2007年 12月 05日
リアルを拒否した男たち ~現代ファンタジー創世記~ ただの現実には興味なし、僕らは仮想を創り出す
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戦間期のイギリスはオックスフォード大学で、一次大戦の激戦と戦傷をくぐり抜けてきた二人の男が出会い、そしてぶつかります。
二人の男とは、J・R・R・トールキンとC・S・ルイス、前者が言語学系の文学者、後者は文学系の文学者で、彼らは、トールキン提案のカリキュラム案を発端として講座開設枠を巡って反目真っ最中の両学問陣営に所属する、二人の若手の研究者でした。いわば自分たちの利権がかかっているわけで、当然、ルイスもトールキン案に激しい反発を示していたのですが、この二人、神話の愛好という共通の趣味嗜好を持っており、互いにそのことを知るに及んで、急速に友情を深めていくことになります。そして彼らは、さらに数人の友人を加えてインクリングスと呼ばれる文学同好会を立ち上げることになり、同性愛気質に満ちた会での深い友情関係の中で、互いの創造力を刺激し合い、時間旅行や宇宙旅行、剣と魔法の世界など様々な題材を扱った物語を生み出していきました。
要するに、オックスフォードで利権を巡る大人の争いを繰り広げてたはずの敵同士の偉い先生方が、いつの間にかライトノベル創作サークル立ち上げて、いちゃいちゃし始めたってわけです。
そしてこのサークルで、トールキンはやがてはファンタジーの古典的傑作『指輪物語』を披露することとなり、これが文学的刺激となってルイスは後に、これまたファンタジーの古典的傑作『ナルニア国ものがたり』を著すに至ります。
さてこんな感じに誕生の運びとなりましたファンタジーの二大古典作品ですが、両者ともリアル世界を断固拒否する徹底した仮想世界志向が香ばしく、なかなか良い感じなので、今回は、その辺りについてちょっと紹介したいと思います。
『指輪物語』は、世界支配の力を持つ魔法の指輪を巡って主人公達が悪と戦いつつ、指輪を火山の火口に廃棄しようとする物語。そしてその物語世界の造形は、圧倒的に緻密な設定を堅固壮大に積み重ね、あたかも現実世界に対抗し得るもう一つの世界を創り上げるかのような有様で、その仕事ぶりは、トールキンの言語学者としての学識能力を活かして、作品中で使用される言語まで用意されるという徹底ぶりでした。というかトールキンは人工言語を完璧に構築するには神話の創造が不可欠との発想の下、物語作成を「エルフの言語に「歴史」的背景を与えるために始めた」(『指輪物語』著者ことわりがき 文庫9巻 評論社 335頁)らしいです。
まあそれはさておき、圧倒的な情熱で仮想世界を創り上げたトールキンは、その仮想世界に対し現実世界が薄汚れた手で触れること断固として拒否していました。この物語の生み出されていった時期が一部二次大戦と重なっていたために、『指輪物語』に二次大戦だの核兵器だのの比喩・寓意を読みとる向きもあったようなのですが、彼は「この物語には隠された意味とか「メッセージ」とかが含まれているのではないかという意見に対しては、作者の意図としては何もないと申し上げよう。これは寓意的なものでもなく、今日的な問題を扱ったものでもない。」(同書同巻 339頁)、「寓意や、今日的な問題にふれたものを好む人たちの見解や好みに合わせて、これをいろいろ違ったふうに改作することもできるだろう。しかしわたしは、寓意というものが、どんな形で示されようとどうしても好きになれない」(同書同感 340頁)と語って、そのような読みを断じて許さなかったのです。
ちなみに、こうして徹底した現実拒否の姿勢で創り上げられた強靱な物語世界は、1954年の初版出版によって世に出てから約十年後、1965年から68年にかけて、英米の若者の間に田園趣味だの薬物だの東洋神秘思想だの無政府主義だの革命思想だのと現実逃避傾向が蔓延する中、現実逃避文化の一種として多くの若者を引きずり込み、莫大な売り上げを叩き出します。そして熱狂が冷めた後にもその影響は70年代のファンタジーブームという形で残っていくことになり、『指輪物語』は、いわば現代ファンタジーの父といえる地位を占めることになります。
なお、いかにこの物語が60年代の英米のダメな若者を虜にしたかは、ちょっとどころでなくアレな信者が大発生して問題になったことからよく分かると思います。すなわち、学生が『指輪物語』世界にあまりに耽溺するのを彼らの知的衰弱の兆候ではないかと心配したイギリスの大学教授たちが、この作品を巡った議論を真剣に繰り広げる羽目に陥ったり、アメリカで物語中の賢者ガンダルフを大統領にとかほざいてデモを行う学生が現れたり、アメリカから熱狂的な読者がトールキンの下へひっきりなしに巡礼に訪れて、その不作法に耐えかねたトールキンが隠遁に入ったり。
ところで、トールキンが隠遁と書きましたが、これには信者の不作法以外に、彼の大学人としての立場が微妙になっていたことも影響していると言われます。なんでも彼は、仮想世界の創造に熱中するあまり、大学教授としての業績に乏しく、大学で非難の的となっていたそうなのです。つまり作者様ご本人の生活も、たいがい現実逃避って次元に達してたわけですね。
まあ文学なんて受け手を楽しませてなんぼで、精緻な学者的研究や批評が進んだところで社会に益する所などあまり無いわけです。すなわち文学に関しては学術論文の作成よりも、世界を熱狂させる傑作創造の方が、人類にとってはるかに有益であるはずで、それなら信者はともかく、教祖様の現実逃避には、賞賛と感謝の念を捧げたいと思います。
余談ながら、元来、小妖精に過ぎなかったエルフという存在を、人間に準ずる身体を持った人間より高貴で美しい亜人に仕立て上げたのは、現在のファンタジー造形に対するトールキンの大きな功績だそうです。ただエルフに関してなら、個人的には、とがった耳をつけた人の方が功績が大きいと思います。
続いて『ナルニア国ものがたり』に参りましょう。
この作品の格好いい現実拒否っぷりは、その結末にあります。この物語、ペペンシー家の四人の兄弟姉妹をはじめとするイギリスの子供達が、ナルニアという剣と魔法の異世界を何度か訪れて冒険を繰り広げるという話なのですが、その最終巻である第七巻『さいごの戦い』では凄まじいオチがつきます。
そこでは子供達も随分年を重ねて、もはや元子供達と言って良く、ペペンシー家の兄弟姉妹の一人スーザンなど、皆が「ナルニアの話をしたり、なにかナルニアに関係のあることをしたりしようと」すると、分別ある現実的な大人の態度で「あら、なんてすばらしい記憶をおもちなんでしょう。ほんとに、わたしたちが子どものころによく遊んだおかしな遊びごとを、まだおぼえていらっしゃるなんて、おどろきましたわ」と応じるほどの成長ぶりなのです(『さいごの戦い』 岩波少年文庫 219頁)。
ところが、こともあろうに残りの兄弟妹は「あの人はいま、ナイロンとか口紅とか、パーティーのほかは興味ないんです。」、「あの人の思うことといったら、できるだけ早く、一生のうちのいちばんばかな年ごろになりたがって、できるだけ長くその年ごろにとどまりたいということなのよ。」などとスーザンを切って捨て(同書 220頁)、スーザンを一人現実世界に残して異世界へと赴き、相も変わらず剣と魔法の冒険に骨の髄まで浸りきります。
挙げ句の果てに、最後の冒険を終えたところで、彼らは「わたしたちは、送りかえされるのを、おそれているんです、アスラン。あなたは、いままでもう何度もわたしたちを、わたしたちの世界へ返しておしまいになりましたもの。」などと、ナルニアを支配する絶対神アスランに嘆願を始めますが、これに対してアスランは「それをおそれる必要はない。」「いったい、気がつかなかったかね?」「実際に、鉄道事故があったのだ。」「あなたがたのおとうさんおかあさんも、あなたがたみんなも──影の国でつかうことばでいえば──死んだのだよ。学校は終わった。休みが始まったのだ。」と、とんでもない返答を行います(同書 293頁)。
つまり妄想に狂った兄弟達が、その両親もろとも鉄道事故で死亡の運命に落ち、兄弟中ただ一人狂気を脱したスーザンを置き去りにして、ご機嫌で現世の生を捨て妄想世界での生活に移行するという、何とも凄まじい結末なわけです。モテに走った馬鹿なんか血は繋がってても家族じゃねえ、そんな馬鹿は一人締め出して、残る家族で二次元に旅立つぜって感じのこの態度。現実、何それ、食べれるんすか、とか考えているに違いありません。驚異的に積極的な圧倒的なまでの現実拒否。前向きなほどに後ろ向き。
ここまでダメだとダメさも格好良く見えてきます。
ちなみにルイスはこの『さいごの戦い』で1957年に、前年度にイギリスで出た最も優れた児童文学として、カーネギー賞を受けています。
ナルニアは面白い作品なのでそれに賞をあげるのは大変結構だと思います。個人的には指輪より遙かに面白いと思いますし。ですが、この巻だけはどうなのか。こんな後ろ向きなものに、児童文学として賞を出すのは、どう考えたって絶対教育上ダメですよ。
それにしてもこんな選択をするイギリス人は、余りにダメすぎて、最高だと思います。
ところでリアルそっちのけで理想を抽出した仮想世界にはまり込む感性は、日本人に限られるものではなく、わりかし世界共通ではないかと思う今日この頃です。
(この辺りの記事及び発表を参照。)
参考資料
J・R・R・トールキン著『指輪物語』瀬田貞二/田中明子訳 評論社
C・S・ルイス著『ナルニア国ものがたり』瀬田貞二訳 岩波少年文庫
『ユリイカ 1992年7月号 特集トールキン 生誕百年─モダン・ファンタジーの王国』 青土社
井村君江著『妖精学入門』 講談社現代新書
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れきけん・とらっしゅばすけっと/京都大学歴史研究会関連発表
物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/kouroumu.html
物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―その2
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/genji.html
中国民衆文化史
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020607.html
西洋民衆文化史
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021108.html
日本民衆文化史
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html
二人の男とは、J・R・R・トールキンとC・S・ルイス、前者が言語学系の文学者、後者は文学系の文学者で、彼らは、トールキン提案のカリキュラム案を発端として講座開設枠を巡って反目真っ最中の両学問陣営に所属する、二人の若手の研究者でした。いわば自分たちの利権がかかっているわけで、当然、ルイスもトールキン案に激しい反発を示していたのですが、この二人、神話の愛好という共通の趣味嗜好を持っており、互いにそのことを知るに及んで、急速に友情を深めていくことになります。そして彼らは、さらに数人の友人を加えてインクリングスと呼ばれる文学同好会を立ち上げることになり、同性愛気質に満ちた会での深い友情関係の中で、互いの創造力を刺激し合い、時間旅行や宇宙旅行、剣と魔法の世界など様々な題材を扱った物語を生み出していきました。
要するに、オックスフォードで利権を巡る大人の争いを繰り広げてたはずの敵同士の偉い先生方が、いつの間にかライトノベル創作サークル立ち上げて、いちゃいちゃし始めたってわけです。
そしてこのサークルで、トールキンはやがてはファンタジーの古典的傑作『指輪物語』を披露することとなり、これが文学的刺激となってルイスは後に、これまたファンタジーの古典的傑作『ナルニア国ものがたり』を著すに至ります。
さてこんな感じに誕生の運びとなりましたファンタジーの二大古典作品ですが、両者ともリアル世界を断固拒否する徹底した仮想世界志向が香ばしく、なかなか良い感じなので、今回は、その辺りについてちょっと紹介したいと思います。
『指輪物語』は、世界支配の力を持つ魔法の指輪を巡って主人公達が悪と戦いつつ、指輪を火山の火口に廃棄しようとする物語。そしてその物語世界の造形は、圧倒的に緻密な設定を堅固壮大に積み重ね、あたかも現実世界に対抗し得るもう一つの世界を創り上げるかのような有様で、その仕事ぶりは、トールキンの言語学者としての学識能力を活かして、作品中で使用される言語まで用意されるという徹底ぶりでした。というかトールキンは人工言語を完璧に構築するには神話の創造が不可欠との発想の下、物語作成を「エルフの言語に「歴史」的背景を与えるために始めた」(『指輪物語』著者ことわりがき 文庫9巻 評論社 335頁)らしいです。
まあそれはさておき、圧倒的な情熱で仮想世界を創り上げたトールキンは、その仮想世界に対し現実世界が薄汚れた手で触れること断固として拒否していました。この物語の生み出されていった時期が一部二次大戦と重なっていたために、『指輪物語』に二次大戦だの核兵器だのの比喩・寓意を読みとる向きもあったようなのですが、彼は「この物語には隠された意味とか「メッセージ」とかが含まれているのではないかという意見に対しては、作者の意図としては何もないと申し上げよう。これは寓意的なものでもなく、今日的な問題を扱ったものでもない。」(同書同巻 339頁)、「寓意や、今日的な問題にふれたものを好む人たちの見解や好みに合わせて、これをいろいろ違ったふうに改作することもできるだろう。しかしわたしは、寓意というものが、どんな形で示されようとどうしても好きになれない」(同書同感 340頁)と語って、そのような読みを断じて許さなかったのです。
ちなみに、こうして徹底した現実拒否の姿勢で創り上げられた強靱な物語世界は、1954年の初版出版によって世に出てから約十年後、1965年から68年にかけて、英米の若者の間に田園趣味だの薬物だの東洋神秘思想だの無政府主義だの革命思想だのと現実逃避傾向が蔓延する中、現実逃避文化の一種として多くの若者を引きずり込み、莫大な売り上げを叩き出します。そして熱狂が冷めた後にもその影響は70年代のファンタジーブームという形で残っていくことになり、『指輪物語』は、いわば現代ファンタジーの父といえる地位を占めることになります。
なお、いかにこの物語が60年代の英米のダメな若者を虜にしたかは、ちょっとどころでなくアレな信者が大発生して問題になったことからよく分かると思います。すなわち、学生が『指輪物語』世界にあまりに耽溺するのを彼らの知的衰弱の兆候ではないかと心配したイギリスの大学教授たちが、この作品を巡った議論を真剣に繰り広げる羽目に陥ったり、アメリカで物語中の賢者ガンダルフを大統領にとかほざいてデモを行う学生が現れたり、アメリカから熱狂的な読者がトールキンの下へひっきりなしに巡礼に訪れて、その不作法に耐えかねたトールキンが隠遁に入ったり。
ところで、トールキンが隠遁と書きましたが、これには信者の不作法以外に、彼の大学人としての立場が微妙になっていたことも影響していると言われます。なんでも彼は、仮想世界の創造に熱中するあまり、大学教授としての業績に乏しく、大学で非難の的となっていたそうなのです。つまり作者様ご本人の生活も、たいがい現実逃避って次元に達してたわけですね。
まあ文学なんて受け手を楽しませてなんぼで、精緻な学者的研究や批評が進んだところで社会に益する所などあまり無いわけです。すなわち文学に関しては学術論文の作成よりも、世界を熱狂させる傑作創造の方が、人類にとってはるかに有益であるはずで、それなら信者はともかく、教祖様の現実逃避には、賞賛と感謝の念を捧げたいと思います。
余談ながら、元来、小妖精に過ぎなかったエルフという存在を、人間に準ずる身体を持った人間より高貴で美しい亜人に仕立て上げたのは、現在のファンタジー造形に対するトールキンの大きな功績だそうです。ただエルフに関してなら、個人的には、とがった耳をつけた人の方が功績が大きいと思います。
続いて『ナルニア国ものがたり』に参りましょう。
この作品の格好いい現実拒否っぷりは、その結末にあります。この物語、ペペンシー家の四人の兄弟姉妹をはじめとするイギリスの子供達が、ナルニアという剣と魔法の異世界を何度か訪れて冒険を繰り広げるという話なのですが、その最終巻である第七巻『さいごの戦い』では凄まじいオチがつきます。
そこでは子供達も随分年を重ねて、もはや元子供達と言って良く、ペペンシー家の兄弟姉妹の一人スーザンなど、皆が「ナルニアの話をしたり、なにかナルニアに関係のあることをしたりしようと」すると、分別ある現実的な大人の態度で「あら、なんてすばらしい記憶をおもちなんでしょう。ほんとに、わたしたちが子どものころによく遊んだおかしな遊びごとを、まだおぼえていらっしゃるなんて、おどろきましたわ」と応じるほどの成長ぶりなのです(『さいごの戦い』 岩波少年文庫 219頁)。
ところが、こともあろうに残りの兄弟妹は「あの人はいま、ナイロンとか口紅とか、パーティーのほかは興味ないんです。」、「あの人の思うことといったら、できるだけ早く、一生のうちのいちばんばかな年ごろになりたがって、できるだけ長くその年ごろにとどまりたいということなのよ。」などとスーザンを切って捨て(同書 220頁)、スーザンを一人現実世界に残して異世界へと赴き、相も変わらず剣と魔法の冒険に骨の髄まで浸りきります。
挙げ句の果てに、最後の冒険を終えたところで、彼らは「わたしたちは、送りかえされるのを、おそれているんです、アスラン。あなたは、いままでもう何度もわたしたちを、わたしたちの世界へ返しておしまいになりましたもの。」などと、ナルニアを支配する絶対神アスランに嘆願を始めますが、これに対してアスランは「それをおそれる必要はない。」「いったい、気がつかなかったかね?」「実際に、鉄道事故があったのだ。」「あなたがたのおとうさんおかあさんも、あなたがたみんなも──影の国でつかうことばでいえば──死んだのだよ。学校は終わった。休みが始まったのだ。」と、とんでもない返答を行います(同書 293頁)。
つまり妄想に狂った兄弟達が、その両親もろとも鉄道事故で死亡の運命に落ち、兄弟中ただ一人狂気を脱したスーザンを置き去りにして、ご機嫌で現世の生を捨て妄想世界での生活に移行するという、何とも凄まじい結末なわけです。モテに走った馬鹿なんか血は繋がってても家族じゃねえ、そんな馬鹿は一人締め出して、残る家族で二次元に旅立つぜって感じのこの態度。現実、何それ、食べれるんすか、とか考えているに違いありません。驚異的に積極的な圧倒的なまでの現実拒否。前向きなほどに後ろ向き。
ここまでダメだとダメさも格好良く見えてきます。
ちなみにルイスはこの『さいごの戦い』で1957年に、前年度にイギリスで出た最も優れた児童文学として、カーネギー賞を受けています。
ナルニアは面白い作品なのでそれに賞をあげるのは大変結構だと思います。個人的には指輪より遙かに面白いと思いますし。ですが、この巻だけはどうなのか。こんな後ろ向きなものに、児童文学として賞を出すのは、どう考えたって絶対教育上ダメですよ。
それにしてもこんな選択をするイギリス人は、余りにダメすぎて、最高だと思います。
ところでリアルそっちのけで理想を抽出した仮想世界にはまり込む感性は、日本人に限られるものではなく、わりかし世界共通ではないかと思う今日この頃です。
(この辺りの記事及び発表を参照。)
参考資料
J・R・R・トールキン著『指輪物語』瀬田貞二/田中明子訳 評論社
C・S・ルイス著『ナルニア国ものがたり』瀬田貞二訳 岩波少年文庫
『ユリイカ 1992年7月号 特集トールキン 生誕百年─モダン・ファンタジーの王国』 青土社
井村君江著『妖精学入門』 講談社現代新書
関連記事(2009年5月17日新設)
メイドロボの精神史 前編,後編
スイーツ(笑)断罪 1330 ~リアル女はノー・センキュー 僕はフィクションに恋をする~ 徒然草の恋愛論
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物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/kouroumu.html
物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―その2
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/genji.html
中国民衆文化史
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020607.html
西洋民衆文化史
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021108.html
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http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html
by trushbasket
| 2007-12-05 19:59
| My(山田昌弘)








