2008年 01月 05日
飲める人、飲めない人
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少し遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。この時期、新年会などの宴席で酒を飲む機会の多い方もあるかと思います。
さて、以前、ヨーロッパ帝王の食事に関する記事がありました(参考:http://trushnote.exblog.jp/7689524/)。それによればアウグストゥスは酒はほとんど飲まなかったようですが、ぶどう酒の不足について市民から苦情があった際にも「私の婿アグリッパがたくさんの水道を都へ引き入れ、市民の喉が渇かないように配慮している」とにべもなく返事したそうです。自分が飲まないからってちょっとあんまりな返答な気がしますが、彼が酒を飲むことを快楽としない人物だったであろう事はここからも推測できます。
そして再び話は変わりますが、「お神酒上がらぬ神もなし」などと歌われるように、我が国の神事には酒が古来からつき物でした。そして、公私を問わず人脈を築いたり交際したりするには酒宴がしばしば用いられています。しかし、日本人には体質的に酒が飲めない人も多いはずです(何でも、アルコールが変化したアセトアルデヒドを分解する酵素の遺伝子を日本人の39.4%が半分しか持っておらず4.2%は全く持っていないそうです)。歴史上の人物はどうだったのか、飲めないとしたらどうしていたのか、飲めるとしたらどのくらい飲んでいたのか。これについては気になる人も多いようですが、なにぶん昔の人ですから本人に確かめるわけにもいかず記録から推測するしかありません。というわけで、誰が酒飲みだったのか、誰が下戸だったのかについてを探る動きは上戸下戸の双方からあるようです。とはいえ、話として面白いのは専ら大酒呑みの方であって下戸についての話はネタ度が乏しく、そのため飲兵衛の話は昔から伝えられていても誰が下戸だったかについてある程度まとめられるようになったのはごく最近のようです。
上戸についてまとめた代表といえそうなのが和歌森太郎「酒が語る日本史」(河出文庫)。和歌森太郎氏は東京教育大学などで教鞭をとり、歴史学と民俗学の成果を融合した学問を展開して「修験道史研究」「日本史の虚像と実像」といった作品群を残した日本史の碩学です。彼自身も酒好きであった関係もあり、酒飲みの逸話を中心にいかに酒が消費されたかについて本書でまとめています。
一方、下戸代表は鈴木眞哉「下戸の逸話事典」(東京堂出版)でしょうか。冒頭のアウグストゥスの逸話も本書に引用されています。鈴木氏は「日曜歴史家」として知られ「刀と首狩り」など戦国合戦研究で一般に知られています。何でも彼自身は下戸ではないそうですが、下戸に酒を強いないよう求める「飲めない族研究会(NDA)」と関わって本書が生まれたのだそうで。まあ、僕自身も飲めない口ですが幸いにして酒を強いられた経験は余りありません。ただ、聞くところでは宴会などで飲まざるを得ない雰囲気に追い込まれる事例は多いようですし、周囲が酒に呑まれている中で強いられる事も稀ではないようですから、かなり切実だと言えそうです。こちらの書も酒の消費について述べ、様々な人物の逸話を掲載しています。ただ、飲めない「下戸」だけじゃなく飲めるが飲まない人間、酒が嫌いではないが弱い人物をも含めて広義に「非酒徒」という概念を提唱していたり下戸である根拠が明らかでない人間も掲載したりしているので「酒が語る日本史」と重なる人物も少なからずいます。
そこで、以下では両方の書物で登場した日本史上の人物を中心に両書でどう書かれているかを見て上戸下戸双方の主張(?)を聞いてみようかと思います。
両方に登場した栄えある第一号は、七世紀末・八世紀初頭に学者でありながら大臣となり国政改革に当たった菅原道真です。伝記「北野天神御伝」では「性、酒を嗜まず」とあり、下戸のように思われますし「下戸の逸話事典」(以下、「下戸」)も基本的にそう捉えているようです。一方で「酒が語る日本史」(以下、「酒が語る」)は「酒を讃める詩といえるものもある。ただ酒に溺れきって、憂悶をはらすなどということのできない性格の人間だったのである。」「親しい友人と酒をくみつつ、詩をつくることは、その趣味ともあっていた形跡がある」(共に「酒が語る」P62)としています。「下戸」の方も同様の事実を指摘し、「体質的に全く飲めなかったわけではない」が「酒を楽しむ気分になどなれなかったのだろう」(共に「下戸」P47)と推測。両者の意見はここでは一致しています。
次が十二世紀半ばに藤原氏の家長として鳥羽院政の下で活躍した藤原頼長。日記「台記」には「酒を愛さず」とありますし、鳥羽法皇から酒を繰り返し勧められ「臣性もとより酒を飲むを得ず」と辞退した話が載せられていますから、彼も下戸のように思われます。ただ、「菊酒を飲まず、長寿を好まざるによる」という記録もあるところから「体質的に飲めなかったのではなくて、飲みたくなかった」(「下戸」P52)、「酒宴の席にはしばしば出ており、飲めないたちではなかったのだが、酒を飲む際の時と処とに神経質だったらしい」(「酒が語る」P97)とも推測されているようです。
この他、源頼政(十二世紀後半の武将、彼が平氏に対し挙兵したのが源平合戦のきっかけとなった)が下戸と言われていた事、戦国武将では毛利元就や今川義元が余り飲まなかった事、徳川政権初期を支えた名老中・松平信綱も飲まなかった事、西郷隆盛や大久保利通についても酒の上での逸話がないことについて両書は一致しています。また、灘の銘酒「剣菱」を好んだとされる頼山陽も「三十九歳で長崎に遊んだことから酒を少々やりだしたので、上戸ではない。がんらいは酒を好まぬ性質で、焼餅、小豆餅、安倍川餅のようなものを好んでいた。酒は量よりも、その趣を愛しただけ」(「酒が語る」P273)である事についても筆を揃えています。まあ、「下戸」はかなり「酒が語る」を参考にしたようですから記述する人物が重なるのも当然と言えば当然でしょう。
一方で、両者の主張が食い違っている例も散見されます。その際たるものが織田信長と明智光秀でしょう。「酒が語る」では様々な伝承を挙げて「信長の酒豪ぶりと光秀の下戸とは、事実のことである」(P203)と主張。一方、「下戸」では信長については「耶蘇会士日本通信」で「彼は酒を嗜まず、まためったに人にすすめることもなく云々」とありフロイス「日本史」にも「酒を飲まず、食を節し云々」と記されているなど一級史料では酒を飲まなかったとされているのに対し、彼が酒豪であった事を伝える史料には「続武者物語」など後世の俗説が多い事を示しています。また、フロイスの記録からは贈り物の中で信長が金平糖を喜んで受け取った(彼は不要なものは返していたそうです)事や、無花果の干したものを貰ったという記述を美濃名産干柿であるとして信長自身の好物でもあったのではないかと推測しています。これらフロイスの記録によれば信長は酒を飲まず甘党だったことになりますね。一方で「下戸」は光秀に関しても「光秀下戸説にもたしかな根拠があるわけではない」(P62)としています。
面白いのが家康についてで、「酒が語る」は「かれには、酒の持つ効用はあまり理解されなかった」ようであり「酒の醍醐味をおぼえずに生涯を終えたものではなかろうか」(共にP211)としている一方で、「下戸」は呂宋王から何度もぶどう酒が寄せられていた事や遺品にもぶどう酒・焼酎(当時は新奇なもの)が残されている事を指摘し「他人の飲酒にはきびしい顔をしながらも、自分は駿府城の奥でこっそり南蛮渡りの酒器でぶどう酒など楽しんでいた」のであり「あれでけっこう新しいもの好きだった」(共にP65)と推測。両者の主張は本来の趣旨を考えると逆でありそうなんですがね。
主張する事実がほぼ逆になっているこれらの例以外にも、両者の主張が異なっている例はあります。
まず今川義元について。「酒が語る」は「太守下戸ナリと雖モ十余盃受用サレ了ンヌ」と「言継卿記」にあるのを引いて比較的良く飲めるとしながらも「言継からみれば、義元は下戸なのである」(P183)と述べています。それに対し「下戸」は酒宴について「儀礼としての必要があったからとのことで、本人が飲むためにやっていたわけではない」として「言継の身分に敬意を表した義元が儀礼的に杯のやりとりをしたというのが真相だろう」(P57)と推測しています。義元がどの程度飲めたかについて両者の意見は割れているようです。まあ、当時の杯は大きかったようですからそれで十杯以上なら下戸とはいえないでしょうしね。
次に荻生徂徠ですが、「酒が語る」が「酒呑みのくせに酒のことを悪むところは、風流人としていただけないとの批評も出ている。」(P226)と当時の批判を紹介し「浮かれ楽しむ酒ではなかったようである」としているのに対し「下戸」ではその批判が弟子・太宰春台によるものと明かし徂徠が下戸とみなされていた事も述べて「飲みたくもないものを無理して飲むようなふりをするのに、嬉しそうな顔ができるはずもない」(P77)と弁護しています。
この両者に関しては酒宴に関しての見方の違いがかかわっているようです。「酒が語る」では酒宴に参加していればとりあえずは飲めたとしている(ただし強くはなかったり酒宴を好まない例があることは認めている)のに対し、「下戸」では酒宴は「きわめて社会性の強い行為」(P29)である事を強調し、下戸も「いやでも酒宴の席には連ならねばならず、たまには自ら酒の席を設けたりしなければならなかった」(P30)ため酒宴に列席しているからといって飲めるとは限らないと主張。徳川時代後期の儒者・林述斎が松浦静山を迎えて酒宴を張ったが述斎やその家人が誰も飲めなかったという話が静山の著作「甲子夜話」にあることを例としています。そして「酒豪で知られたある映画監督が晩年娘さんに『実は俺は酒は好きではなかったんだ』と告白したと言う話があるが、余ほどタフな神経の持主でない限り、仕事や世間付き合いを円滑にやるためには、妥協せざるをえなくなるのが普通」(P23)として社会的圧力により飲まざるを得ないと述べ、それも酒宴では酔いつぶれるまで飲み飲ませるのが通例でありそれが下戸にとっては辛いものであると主張しています。
宴席での酒の無理強いには「酒が語る」も同様な感想を持っていたようで、酒宴が「酒に飲まれる」レベルまで痛飲するのが常だったのを認めた上で「一体感を、自分と相手との平衡関係においてではなく、相手を自分のうちに呑みこんでしまう形で得ようとする」ため「無理強いの酒になっていく」(共にP90)と述べています。更に「とかく無理強い酒で、平素の人間関係を好転させようとする傾向がある。政治屋めいた人間が、しばしば行なってきた、すこぶる日本的な悪風であるようだ。」(P91)まで言っています。無理強いする奴は真の酒飲みじゃない、と言いたげです。
一方「下戸」の方も酒自体を非難しているわけではなく、「飲めない物、飲みたくない者は飲まないですむ」(P47)状況を前提としながらも人間関係における酒の効用を認めています。例えば徳川期において大名の庶子から画家に転身した酒井抱一が俳人・建部巣兆とは「かれ盃を挙れば、われ餅を食ふ」という間柄であったり歌人・窪田空穂が「酒飲めば酔ひてたのしくなる友にひとり飲ましめわれは飯食う」と詠んでいたりなど、友人付き合いでは上戸は飲み下戸は代わりに何かを食う形で交際が可能としています(これは個人的体験として分かる気がします)。また、公的な宴席においても、山本五十六が徳利に茶を入れて取り繕いながらも賑やかに宴を盛り上げていた例が挙げられており、席を白けさせない努力は大事であるとしているようです。
以上からは、上戸(「酒が語る」)から見ても下戸から見ても、
・酒は飲んでも飲まれるな
・飲めない者や飲みたくない者に無理強いするのは厳禁
・飲めなくとも可能な限り場を白けさせない努力はすべき
という点では一致しているといえます。これは酒の席に関して言えば永遠の真理と言えるのかもしれませんね。
【参考文献】
酒が語る日本史 和歌森太郎 河出文庫
下戸の逸話事典 鈴木眞哉著 東京堂出版
…ま、今回はこの二冊を読み比べて色々言ってただけなので。
関連記事(2009年5月17日新設)
天国・極楽のイメージ ~どんな餌で世界の信者たちは釣られたか~
覇者の胃袋 ~粗食、偏食、暴飲暴食の帝王たち~
「結婚したくない男」、そして「出世したくない男」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本前近代軍事史」(当ブログ内に移転しました)(http://trushnote.exblog.jp/14549736/)
冒頭に荻生徂徠の著作が引用されています。また、信長の戦いも引用されています。
「菅原道真」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/michizane.html)
「アレクサンドロス」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/991022.html)
酒に呑まれた英雄の話です。
「呉の文化人達」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020524b.html)
おまけで「呉の君主と酒」を収録。孫権・孫晧は酒に呑まれるタイプだったようです。
関連サイト:
「年金ぐらしの雑記帳」(http://homepage2.nifty.com/nenkingurashi/sub600.htm)より
「飲めない族研究会」(http://homepage2.nifty.com/nenkingurashi/sub690.htm)
「飲めない族研究会」会員の方のサイトです
「アルコール薬物問題全国市民協会」(http://www.ask.or.jp/index.html)より
「イッキ飲み・アルハラ防止のページ」(http://www.ask.or.jp/ikkialhara.html)
「寝言屋家頁」(http://www.alpha-net.ne.jp/users2/negotoya/index.html)
「御酒の話」が多数あります。
「千の福net」(http://www.sempuku.co.jp/index02.htm)
呉市の日本酒メーカー、千福のサイトです。
「なんでも研究室」(http://www.sempuku.co.jp/odoroki/kenkyu.html)に酒に関する雑学が色々。
リンクを変更(2010年12月8日)
さて、以前、ヨーロッパ帝王の食事に関する記事がありました(参考:http://trushnote.exblog.jp/7689524/)。それによればアウグストゥスは酒はほとんど飲まなかったようですが、ぶどう酒の不足について市民から苦情があった際にも「私の婿アグリッパがたくさんの水道を都へ引き入れ、市民の喉が渇かないように配慮している」とにべもなく返事したそうです。自分が飲まないからってちょっとあんまりな返答な気がしますが、彼が酒を飲むことを快楽としない人物だったであろう事はここからも推測できます。
そして再び話は変わりますが、「お神酒上がらぬ神もなし」などと歌われるように、我が国の神事には酒が古来からつき物でした。そして、公私を問わず人脈を築いたり交際したりするには酒宴がしばしば用いられています。しかし、日本人には体質的に酒が飲めない人も多いはずです(何でも、アルコールが変化したアセトアルデヒドを分解する酵素の遺伝子を日本人の39.4%が半分しか持っておらず4.2%は全く持っていないそうです)。歴史上の人物はどうだったのか、飲めないとしたらどうしていたのか、飲めるとしたらどのくらい飲んでいたのか。これについては気になる人も多いようですが、なにぶん昔の人ですから本人に確かめるわけにもいかず記録から推測するしかありません。というわけで、誰が酒飲みだったのか、誰が下戸だったのかについてを探る動きは上戸下戸の双方からあるようです。とはいえ、話として面白いのは専ら大酒呑みの方であって下戸についての話はネタ度が乏しく、そのため飲兵衛の話は昔から伝えられていても誰が下戸だったかについてある程度まとめられるようになったのはごく最近のようです。
上戸についてまとめた代表といえそうなのが和歌森太郎「酒が語る日本史」(河出文庫)。和歌森太郎氏は東京教育大学などで教鞭をとり、歴史学と民俗学の成果を融合した学問を展開して「修験道史研究」「日本史の虚像と実像」といった作品群を残した日本史の碩学です。彼自身も酒好きであった関係もあり、酒飲みの逸話を中心にいかに酒が消費されたかについて本書でまとめています。
一方、下戸代表は鈴木眞哉「下戸の逸話事典」(東京堂出版)でしょうか。冒頭のアウグストゥスの逸話も本書に引用されています。鈴木氏は「日曜歴史家」として知られ「刀と首狩り」など戦国合戦研究で一般に知られています。何でも彼自身は下戸ではないそうですが、下戸に酒を強いないよう求める「飲めない族研究会(NDA)」と関わって本書が生まれたのだそうで。まあ、僕自身も飲めない口ですが幸いにして酒を強いられた経験は余りありません。ただ、聞くところでは宴会などで飲まざるを得ない雰囲気に追い込まれる事例は多いようですし、周囲が酒に呑まれている中で強いられる事も稀ではないようですから、かなり切実だと言えそうです。こちらの書も酒の消費について述べ、様々な人物の逸話を掲載しています。ただ、飲めない「下戸」だけじゃなく飲めるが飲まない人間、酒が嫌いではないが弱い人物をも含めて広義に「非酒徒」という概念を提唱していたり下戸である根拠が明らかでない人間も掲載したりしているので「酒が語る日本史」と重なる人物も少なからずいます。
そこで、以下では両方の書物で登場した日本史上の人物を中心に両書でどう書かれているかを見て上戸下戸双方の主張(?)を聞いてみようかと思います。
両方に登場した栄えある第一号は、七世紀末・八世紀初頭に学者でありながら大臣となり国政改革に当たった菅原道真です。伝記「北野天神御伝」では「性、酒を嗜まず」とあり、下戸のように思われますし「下戸の逸話事典」(以下、「下戸」)も基本的にそう捉えているようです。一方で「酒が語る日本史」(以下、「酒が語る」)は「酒を讃める詩といえるものもある。ただ酒に溺れきって、憂悶をはらすなどということのできない性格の人間だったのである。」「親しい友人と酒をくみつつ、詩をつくることは、その趣味ともあっていた形跡がある」(共に「酒が語る」P62)としています。「下戸」の方も同様の事実を指摘し、「体質的に全く飲めなかったわけではない」が「酒を楽しむ気分になどなれなかったのだろう」(共に「下戸」P47)と推測。両者の意見はここでは一致しています。
次が十二世紀半ばに藤原氏の家長として鳥羽院政の下で活躍した藤原頼長。日記「台記」には「酒を愛さず」とありますし、鳥羽法皇から酒を繰り返し勧められ「臣性もとより酒を飲むを得ず」と辞退した話が載せられていますから、彼も下戸のように思われます。ただ、「菊酒を飲まず、長寿を好まざるによる」という記録もあるところから「体質的に飲めなかったのではなくて、飲みたくなかった」(「下戸」P52)、「酒宴の席にはしばしば出ており、飲めないたちではなかったのだが、酒を飲む際の時と処とに神経質だったらしい」(「酒が語る」P97)とも推測されているようです。
この他、源頼政(十二世紀後半の武将、彼が平氏に対し挙兵したのが源平合戦のきっかけとなった)が下戸と言われていた事、戦国武将では毛利元就や今川義元が余り飲まなかった事、徳川政権初期を支えた名老中・松平信綱も飲まなかった事、西郷隆盛や大久保利通についても酒の上での逸話がないことについて両書は一致しています。また、灘の銘酒「剣菱」を好んだとされる頼山陽も「三十九歳で長崎に遊んだことから酒を少々やりだしたので、上戸ではない。がんらいは酒を好まぬ性質で、焼餅、小豆餅、安倍川餅のようなものを好んでいた。酒は量よりも、その趣を愛しただけ」(「酒が語る」P273)である事についても筆を揃えています。まあ、「下戸」はかなり「酒が語る」を参考にしたようですから記述する人物が重なるのも当然と言えば当然でしょう。
一方で、両者の主張が食い違っている例も散見されます。その際たるものが織田信長と明智光秀でしょう。「酒が語る」では様々な伝承を挙げて「信長の酒豪ぶりと光秀の下戸とは、事実のことである」(P203)と主張。一方、「下戸」では信長については「耶蘇会士日本通信」で「彼は酒を嗜まず、まためったに人にすすめることもなく云々」とありフロイス「日本史」にも「酒を飲まず、食を節し云々」と記されているなど一級史料では酒を飲まなかったとされているのに対し、彼が酒豪であった事を伝える史料には「続武者物語」など後世の俗説が多い事を示しています。また、フロイスの記録からは贈り物の中で信長が金平糖を喜んで受け取った(彼は不要なものは返していたそうです)事や、無花果の干したものを貰ったという記述を美濃名産干柿であるとして信長自身の好物でもあったのではないかと推測しています。これらフロイスの記録によれば信長は酒を飲まず甘党だったことになりますね。一方で「下戸」は光秀に関しても「光秀下戸説にもたしかな根拠があるわけではない」(P62)としています。
面白いのが家康についてで、「酒が語る」は「かれには、酒の持つ効用はあまり理解されなかった」ようであり「酒の醍醐味をおぼえずに生涯を終えたものではなかろうか」(共にP211)としている一方で、「下戸」は呂宋王から何度もぶどう酒が寄せられていた事や遺品にもぶどう酒・焼酎(当時は新奇なもの)が残されている事を指摘し「他人の飲酒にはきびしい顔をしながらも、自分は駿府城の奥でこっそり南蛮渡りの酒器でぶどう酒など楽しんでいた」のであり「あれでけっこう新しいもの好きだった」(共にP65)と推測。両者の主張は本来の趣旨を考えると逆でありそうなんですがね。
主張する事実がほぼ逆になっているこれらの例以外にも、両者の主張が異なっている例はあります。
まず今川義元について。「酒が語る」は「太守下戸ナリと雖モ十余盃受用サレ了ンヌ」と「言継卿記」にあるのを引いて比較的良く飲めるとしながらも「言継からみれば、義元は下戸なのである」(P183)と述べています。それに対し「下戸」は酒宴について「儀礼としての必要があったからとのことで、本人が飲むためにやっていたわけではない」として「言継の身分に敬意を表した義元が儀礼的に杯のやりとりをしたというのが真相だろう」(P57)と推測しています。義元がどの程度飲めたかについて両者の意見は割れているようです。まあ、当時の杯は大きかったようですからそれで十杯以上なら下戸とはいえないでしょうしね。
次に荻生徂徠ですが、「酒が語る」が「酒呑みのくせに酒のことを悪むところは、風流人としていただけないとの批評も出ている。」(P226)と当時の批判を紹介し「浮かれ楽しむ酒ではなかったようである」としているのに対し「下戸」ではその批判が弟子・太宰春台によるものと明かし徂徠が下戸とみなされていた事も述べて「飲みたくもないものを無理して飲むようなふりをするのに、嬉しそうな顔ができるはずもない」(P77)と弁護しています。
この両者に関しては酒宴に関しての見方の違いがかかわっているようです。「酒が語る」では酒宴に参加していればとりあえずは飲めたとしている(ただし強くはなかったり酒宴を好まない例があることは認めている)のに対し、「下戸」では酒宴は「きわめて社会性の強い行為」(P29)である事を強調し、下戸も「いやでも酒宴の席には連ならねばならず、たまには自ら酒の席を設けたりしなければならなかった」(P30)ため酒宴に列席しているからといって飲めるとは限らないと主張。徳川時代後期の儒者・林述斎が松浦静山を迎えて酒宴を張ったが述斎やその家人が誰も飲めなかったという話が静山の著作「甲子夜話」にあることを例としています。そして「酒豪で知られたある映画監督が晩年娘さんに『実は俺は酒は好きではなかったんだ』と告白したと言う話があるが、余ほどタフな神経の持主でない限り、仕事や世間付き合いを円滑にやるためには、妥協せざるをえなくなるのが普通」(P23)として社会的圧力により飲まざるを得ないと述べ、それも酒宴では酔いつぶれるまで飲み飲ませるのが通例でありそれが下戸にとっては辛いものであると主張しています。
宴席での酒の無理強いには「酒が語る」も同様な感想を持っていたようで、酒宴が「酒に飲まれる」レベルまで痛飲するのが常だったのを認めた上で「一体感を、自分と相手との平衡関係においてではなく、相手を自分のうちに呑みこんでしまう形で得ようとする」ため「無理強いの酒になっていく」(共にP90)と述べています。更に「とかく無理強い酒で、平素の人間関係を好転させようとする傾向がある。政治屋めいた人間が、しばしば行なってきた、すこぶる日本的な悪風であるようだ。」(P91)まで言っています。無理強いする奴は真の酒飲みじゃない、と言いたげです。
一方「下戸」の方も酒自体を非難しているわけではなく、「飲めない物、飲みたくない者は飲まないですむ」(P47)状況を前提としながらも人間関係における酒の効用を認めています。例えば徳川期において大名の庶子から画家に転身した酒井抱一が俳人・建部巣兆とは「かれ盃を挙れば、われ餅を食ふ」という間柄であったり歌人・窪田空穂が「酒飲めば酔ひてたのしくなる友にひとり飲ましめわれは飯食う」と詠んでいたりなど、友人付き合いでは上戸は飲み下戸は代わりに何かを食う形で交際が可能としています(これは個人的体験として分かる気がします)。また、公的な宴席においても、山本五十六が徳利に茶を入れて取り繕いながらも賑やかに宴を盛り上げていた例が挙げられており、席を白けさせない努力は大事であるとしているようです。
以上からは、上戸(「酒が語る」)から見ても下戸から見ても、
・酒は飲んでも飲まれるな
・飲めない者や飲みたくない者に無理強いするのは厳禁
・飲めなくとも可能な限り場を白けさせない努力はすべき
という点では一致しているといえます。これは酒の席に関して言えば永遠の真理と言えるのかもしれませんね。
【参考文献】
酒が語る日本史 和歌森太郎 河出文庫
下戸の逸話事典 鈴木眞哉著 東京堂出版
…ま、今回はこの二冊を読み比べて色々言ってただけなので。
関連記事(2009年5月17日新設)
天国・極楽のイメージ ~どんな餌で世界の信者たちは釣られたか~
覇者の胃袋 ~粗食、偏食、暴飲暴食の帝王たち~
「結婚したくない男」、そして「出世したくない男」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本前近代軍事史」(当ブログ内に移転しました)(http://trushnote.exblog.jp/14549736/)
冒頭に荻生徂徠の著作が引用されています。また、信長の戦いも引用されています。
「菅原道真」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/michizane.html)
「アレクサンドロス」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/991022.html)
酒に呑まれた英雄の話です。
「呉の文化人達」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020524b.html)
おまけで「呉の君主と酒」を収録。孫権・孫晧は酒に呑まれるタイプだったようです。
関連サイト:
「年金ぐらしの雑記帳」(http://homepage2.nifty.com/nenkingurashi/sub600.htm)より
「飲めない族研究会」(http://homepage2.nifty.com/nenkingurashi/sub690.htm)
「飲めない族研究会」会員の方のサイトです
「アルコール薬物問題全国市民協会」(http://www.ask.or.jp/index.html)より
「イッキ飲み・アルハラ防止のページ」(http://www.ask.or.jp/ikkialhara.html)
「寝言屋家頁」(http://www.alpha-net.ne.jp/users2/negotoya/index.html)
「御酒の話」が多数あります。
「千の福net」(http://www.sempuku.co.jp/index02.htm)
呉市の日本酒メーカー、千福のサイトです。
「なんでも研究室」(http://www.sempuku.co.jp/odoroki/kenkyu.html)に酒に関する雑学が色々。
リンクを変更(2010年12月8日)
by trushbasket
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| NF








