貴公子たちの蛮行―因果の歴史が、また一ページ―
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さて、その『銀河英雄伝説』(以下『銀英伝』)における貴族たちは悪役の例に漏れず、無能・高慢・陰湿など様々な悪徳にまみれた存在として描かれています。
こうした体たらくの貴族たちに対して、さすがに物語中の心ある人々も辛辣な意見を抱いていたようです。ラインハルトの側近であり作品世界中で最高レベルの名将と称されるロイエンタール元帥(この時点では少将ですが)は
「奴らは要するに特権と巨富を持った野獣だ。知識はあっても教養はない。自尊心はあっても自制心はない。」(田中芳樹『銀河英雄伝説外伝一巻』徳間ノベルス版 82頁)
「特権は人の精神を腐敗させる最悪の毒だ。彼ら大貴族は、何十世代にもわたって、それに浸りきっている。自分を正当化し、他人を責めることは、彼らの本能になっているのだ。」(田中芳樹『銀河英雄伝説二巻 野望編』徳間ノベルス版 95頁)
その「雅な」日本の王朝貴族は、実際どのレベルだったのか。それを以下で見ていこうと思います。その際、藤原実資の日記『小右記』は当時の貴族たちの行状を数多く記しており、大きな手がかりとなります。そこで主に『小右記』から貴族の起こした問題行動を列挙していきます。
藤原道長といえば同時代の貴族として最も知られた存在であり、天皇の外戚として権力・栄華をほしいままにした人物です。そんな道長ですが、彼は中納言時代の永延元年(988)、式部省(人事担当)の次官である橘淑信を拉致して自らの足で路地を歩かせて引き回し、暴行したといいます。当時の貴族は専ら牛車で移動しており自ら歩く事はありませんでしたから、これは相当な侮辱といってよいでしょう。道長がこうした暴挙に及んだ理由は、自らの部下が望みの役職に就けなかった腹いせだということです。『源氏物語』主人公・光源氏のモデルと言われることもある貴公子・道長が、公務を執行しただけの人物、それもれっきとした貴族社会の一員を相手に極めて私的な理由で拉致・侮辱・暴行を加えたというのは信じがたい話ですが、れっきとした歴史的事実のようです。そしてこうした振る舞いをしていたのは道長だけではありませんでした。
道長の兄・道隆も一条天皇の摂政・関白を歴任した人物ですが、その家系にも乱行に及んだ人物が多数見られています。道隆の長男・伊周は内大臣を務め道長と関白の座を巡って争った人物ですが、長徳二年(996)に女性関係を巡って花山法皇と争い、弟・隆家と共に法皇の衣に矢を射掛けて威嚇しその従者の首を奪って持ち去るという暴挙に出ています。この軽はずみで乱暴な行動は、失脚の口実とされ伊周の政治的生命を絶つこととなりました。
また、伊周の子・道雅も乱暴さでは引けを取りません。長和二年(1013)には敦明親王の従者に集団で暴行を加えて謹慎処分となっています。また、高階順業と博打の上で争いになり路上で掴み合いの喧嘩をして注目の的にもなったことがあります。こうした乱暴なふるまいから「荒三位」と呼ばれました。これだけではなく、花山法皇の皇女に懸想するものの受け入れられなかったのを恨みこれを拉致して殺害し路上に死体を遺棄するという前例の無い蛮行をしています。上級貴族にはよほどの事がないと処罰を与えられる事は無く、この際も表立った刑は受けていません。とはいえ、流石にこれは見過ごせなかったらしく、道雅は刑罰こそ受けなかったものの政治生命を絶たれています。
道長の次兄・道兼は道隆の後を受けて関白となるも間もなく病没し「七日関白」と呼ばれました。道兼は生前に道隆への激しい対抗意識を燃やしていたようです。それを反映してかは存じませんが、彼の家系も道隆の系統に負けず劣らず悪行三昧です。まず道兼の子・兼隆は長和二年(1013)に自らの従者を撲殺。その子・兼房も寛仁二年(1018)に蔵人頭(秘書長官)に宴席で侮辱を加え暴行しようとし、蔵人頭が争いを避けて控え室に逃げ込んだ後も部屋に仲間を率いて投石。更に天皇の周辺で侮辱の言葉を並べ立てるという挙に出ています。更に治安元年(1021)には宮廷の仏事で少納言・源経定と争い集団で暴行を加えています。更に翌年には下級貴族・藤原明知を蔵人控え室に連れ込んで暴行に及んでいるのです。どうしようもないですね。兼隆の弟・兼綱も寛弘二年(1005)に豊明節会(大嘗祭・新嘗祭の翌日に行う行事)のための備品を強奪して蔵人に仲間と共に暴力を振るっています。国家的に重要な儀式を暴力で妨げたにもかかわらず、これらも明らかな処分を受けたという記録は残されていません。
しかし何といっても栄華を極めた道長系統の傍若無人ぶりが目を引いたようです。
暴力行為というのとは少し違いますが、道長が晩年に自らの極楽往生を祈るため法成寺を建立した際、都の門や石垣の礎石を勝手に解体して寺院建立に用いるという行動に出ています。国家を守るべき最高権力者が率先して公然と国家首都の施設を破壊して私物化しているわけです。どの時代でも権力者が公の財産を懐に納めることは珍しくないですが、ここまで堂々と行うのはさすがにどうかと思います。
上述した最上級クラスの大貴族でさえこの体たらくですから、中小貴族も推して知るべし。貴族たちは荒くれ者達を雇ってしばしば乱闘行為に及んだといいます。上述した伊周と花山法皇の争いもその延長上で理解すべきでしょうし、長徳元年(995)には道長と隆家の従者同士が武器を使用しての乱闘行為に出て死者を出す騒ぎになっています。そこまでいかなくとも祭礼での場所取りを巡っての従者同士の乱闘は珍しくなく、時には牛車に乗った主人をも相手側が投石するなどで辱める例も見られました。そういえば、『源氏物語』でも葵上(源氏の正妻)と六条御息所(前皇太子の妃、源氏の愛人の一人)の従者同士が争い御息所が侮辱を受ける逸話がありますね。
女性貴族もこうした暴力行為とは無縁ではありませんでした。長和四年(1015)、内裏女房が前中宮彰子の従者と争いになり殴り合いをしています。治安三年(1021)には女房の息子達が内裏で刀を抜いて乱闘に及ぶ大不祥事が起こっていますが、特に処罰はされませんでした。この時期の宮廷にはけじめも何もあったものではありません。天皇を始めとする要人警護が大丈夫か、心配になる逸話ですね。
貴族同士でさえこの通りですから、相手が平民などであれば容赦があるはずもありません。争いが起こると家臣を派遣してその家を破壊・略奪など乱暴の限りを尽くすのは珍しくもありませんでしたし、集団で女性を略奪・強姦する事もしばしばあったようです。更に平民が貴族の機嫌を損ねるとどうなるか。『今昔物語』には、花山法皇が銀鍛冶に対して意趣を含んだ際、冬の最中に水を浸した壷に一晩漬けて過ごさせるという話が記されているのだそうです。この逸話自体の真偽は不明ですが、このような事がしばしば行われていたであろうと想像されます。
まったく、これでは暴虐さに関して『銀英伝』の貴族たちを笑えませんね。いや、それどころか銀河帝国貴族の方がひょっとするとまだ人間ができている可能性すら否定できません。しばしば愚行・悪行に出て「バカ貴族」の代表とされている人物でさえ、宮廷内部では激昂した相手への暴力を自制できた訳ですから。そして、貴族女性が自ら暴力沙汰に出た話は記憶する限り作中にありませんから。そう考えると全く酷い話です。
今回は胸糞の悪い話を中心に取り上げましたが、「平安貴族」も一般的イメージと実態が大きくかけ離れているのですね。驚くばかりです。
【参考文献】
繁田信一『殴りあう貴族たち』柏書房(今回は実質、この本の内容を纏めただけです)
『日本古典文学大系14-18源氏物語』岩波書店
『日本古典文学大系太平記一~三』岩波書店
田中芳樹『銀河英雄伝説』一巻~十巻、外伝一巻~四巻 徳間ノベルス
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※2017/4/6 文章に大幅に手を入れました。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「源氏物語を読む」
(http://kurekiken.web.fc2.com/data/1998/980515.html)
「佐々木導誉」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/douyo.html)
関連サイト:
「銀河英雄伝説を広めるサイト」
(http://hisakawa.net/ginei/)
「源氏物語」
(http://www.genjimonogatari.net/)
源氏物語解説サイトです。