2008年 01月 30日
偉大なるダメ人間シリーズ番外その5 ブルボン朝フランスの女装の勇士たち
|
下に掲載するのは『ダメ人間の世界史』『ダメ人間の日本史』(社会評論社)の元になった文章です、書籍化に際して大幅な加筆・修正がされており、書籍版とは多少内容が異なります。
Amazon :『ダメ人間の世界史』(ダメ人間の歴史vol 1)
楽天ブックス:『ダメ人間の世界史』(ダメ人間の歴史vol 1)
当ブログ内紹介記事
Amazon :『ダメ人間の日本史』(ダメ人間の歴史vol 2)
楽天ブックス:『ダメ人間の日本史』(ダメ人間の歴史vol 2)
当ブログ内紹介記事
【以上(↑)、2010年12月05日加筆】
『ダメ人間の世界史&日本史』ブログ版(試し読み用)目次へ戻る
近世フランスの絶頂期に君臨し強大な国力で周辺諸国を圧倒、太陽王と呼ばれたルイ14世には一人の弟(1640~1701年)がいました。この王弟殿下(ムッシュー)は、名をオルレアン公フィリップと言い、ルイによって政治的影響力を行使することこそ阻まれていましたが、軍事面では勇敢な戦士、巧妙な将軍として、なかなかの能力を発揮しています。
彼はルイ太陽王の初期の軍事作戦、フランドル戦争(1667~1668年)およびオランダ戦争(1672~1678年)で活躍し、とりわけ後者では、カッセルにおいて優れた軍人であるオランダ軍司令官オラニエ公ウィレムと激突、指揮下にあった名将リュクサンブールの活躍もあってこれを一蹴し、剛毅かつ平静な態度で突撃を敢行して世間の高い評価を受けることになります。
ルイ14世の時代と言えば内外の名将が技量を競い合った時代で、フランス内に限ってもテュレンヌ、大コンデ、リュクサンブール、カティナ、ヴィラール、ヴォーバンと高名な将帥が数多おり、それと比べればフィリップの存在など取るに足らないものではあるのですが、それでも彼の活躍は、兄ルイの嫉妬と警戒を呼び起こすに十分で、ルイは近くに滞在していながら、弟と顔を合わせても勝ち戦の話をすることは一切無く、当該戦場を見に行くこともなかったそうです。そして明敏なフィリップの従者は、この時点で、以後フィリップが軍の指揮を任されることは二度と無いだろうと予言しましたが、事実その通りとなりました。
ところで、この王弟フィリップの普段の姿は、戦場での勇将ぶりとは全く異なって、女々しい文弱で鳴らす人物で、女装して宮廷を練り歩くこともしばしばな、かなり素敵なダメ人間だったそうです。そのため彼は、宮廷の人士からは表向きは尊重されつつ密かに軽蔑されていたとか言います。
その上、彼は男色関係に耽っていました。まあ、この辺りの時代の偉い人たちの間では割と男色が流行ってたらしいですし、歴史上に男色家の勇士は幾らでも居ますから、別にそれくらいは正常の内なんですが、女装癖と男色家を兼ねていると、彼が上か下かって問題が少しばかり気になります。手元の本では分からないのですが、やっぱり下でしょうか?でもフィリップはサディストだったらしいので、上かもしれません。ひょっとしたら両方?
それはさておき男色に耽ったせいで、彼は妻と隙間を生じたりもしていました。
おかげで、1670年に妻が病死した際には、フィリップが毒殺したのではないかと不当に世間から疑いを受けることになったとか。
ちなみに妻との間に娘が二人、後妻との間に息子が一人生まれていますから、男以外もいける口だったようです。
余談ながら、娘二人はスペイン王およびサルディニア王の王妃、息子はルイ15世の摂政となっています。
なお、軽侮されていた女装癖のダメ人間が戦場では豹変、勇将として目覚ましく突撃する姿は、文弱と勇気が矛盾しない格好の実例として取り上げられることが多いそうです。
さて次に取り上げるのは、ルイ15世の時代の人物、騎士デオン(1728~1810年)です。
彼は無敵の剣士にして優れた文筆家であり、美貌も相俟って、若くして宮廷の名士たちや王の好意と信頼を獲得し、やがては王の設置した諜報機関の諜報員に抜擢されて外交の裏面で活躍することになります。
彼は、1755年、十年以上にわたって断絶していたフランスとロシアの外交関係を好転させるためにロシアに派遣されます。この当時、ロシアは女王こそ親仏派であるものの宰相が反仏派で、フランスからの使者は厳しい検問を受けて女帝と接触を阻まれた状態にありました。そこでフランスでは、騎士デオンの美貌に着目し、彼を女装させ、イングランド毛皮商人の姪リア・ド・ボーモン嬢という名で毛皮商人役の付添人とともにロシアに潜入させ、ロシア女帝エリザヴェータへの接近を図らせることにしたのです。
そしてロシアに潜入した彼は、副宰相に取り入って女帝の部屋に出入りする特典を獲得、巧みな話術で女帝を魅了し、外交関係の復活に成功して帰国します。その後、彼はボーモン嬢の兄を名乗ってフランス大使館書記の肩書きで二度に渡ってロシアに滞在、賄賂や美酒の力で女帝の恋人や副宰相を籠絡し、「妹」が開いた仏露関係の発展に大いに活躍しました。
その後ロシアの寒気で健康を害したデオンは、対ロシア外交から退き、1760年から1761年にかけては七年戦争後期の戦場で軍人として活動、騎兵連隊長として目覚ましく活躍し、次々に武勲を挙げました。
1762年からは、彼は対英外交に活躍、諜報員として賄賂や酒を駆使した情報収集を行ったほか、1763年には一時的にではありますが、大使代行として外交の華やかな表舞台に立つという栄誉を獲得しています。
ところが以後デオンの人生は下降線を辿り、それとともにダメ人間ぶりを発揮していくことになります。
機密費の膨大な浪費、上層部における政争の余波とそれに絡んだ新任の大使との確執、危険な機密への精通と機密書類の保持によって、彼は政府と宮廷から邪魔者扱いされるようになり、危険人物として、信頼と地位を失っていったのです。その過程で彼は、酷い時期には、毒殺や刺客の凶刃にさらされ、爆薬で自宅を要塞化したり老婆に扮して敵の目を欺いたりして、身の安全を図らねばなりませんでした。
そしてその状況下、彼は失墜によって多少錯乱でもしたのか、ダメ人間ぶりを発揮していきます。政敵の中傷や彼について誤解したままのロシア人亡命者の主張がもととなり、1770年頃以降、ロンドンでは彼が女性であるとの疑惑が広まっていったのですが、1772年頃からは彼は自らも実は女であったとの告白を始め、話はどんどん大きくなっていきます。挙げ句、1777年に彼がフランスに帰国した際には、彼は女性にふさわしい身なり以外で人前に出ることを国王から禁止されるに至っているのです。
このような事態に至った背景については様々に指摘されていますが、その中に、デオンが、失墜してしまった我が身に茶番劇で注目を集め、虚栄心を満たそうとしたのだというものがあります。
男としての活躍で喝采を浴びるのでなく女あるいは女装者として注目されることでも虚栄心を満たせる当たり、仕事上の必要や身の危険に迫られて始めた女装がいつの間にやら性癖として定着して、さらなる高みへ突き抜けつつあるって感じです。
なお彼は、時折、女装は強いられてのことだと自己弁護してみたり(ただしデオンが女装を強いた者として挙げる中にはデオンを女と信じていた人物が混じっていてこの主張の信憑性は薄いらしい)、女装についての不満を漏らしたり、軍人としての自分を懐かしがったりしていますから、終始女装して生きることには抵抗があり、おそらく女装は時折の趣味としての限度内に収めておきたかったのでしょう。
ですが王命が下るほど話を大きくしてしまった以上、もはや後戻りは出来ず、結局、彼は1810年に死ぬまでの三十年以上を女装して過ごすことになり、彼の身近にいながら死亡時に医師が彼を紛れもなく男であると確認するまで彼を女であると信じていた者さえいたのだそうです。
ちなみに服装倒錯を指す「エオニスム(eonism)」という語があるのですが、この語は、デオン=D'Eonというこの男の名から造られたそうです。
今回の二人は、女装癖というダメ人間ぶりはなかなか大したもので、また優秀な人間ではあることは確かなのですが、偉大とまで呼べるかどうかは怪しいと言わざるを得ず、番外扱いとします。
参考資料
金澤誠/進藤牧郎/阿部重雄/村岡晢/赤井彰著『世界の戦史 第六巻 ルイ14世とフリードリヒ大王』大類伸監修 人物往来社
ヴォルテール著『ルイ14世の世紀』丸山熊雄訳 岩波文庫
窪田般彌著『女装の剣士 シュヴァリエ・デオンの生涯』 白水社
澁澤龍彦著『妖人奇人館』 河出文庫
『Encyclopaedia Britannica 2007』
『ダメ人間の世界史&日本史』ブログ版(試し読み用)目次へ戻る
関連記事(2009年5月17日新設)
男色の対象年齢を日本史をもとに考える ~男の娘の華の命をどこまで延ばすか菊の露~
HENTAIとヘタレが咲き乱れる日本の文学的至宝・物語文学案内 「2/2 鎌倉編」下 注目はオトコの娘
涼宮ハルヒの名将の憂鬱 前編
(以下2010年7月1日加筆)
フィリップおよびデオンについては
よろしければ、社会評論社『ダメ人間の世界史』
(「デオン 王弟フィリップ オイゲン公子 誰よりも男らしい戦士たちの女らしい私生活を見よ ~ブルボン朝フランスが生んだ男の娘戦士たち~」収録)
もご参照ください。
色々リンクを変更(2010年12月7日)
Amazon :『ダメ人間の世界史』(ダメ人間の歴史vol 1)楽天ブックス:『ダメ人間の世界史』(ダメ人間の歴史vol 1)
当ブログ内紹介記事
Amazon :『ダメ人間の日本史』(ダメ人間の歴史vol 2)楽天ブックス:『ダメ人間の日本史』(ダメ人間の歴史vol 2)
当ブログ内紹介記事
【以上(↑)、2010年12月05日加筆】
『ダメ人間の世界史&日本史』ブログ版(試し読み用)目次へ戻る
近世フランスの絶頂期に君臨し強大な国力で周辺諸国を圧倒、太陽王と呼ばれたルイ14世には一人の弟(1640~1701年)がいました。この王弟殿下(ムッシュー)は、名をオルレアン公フィリップと言い、ルイによって政治的影響力を行使することこそ阻まれていましたが、軍事面では勇敢な戦士、巧妙な将軍として、なかなかの能力を発揮しています。
彼はルイ太陽王の初期の軍事作戦、フランドル戦争(1667~1668年)およびオランダ戦争(1672~1678年)で活躍し、とりわけ後者では、カッセルにおいて優れた軍人であるオランダ軍司令官オラニエ公ウィレムと激突、指揮下にあった名将リュクサンブールの活躍もあってこれを一蹴し、剛毅かつ平静な態度で突撃を敢行して世間の高い評価を受けることになります。
ルイ14世の時代と言えば内外の名将が技量を競い合った時代で、フランス内に限ってもテュレンヌ、大コンデ、リュクサンブール、カティナ、ヴィラール、ヴォーバンと高名な将帥が数多おり、それと比べればフィリップの存在など取るに足らないものではあるのですが、それでも彼の活躍は、兄ルイの嫉妬と警戒を呼び起こすに十分で、ルイは近くに滞在していながら、弟と顔を合わせても勝ち戦の話をすることは一切無く、当該戦場を見に行くこともなかったそうです。そして明敏なフィリップの従者は、この時点で、以後フィリップが軍の指揮を任されることは二度と無いだろうと予言しましたが、事実その通りとなりました。
ところで、この王弟フィリップの普段の姿は、戦場での勇将ぶりとは全く異なって、女々しい文弱で鳴らす人物で、女装して宮廷を練り歩くこともしばしばな、かなり素敵なダメ人間だったそうです。そのため彼は、宮廷の人士からは表向きは尊重されつつ密かに軽蔑されていたとか言います。
その上、彼は男色関係に耽っていました。まあ、この辺りの時代の偉い人たちの間では割と男色が流行ってたらしいですし、歴史上に男色家の勇士は幾らでも居ますから、別にそれくらいは正常の内なんですが、女装癖と男色家を兼ねていると、彼が上か下かって問題が少しばかり気になります。手元の本では分からないのですが、やっぱり下でしょうか?でもフィリップはサディストだったらしいので、上かもしれません。ひょっとしたら両方?
それはさておき男色に耽ったせいで、彼は妻と隙間を生じたりもしていました。
おかげで、1670年に妻が病死した際には、フィリップが毒殺したのではないかと不当に世間から疑いを受けることになったとか。
ちなみに妻との間に娘が二人、後妻との間に息子が一人生まれていますから、男以外もいける口だったようです。
余談ながら、娘二人はスペイン王およびサルディニア王の王妃、息子はルイ15世の摂政となっています。
なお、軽侮されていた女装癖のダメ人間が戦場では豹変、勇将として目覚ましく突撃する姿は、文弱と勇気が矛盾しない格好の実例として取り上げられることが多いそうです。
さて次に取り上げるのは、ルイ15世の時代の人物、騎士デオン(1728~1810年)です。
彼は無敵の剣士にして優れた文筆家であり、美貌も相俟って、若くして宮廷の名士たちや王の好意と信頼を獲得し、やがては王の設置した諜報機関の諜報員に抜擢されて外交の裏面で活躍することになります。
彼は、1755年、十年以上にわたって断絶していたフランスとロシアの外交関係を好転させるためにロシアに派遣されます。この当時、ロシアは女王こそ親仏派であるものの宰相が反仏派で、フランスからの使者は厳しい検問を受けて女帝と接触を阻まれた状態にありました。そこでフランスでは、騎士デオンの美貌に着目し、彼を女装させ、イングランド毛皮商人の姪リア・ド・ボーモン嬢という名で毛皮商人役の付添人とともにロシアに潜入させ、ロシア女帝エリザヴェータへの接近を図らせることにしたのです。
そしてロシアに潜入した彼は、副宰相に取り入って女帝の部屋に出入りする特典を獲得、巧みな話術で女帝を魅了し、外交関係の復活に成功して帰国します。その後、彼はボーモン嬢の兄を名乗ってフランス大使館書記の肩書きで二度に渡ってロシアに滞在、賄賂や美酒の力で女帝の恋人や副宰相を籠絡し、「妹」が開いた仏露関係の発展に大いに活躍しました。
その後ロシアの寒気で健康を害したデオンは、対ロシア外交から退き、1760年から1761年にかけては七年戦争後期の戦場で軍人として活動、騎兵連隊長として目覚ましく活躍し、次々に武勲を挙げました。
1762年からは、彼は対英外交に活躍、諜報員として賄賂や酒を駆使した情報収集を行ったほか、1763年には一時的にではありますが、大使代行として外交の華やかな表舞台に立つという栄誉を獲得しています。
ところが以後デオンの人生は下降線を辿り、それとともにダメ人間ぶりを発揮していくことになります。
機密費の膨大な浪費、上層部における政争の余波とそれに絡んだ新任の大使との確執、危険な機密への精通と機密書類の保持によって、彼は政府と宮廷から邪魔者扱いされるようになり、危険人物として、信頼と地位を失っていったのです。その過程で彼は、酷い時期には、毒殺や刺客の凶刃にさらされ、爆薬で自宅を要塞化したり老婆に扮して敵の目を欺いたりして、身の安全を図らねばなりませんでした。
そしてその状況下、彼は失墜によって多少錯乱でもしたのか、ダメ人間ぶりを発揮していきます。政敵の中傷や彼について誤解したままのロシア人亡命者の主張がもととなり、1770年頃以降、ロンドンでは彼が女性であるとの疑惑が広まっていったのですが、1772年頃からは彼は自らも実は女であったとの告白を始め、話はどんどん大きくなっていきます。挙げ句、1777年に彼がフランスに帰国した際には、彼は女性にふさわしい身なり以外で人前に出ることを国王から禁止されるに至っているのです。
このような事態に至った背景については様々に指摘されていますが、その中に、デオンが、失墜してしまった我が身に茶番劇で注目を集め、虚栄心を満たそうとしたのだというものがあります。
男としての活躍で喝采を浴びるのでなく女あるいは女装者として注目されることでも虚栄心を満たせる当たり、仕事上の必要や身の危険に迫られて始めた女装がいつの間にやら性癖として定着して、さらなる高みへ突き抜けつつあるって感じです。
なお彼は、時折、女装は強いられてのことだと自己弁護してみたり(ただしデオンが女装を強いた者として挙げる中にはデオンを女と信じていた人物が混じっていてこの主張の信憑性は薄いらしい)、女装についての不満を漏らしたり、軍人としての自分を懐かしがったりしていますから、終始女装して生きることには抵抗があり、おそらく女装は時折の趣味としての限度内に収めておきたかったのでしょう。
ですが王命が下るほど話を大きくしてしまった以上、もはや後戻りは出来ず、結局、彼は1810年に死ぬまでの三十年以上を女装して過ごすことになり、彼の身近にいながら死亡時に医師が彼を紛れもなく男であると確認するまで彼を女であると信じていた者さえいたのだそうです。
ちなみに服装倒錯を指す「エオニスム(eonism)」という語があるのですが、この語は、デオン=D'Eonというこの男の名から造られたそうです。
今回の二人は、女装癖というダメ人間ぶりはなかなか大したもので、また優秀な人間ではあることは確かなのですが、偉大とまで呼べるかどうかは怪しいと言わざるを得ず、番外扱いとします。
参考資料
金澤誠/進藤牧郎/阿部重雄/村岡晢/赤井彰著『世界の戦史 第六巻 ルイ14世とフリードリヒ大王』大類伸監修 人物往来社
ヴォルテール著『ルイ14世の世紀』丸山熊雄訳 岩波文庫
窪田般彌著『女装の剣士 シュヴァリエ・デオンの生涯』 白水社
澁澤龍彦著『妖人奇人館』 河出文庫
『Encyclopaedia Britannica 2007』
『ダメ人間の世界史&日本史』ブログ版(試し読み用)目次へ戻る
関連記事(2009年5月17日新設)
男色の対象年齢を日本史をもとに考える ~男の娘の華の命をどこまで延ばすか菊の露~
HENTAIとヘタレが咲き乱れる日本の文学的至宝・物語文学案内 「2/2 鎌倉編」下 注目はオトコの娘
涼宮ハルヒの名将の憂鬱 前編
(以下2010年7月1日加筆)
フィリップおよびデオンについては
よろしければ、社会評論社『ダメ人間の世界史』
(「デオン 王弟フィリップ オイゲン公子 誰よりも男らしい戦士たちの女らしい私生活を見よ ~ブルボン朝フランスが生んだ男の娘戦士たち~」収録)
もご参照ください。
色々リンクを変更(2010年12月7日)
by trushbasket
| 2008-01-30 22:35
| My(山田昌弘)








