2007年 12月 08日
元禄赤穂事件と茶会―戦術的な面から見る―
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十二月に入り、世間はクリスマス一色ですね。しかし、日本人である以上、その十日前が何の日であるかを知っている必要があると思います。そう、十二月十四日。元禄赤穂事件の日です。かつて日本における十二月の風物詩であったこの事件は、クリスマスのお祭り騒ぎに隠れて目立たなくなっています。
ここに来られるような方は大多数がご存知だとは思いますが、一応は元禄赤穂事件の概略について述べておきます。元禄十四年(1701)二月四日、江戸城に下向した勅旨を供応する最中に、供応役であった赤穂藩主・浅野長矩が指南役の高家(徳川政権で儀礼を受け持つ)・吉良義央に遺恨があったとして斬りかかり将軍・徳川綱吉により取り潰し・切腹となりました。しかし浅野家の遺臣たちは相手の吉良がお咎めなしであったことに不満を抱き、赤穂浅野家再興が望めなくなったこともあり元禄十五年(1702)十二月十四日に大石良雄を中心とする四十七人(出頭したのは四十六人)が主君の仇を討つと称して吉良邸に攻め入って吉良義央を討ち取りました。徳川政権内部ではこれに対する処分として、法を曲げたため厳罰に処すべきとするものと武士の鑑であるから寛大にという意見に割れたようですが、荻生徂徠の意見が容れられ名誉ある処罰として切腹となりました。「仮名手本忠臣蔵」として舞台を南北朝時代に移して演劇化されてからは、大きな人気を博し客入りが悪いときでもこの劇を上演すれば大入りになるといわれたのです。そして近代以降も、舞台を史実通り元禄としたままで数多く演劇化・映像化されました。仇を討つまでの浪士たちの苦悩と苦労を中心とする逸話が多く人気を博し、討ち入りの場面で溜飲を下げるというのが年末の風物詩となっていた時期もありました。平成十一年(1999)に大河ドラマ「元禄繚乱」でこの事件を扱った事は記憶に新しいかと思います。
まあ、浅野が吉良に斬りかかった原因は今となっては分かりませんが、表沙汰になっている事実だけをみるとどちらの事件でも吉良は一方的被害者といえる気がします。まあ、「いじめ」というのは表沙汰にはならないものですし、吉良が中小大名から反感を買っていたのは事実であったようですからそれ相応の原因があった可能性は勿論あります。ただ、勅使を迎えるというこれ以上ない公式な儀式の場で刃傷沙汰に及んでしまったのですからこうした処分になったのはやむを得ませんし吉良は分かる限りでは一方的被害者でしかありませんから処分なしも当然と思えます。それに、浪士たちが恨みを向ける相手がいるとすれば吉良でなく判決を下した将軍綱吉というのが筋だと思うのですが…。
まあ、当時は「喧嘩両成敗」という以前からの慣習と文治主義の中での新たな慣習とがせめぎあっていた時代ですし仇討ちが場合によっては義務付けられていた社会ですから、現代の価値観だけであれこれ言うのは一面的に過ぎるのかもしれません。
そこで、以下では討ち入りの是非を云々するのはおいて、その日程決定について専ら戦術的な視点から一つ評価してみたいと思います。
浪士たちがその日に吉良邸で茶会が催されるのを確認した上でその日に討ち入りを決定した事は、広く知られています。吉良は高家仲間である大友近江守を招いて、親交があった茶の宗匠・山田宗徧の下で茶会を催したわけですが、その宗徧に浪士の一人・大高源吾が弟子入りして茶会の日程を探り出したといわれています。また、大石良雄の一族である大石三平が吉良邸に出入りがあった羽倉斎(後の荷田春満)から日取りを聞き出してもいたそうです。さてここで、茶会の日取りを討ち入り決行のそれに合わせたのにはどういう理由があったのでしょうか。
茶会というのは、その屋敷の主が客を招いてもてなすものですから、たとえ実際に茶を点てるなどの実務をプロの茶人に任せていたとしても、亭主(茶会の主催者)は飽くまでもその屋敷の主です。そして、それである以上は亭主は在宅して客に挨拶するのが当然といえます。つまり、茶会が催される日であれば吉良は確実に在宅しているわけで、討ち入ったは良いが屋敷からいなくなっていたという可能性がそれだけ低くなるのです。
それだけではありません。茶会というのは、準備において相当に気を使うものです。道具立てを整え、庭や建物を掃除し、茶室の飾り立てをし、水屋(厨房のようなものです)の準備をする。大凡については前日までに整えておく必要があります。当日も、火を起こし、茶室の花を整え、改めて客が来る前に掃除具合を確認し、通路に水をまき、蹲踞(つくばい、庭先で手を清める場所)を整理。茶会の規模によっては客に料理を出すこともあるので、その調理などに心を配る必要も出てくるでしょう。更に菓子の数が足りているかなども注意し、水屋では道具がすぐに使えるよう準備する。相客があれば、水屋から彼らの分も茶を点てる必要だって出てきます。また、庭などが乱れていないかを裏方として目に触れないよう注意しながらチェックしないといけないかもしれません。終わってからも後片付け、火の始末などが残っています。…まあ、要は屋敷中総出で当日はもちろん前日から神経を張り詰め通しだと言ってよいと思います。ですから、茶会が終わった日の晩は、心身ともに疲れ果てた上に緊張から解放されて動けない者が多数いたであろう事は想像に難くありません。ホッとしたついでに打ち上げに酒を飲んでいたりしたら、ぐっすりと眠り込んで少々のことでは目が覚めなかったことでしょう。事実、浪士たちが討ち入りした際には家臣たちの長屋を封じ込めて出てこられないようにしたが抵抗らしい抵抗はなかったといいます。まともに戦った場合には人数が大きく違いますから、浪士たちが返り討ちにあう危険性は大きかったわけで、可能な限り実際に戦う人数は少なくしたかった事でしょう。それに狙いは吉良一人な訳ですからね。
という訳で、茶会の日に狙いを定めたのは、対象の在宅が確実であることと、敵方の人数が疲れ果て戦えない状態であることを見越したものといえます。討ち入り自体の是非はここではおくとして、戦術的な狙いとしてはこれ一つをとっても見事であったといえると思います。人々を魅了した要因の一つには、この手際の鮮やかさがあるかもしれませんね。
【参考文献】
図説忠臣蔵 西山松之助監修 河出書房新社
日本の歴史16元禄時代 児玉幸多 中公文庫
茶の湯の文化史 谷端昭夫 吉川弘文館
「忠臣蔵」の謎学 中島康夫監修 青年出版社
茶の湯を楽しむ もてなしの心と作法 講談社編
やさしい茶の湯入門 成井宗歌 金園社
関連記事(2009年5月17日新設)
どれほど兵は神速を尊ぶか? ~歴史的に行軍速度を探求し戦争術評価の尺度とする試み~
貴公子たちの蛮行―因果の歴史が、また一ページ―
<過去記事・発表紹介>絢爛たる国学者たち
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「茶の湯」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1998/980424.html)
「続茶の湯・数寄者たち」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/991029.html)
「徳川期の茶の湯」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/tokucha.html)
関連サイト:
「赤穂事件」(http://www5c.biglobe.ne.jp/~ya-abc/ako_top.htm)
「武士の意気地」(http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/top2.html)より「元禄赤穂事件」(http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/akourous.htm)
元禄赤穂事件について概要を述べています。
「『仮名手本忠臣蔵』テキストデータベース」
(http://www.cs.ube-c.ac.jp/egi/kanatehome/index.html)
「表千家」(http://www.omotesenke.jp/)
「裏千家」(http://www.urasenke.or.jp/)
「武者小路千家」(http://www.mushakouji-senke.or.jp/)
日本茶道の代表的流派である「三千家」の公式サイトです。茶会の手順なども載っています。
ここに来られるような方は大多数がご存知だとは思いますが、一応は元禄赤穂事件の概略について述べておきます。元禄十四年(1701)二月四日、江戸城に下向した勅旨を供応する最中に、供応役であった赤穂藩主・浅野長矩が指南役の高家(徳川政権で儀礼を受け持つ)・吉良義央に遺恨があったとして斬りかかり将軍・徳川綱吉により取り潰し・切腹となりました。しかし浅野家の遺臣たちは相手の吉良がお咎めなしであったことに不満を抱き、赤穂浅野家再興が望めなくなったこともあり元禄十五年(1702)十二月十四日に大石良雄を中心とする四十七人(出頭したのは四十六人)が主君の仇を討つと称して吉良邸に攻め入って吉良義央を討ち取りました。徳川政権内部ではこれに対する処分として、法を曲げたため厳罰に処すべきとするものと武士の鑑であるから寛大にという意見に割れたようですが、荻生徂徠の意見が容れられ名誉ある処罰として切腹となりました。「仮名手本忠臣蔵」として舞台を南北朝時代に移して演劇化されてからは、大きな人気を博し客入りが悪いときでもこの劇を上演すれば大入りになるといわれたのです。そして近代以降も、舞台を史実通り元禄としたままで数多く演劇化・映像化されました。仇を討つまでの浪士たちの苦悩と苦労を中心とする逸話が多く人気を博し、討ち入りの場面で溜飲を下げるというのが年末の風物詩となっていた時期もありました。平成十一年(1999)に大河ドラマ「元禄繚乱」でこの事件を扱った事は記憶に新しいかと思います。
まあ、浅野が吉良に斬りかかった原因は今となっては分かりませんが、表沙汰になっている事実だけをみるとどちらの事件でも吉良は一方的被害者といえる気がします。まあ、「いじめ」というのは表沙汰にはならないものですし、吉良が中小大名から反感を買っていたのは事実であったようですからそれ相応の原因があった可能性は勿論あります。ただ、勅使を迎えるというこれ以上ない公式な儀式の場で刃傷沙汰に及んでしまったのですからこうした処分になったのはやむを得ませんし吉良は分かる限りでは一方的被害者でしかありませんから処分なしも当然と思えます。それに、浪士たちが恨みを向ける相手がいるとすれば吉良でなく判決を下した将軍綱吉というのが筋だと思うのですが…。
まあ、当時は「喧嘩両成敗」という以前からの慣習と文治主義の中での新たな慣習とがせめぎあっていた時代ですし仇討ちが場合によっては義務付けられていた社会ですから、現代の価値観だけであれこれ言うのは一面的に過ぎるのかもしれません。
そこで、以下では討ち入りの是非を云々するのはおいて、その日程決定について専ら戦術的な視点から一つ評価してみたいと思います。
浪士たちがその日に吉良邸で茶会が催されるのを確認した上でその日に討ち入りを決定した事は、広く知られています。吉良は高家仲間である大友近江守を招いて、親交があった茶の宗匠・山田宗徧の下で茶会を催したわけですが、その宗徧に浪士の一人・大高源吾が弟子入りして茶会の日程を探り出したといわれています。また、大石良雄の一族である大石三平が吉良邸に出入りがあった羽倉斎(後の荷田春満)から日取りを聞き出してもいたそうです。さてここで、茶会の日取りを討ち入り決行のそれに合わせたのにはどういう理由があったのでしょうか。
茶会というのは、その屋敷の主が客を招いてもてなすものですから、たとえ実際に茶を点てるなどの実務をプロの茶人に任せていたとしても、亭主(茶会の主催者)は飽くまでもその屋敷の主です。そして、それである以上は亭主は在宅して客に挨拶するのが当然といえます。つまり、茶会が催される日であれば吉良は確実に在宅しているわけで、討ち入ったは良いが屋敷からいなくなっていたという可能性がそれだけ低くなるのです。
それだけではありません。茶会というのは、準備において相当に気を使うものです。道具立てを整え、庭や建物を掃除し、茶室の飾り立てをし、水屋(厨房のようなものです)の準備をする。大凡については前日までに整えておく必要があります。当日も、火を起こし、茶室の花を整え、改めて客が来る前に掃除具合を確認し、通路に水をまき、蹲踞(つくばい、庭先で手を清める場所)を整理。茶会の規模によっては客に料理を出すこともあるので、その調理などに心を配る必要も出てくるでしょう。更に菓子の数が足りているかなども注意し、水屋では道具がすぐに使えるよう準備する。相客があれば、水屋から彼らの分も茶を点てる必要だって出てきます。また、庭などが乱れていないかを裏方として目に触れないよう注意しながらチェックしないといけないかもしれません。終わってからも後片付け、火の始末などが残っています。…まあ、要は屋敷中総出で当日はもちろん前日から神経を張り詰め通しだと言ってよいと思います。ですから、茶会が終わった日の晩は、心身ともに疲れ果てた上に緊張から解放されて動けない者が多数いたであろう事は想像に難くありません。ホッとしたついでに打ち上げに酒を飲んでいたりしたら、ぐっすりと眠り込んで少々のことでは目が覚めなかったことでしょう。事実、浪士たちが討ち入りした際には家臣たちの長屋を封じ込めて出てこられないようにしたが抵抗らしい抵抗はなかったといいます。まともに戦った場合には人数が大きく違いますから、浪士たちが返り討ちにあう危険性は大きかったわけで、可能な限り実際に戦う人数は少なくしたかった事でしょう。それに狙いは吉良一人な訳ですからね。
という訳で、茶会の日に狙いを定めたのは、対象の在宅が確実であることと、敵方の人数が疲れ果て戦えない状態であることを見越したものといえます。討ち入り自体の是非はここではおくとして、戦術的な狙いとしてはこれ一つをとっても見事であったといえると思います。人々を魅了した要因の一つには、この手際の鮮やかさがあるかもしれませんね。
【参考文献】
図説忠臣蔵 西山松之助監修 河出書房新社
日本の歴史16元禄時代 児玉幸多 中公文庫
茶の湯の文化史 谷端昭夫 吉川弘文館
「忠臣蔵」の謎学 中島康夫監修 青年出版社
茶の湯を楽しむ もてなしの心と作法 講談社編
やさしい茶の湯入門 成井宗歌 金園社
関連記事(2009年5月17日新設)
どれほど兵は神速を尊ぶか? ~歴史的に行軍速度を探求し戦争術評価の尺度とする試み~
貴公子たちの蛮行―因果の歴史が、また一ページ―
<過去記事・発表紹介>絢爛たる国学者たち
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「茶の湯」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1998/980424.html)
「続茶の湯・数寄者たち」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/991029.html)
「徳川期の茶の湯」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/tokucha.html)
関連サイト:
「赤穂事件」(http://www5c.biglobe.ne.jp/~ya-abc/ako_top.htm)
「武士の意気地」(http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/top2.html)より「元禄赤穂事件」(http://busino-ikuji.hp.infoseek.co.jp/akourous.htm)
元禄赤穂事件について概要を述べています。
「『仮名手本忠臣蔵』テキストデータベース」
(http://www.cs.ube-c.ac.jp/egi/kanatehome/index.html)
「表千家」(http://www.omotesenke.jp/)
「裏千家」(http://www.urasenke.or.jp/)
「武者小路千家」(http://www.mushakouji-senke.or.jp/)
日本茶道の代表的流派である「三千家」の公式サイトです。茶会の手順なども載っています。
※2020/10/7 少し表現を改めています。
by trushbasket
| 2007-12-08 11:50
| NF








