同様の地政学的背景の下、日本の国家戦略上の絶対的な禁忌をもまた示しているのです。
それにしても開国によって、唐突に列強の競争に巻き込まれた日本の立場は、進めば「法則」引けば白人様の奴隷という、どちらに転んでも破滅の、何とも理不尽極まりない状況でした。それが先の大戦の自爆的遂行によって、白人列強による世界支配体制を吹き飛ばすとともに、朝鮮半島問題と朝鮮半島問題につらなる大陸政局の負担をアメリカに押しつけ、半島から手を引くことができたのは、大変な幸運だったのでは無いかと思います。
アメリカの外交史の大家ケナンはこの状況について「ついに日本は中国本土からも、満州および朝鮮からもまた駆逐された。これらの地域から日本を駆逐した結果は、まさに賢明にして現実的な人々が、終始われわれに警告したとおりのこととなった。今日われわれは、ほとんど半世紀にわたって朝鮮および満州方面で日本が直面しかつ担ってきた問題と責任とを引き継いだのである。他国がそれを引き受けていた時には、われわれが大いに軽蔑した重荷を、今自ら負う羽目になり苦しんでいるのは、たしかに意地の悪い天の配剤である。」と言い、極東において「法則」に立ち向かうアメリカの不幸=日本の幸福について語っています。
大戦の犠牲は大きく、その結果を手放しで喜ぶことはできませんが、それでも大戦によって国際政治上で日本を挟み撃ちにしていた二つの破滅の消滅がもたらされたのですから、ひょっとすると犠牲への対価としては、望みうる最上の成果が得られたのではないかと思います。なんでも、かつて「ある英国の新聞は、日本は第二次大戦において戦術的には敗けたが、しかしながら心理的には勝ったと書いている」(曽村保信著『地政学入門 外交戦略の政治学』中公新書 208頁)とのことですが、確かに日露戦争が勝ちであった程度には、二次大戦にも勝ったと言えるのではないでしょうか。
とりあえず、我が国の先人達の勇戦に最大級の感謝を。
参考資料
『中村直勝全集第一巻』 淡交社
旗田巍著『朝鮮史』 岩波書店
杉山正明著『遊牧民から見た世界史 民族も国境もこえて』 日経ビジネス文庫
宮崎市定著『中国史』 岩波書店
宮崎市定著『隋の煬帝』 中公文庫
曽村保信著『地政学入門 外交戦略の政治学』 中公新書
ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』 岩波現代文庫
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