2008年 02月 06日
サツマイモ・ジャガイモ伝来記 および イモを広めた英雄たち
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今回はお題はイモ。
サツマイモについては、青木昆陽とか、わずかとはいえ伝来・普及の知識があるのに、サツマイモより好物であるジャガイモについて何も知らないのは残念だという個人的な思いから、少しジャガイモについて調べてみたのですが、せっかくだから、サツマイモについても軽く調べてみました。
まずはサツマイモとジャガイモが日本に伝わり広まるまでの歴史を辿りましょう。
ジャガイモの原産地は南米ペルーのティティカカ湖畔で、紀元前500年頃から栽培が始まっています。
これをユーラシア地域に初めて伝えたのは南米に支配を広げたスペイン人で、1570年、目新しい新大陸土産の珍植物として持ち帰ったのだそうです。これがヨーロッパで食用されるようになったのはその三年後、スペインの都市セビリアで病院の患者に供されたのが初めだとか。そしてジャガイモは16世紀の間に、西ヨーロッパ中に広まっていきますが、この頃はジャガイモを食用に供することは未だ少なく、主に植物学者等の菜園で研究・観賞用に細々と栽培されていたのみだそうです。ジャガイモがなかなか食用されなかった理由としては、聖書にない不浄の作物として嫌われたこと、流行病の原因とされたことなどがありますが、17世紀半ば以降、戦乱による耕地の荒廃や頻発する凶作、飢饉の中で、次第に食用が拡大していったそうです。16世紀には、ジャガイモは、インドや東南アジア、中国にも伝えられています。
日本には、オランダによってジャガイモが伝えられており、1598年にインドネシアのジャワ島からやって来たオランダ船が、ジャガイモを長崎港に持ち込んでいます。ちなみにジャワの街ジャカトラ(現ジャカルタ)から来たイモだからジャカトライモと呼ばれ、これが転じてジャガイモとなったそうです。なお18世紀末にはロシア人も日本にジャガイモを伝え、北海道や東北地方に広まっています。
日本でもジャガイモは伝来当初は観賞用でしたが、飢饉のたびに食用への関心が高まり19世紀半ばまでに全国的に食用栽培が普及、天保の飢饉(1833~1836)では多くの者がジャガイモのおかげで餓死を免れ、ジャガイモは御助薯と呼ばれています。
現在日本で栽培されるジャガイモの代表種である男爵イモは1908年、アメリカから取り寄せて北海道の農園に導入されたもので、もう一方の代表種メークイーンは1917年にイギリスから導入されたそうです。
ちなみにジャガイモはバレイショ(馬鈴薯)とも呼ばれますが、これは小野蘭山『耋莚小牘』(1808)で、ジャガイモを中国の『松渓懸志』に登場する植物の馬鈴薯に誤ってあてたこと端を発するそうです。
サツマイモの原産地はメキシコで、紀元前3000年頃には栽培が始まっていたと考えられており、紀元前2500年頃には南米にも伝わっています。
サツマイモをユーラシア地域に初めて伝えたのは1492年の西インド諸島到達以降数度にわたってアメリカ大陸方面へ航海を繰り返したコロンブスで、彼は1498年の第三回航海で南アメリカ大陸に到達、サツマイモを持ち帰ってスペイン女王イザベルに献上したそうです。サツマイモは16世紀の間にヨーロッパ各地やアフリカ、アジアに広まっていますが、ヨーロッパではジャガイモほどには普及しませんでした。
サツマイモは、日本には16世紀末から17世紀の初めにかけて中国から伝えられています。日本で最初に伝わったのは琉球(沖縄地方)で、1597年に宮古島に持ち込まれたそうですが、宮古島のサツマイモが他へ伝播していくことはありませんでした。1605年には沖縄本島に福建からサツマイモの鉢植えが持ち込まれ、ここからサツマイモが沖縄中に普及していくことになりました。
日本本土に伝来した最初の事例は1615年に沖縄から長崎の平戸のイギリス商館に持ち込まれ栽培されたものらしいですが、これはごくわずかしか後世に影響を残しませんでした。18世紀になるとサツマイモは沖縄から薩摩(鹿児島)に伝わり、ここから日本本土に広まっていくことになりますが、凶作への対策になるので次第に西日本に普及していき、1717年には京都に焼き芋屋が存在したそうです。1735年には江戸でもサツマイモが導入され、19世紀半ばまでにサツマイモ栽培は東北地方にまで広がっていったそうです。
サツマイモはカンショ(甘藷)、バンショ(蕃藷)、リュウキュウイモ(琉球藷)、カライモ(唐芋)などとも言う。
ところでジャガイモもサツマイモも、やせた土地でも栽培可能であるため凶作・飢饉への対策や生産力増強に非常に有効ですから、この点に目を付けてこれらのイモの導入・普及を成功させ歴史に名を残した賢者の名が、世界各地に多数伝わっています。以下ではそんな世界のイモ英雄たちを、見ていくことにしましょう。
フリードリヒ大王
ドイツ東北辺境のプロイセンの王。プロイセンでは彼の父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の代にもジャガイモの栽培を奨励していたが、成功を収めてはいなかった。それが、息子の彼はオーストリアとの過酷な戦争を乗り越えるために農業振興を図り、1750年以降、ジャガイモ普及を強力に推進し、様々な手を打つ。農民にジャガイモの種芋を配布したほか兵士を監視役に派遣して栽培を強制、プロイセン全土にジャガイモを普及させていった。ジャガイモ普及に貢献した彼の墓には、現在でもしばしばジャガイモが備えられるらしい。
パルマンティエ
フランスの農学者。七年戦争(1756~1763年)でプロイセン軍の捕虜となりジャガイモに触れて、その優秀性を知る。1772年に食料飢饉緩和策に関する懸賞論文に応募して採用され、王室の援助下に、フランスでのジャガイモ栽培普及に尽力した。王妃マリー・アントワネットにジャガイモの花を付けて夜会に出席させ、社交界にジャガイモを宣伝したり、昼間ジャガイモ畑を王の親衛隊で警備してジャガイモが貴重な王の作物であるとの印象を与えつつ夜間に警備を弱めることで、農民がこれを盗み出すよう誘導するなどした。ジャガイモ料理を様々に工夫し、パルマンティエ風と呼ばれる料理が今も残っている。
デカブリスト
1825年にロシアでは、開明派の青年将校が西ヨーロッパの先進的制度に倣った政治改革を志して武装蜂起し、簡単に鎮圧されたが、彼等はデカブリストと呼ばれた。彼等のうち121名がシベリア流刑となったが、彼等は飢饉に苦しむシベリア住民のため、故郷からジャガイモを取り寄せ栽培を開始、ジャガイモを気味悪がる農民に金を与えて懐柔するなどして、シベリアにジャガイモを定着させた。
江戸時代日本の救荒の名代官たち
幸田善太夫は1745年飛騨の代官となりジャガイモを広めた。同地では1833~1836年の天保の飢饉に際してジャガイモが大いに役立ったため、ジャガイモを「善太いも」と呼んだ。
ジャガイモに関するこの種の逸話は日本各地に残っているらしく、山梨では代官の中井清太夫の名にちなんだ「清太夫いも」という呼び名ができている。
湯地定基
1882年に初代根室県令となって北海道根室地方開拓地の食糧難に対処、住民に農具を支給するとともに、自ら種芋を持って家々を巡り、ジャガイモ栽培を普及させる。ジャガイモは根室地方の特産物となって、食料不安を緩和し、彼は感謝を込めて「芋判官」と呼ばれた。
川田龍吉
北海道の函館船渠社長で男爵。北海道の農業の発展にも貢献した。
1908年、函館郊外の自己の農園にアメリカからアイリッシュ・コブラーというジャガイモを導入、これがたちまち全北海道さらに全国へと普及して、日本のジャガイモの代表品種となっていった。この品種は日本では彼にちなんで「男爵」と呼ばれるようになった。
余談ながら川田男爵は、造船技術を学ぶためのイギリス留学時代にイギリス人女性と恋仲となって結婚を誓い合いながら、帰国後父の反対で結婚を断念するに至っており、この恋人とグラスゴーの街角で逢い引きしつつよく焼きジャガイモを食べたのだそうです。
陳振流と金学曾
陳振流は福建省の福州の商人で、1593年、フィリピンのルソンでサツマイモに触れ輸出厳禁の所を、芋の蔓を船の帆縄にないこむことで持ち出しに成功、中国南東部の福州にサツマイモを伝える。
彼の子孫も彼の遺志を継いでサツマイモの普及に力を尽くし、商用で訪れる先々に芋種を伝えている。おげで1662年には浙江省、1722年には山東省へとサツマイモが伝わり、さらに河南省、1757年には河北省にも伝えられている。
金学曾は福建省で地方民政長官とでも言うべき巡撫を務めた人物。陳振流がサツマイモを持ち帰った翌年、1594年の飢饉において、サツマイモを大いに奨励、成果を上げる。このためサツマイモを「金薯」と呼ぶようになった。
徐光啓
上海の学者。1608年の飢饉の際、かつて金学曾が飢饉にサツマイモで対策した噂を聞いて、芋種を上海へと取り寄せる。サツマイモの優良ぶりに感心して、サツマイモの栽培法を丁寧に記した『甘藷疏』を著したほか、『農政全書』を編纂した際にもサツマイモについて詳細に記載。
林懐蘭
広東省呉川の医者で、万暦(1573~1619年)の頃、カンボジアから中国南部の広東にサツマイモを持ち込み、そこから広東にサツマイモが普及していったと言われており、その伝説は以下の通り。
カンボジアに旅行した際に国境の守将の娘を治療してやった縁で国王の娘の治療にも当たり、その際、宴席で出されたサツマイモ料理に触れることになった。サツマイモは国外への持ち出しを厳禁されていたが、彼は、味を比較したいと言って特別に一つだけ生のサツマイモを貰うことができ、これを半分残して密かに懐に入れ、国外への持ち出しを図る。国境では守将にサツマイモを見つけられるも、守将はこれを見逃し、広東省にサツマイモが導入されることとなった。守将は責任を取って投身自殺した。
野国総管と儀間真常
野国総管は沖縄の役人で、朝貢船の一員として中国福建省を訪れた彼は、1605年にサツマイモの鉢植えを沖縄本島に持ち帰り「芋大主(ンムウスー)」と呼ばれた。
儀間真常は沖縄の役人で殖産興業に尽力した人物。1605年に野国総管からサツマイモの栽培法を教わって、以後、沖縄中にサツマイモの栽培を普及定着させていった。
種子島久基と休左衛門
種子島の島主の種子島久基は1698年に琉球王に頼み込んで沖縄からサツマイモを入手、家老に栽培を命じた。
家老は信頼する農民の休左衛門にサツマイモの試作を命じ、休左衛門は試行錯誤の末栽培に成功し、その功績で大瀬の姓を名乗ることを許された。
なお、久基は「いも殿様」と呼ばれて功績を讃えられ、久基を祀った神社は「いも神社」と名づけられることになった。
前田利右衛門
鹿児島の山川の農家の生まれで、1705年に沖縄を水夫として訪れ、その際に農家からサツマイモの苗を譲り受けて郷里で栽培に成功した。これ以前にも鹿児島にはサツマイモが持ち込まれたことはあったが、鹿児島全土へと普及していくのはここからである。彼は「甘藷翁(カライモオンジョ)」と呼ばれ、神社に祀られるようになった。
下見吉十郎
愛媛の大三島の出身で、1711年に全国六十六カ所の霊場を訪ねる巡礼の旅に出て、鹿児島から郷里にサツマイモの芋種を持ち帰り、そこからサツマイモが周囲の島々にも広まる。死後「甘藷地蔵」として祀られるようになった。
島利兵衛
京都の長池出身。硫黄島に島流しとなったが、1716年に罪を許され帰郷する際にサツマイモを持ち帰り、郷里と周辺地域に普及させたていった。「芋宗匠」と讃えられる。
陶山純翁
対馬の奉行で、職を退いた後、1720年に薩摩からサツマイモを入手、農民たちに栽培させる。『甘藷説』を著して、サツマイモの普及に努めた。
井戸平左衛門
島根の大森の代官で、1732年に旅の僧からサツマイモの情報を入手、鹿児島からサツマイモを手に入れて栽培を奨励した。「芋代官」の名を残している。
青木昆陽
江戸で活躍した学者で、サツマイモの栽培を奨励する『蕃藷考』を著して幕府に採用され、1734年に鹿児島から種芋を取り寄せて小石川でサツマイモを試作、サツマイモの江戸および関東への導入を果たす。「甘藷先生」と呼ばれる。
参考資料
伊藤章治著『ジャガイモの世界史 歴史を動かした「貧者のパン」』 中公新書
野國總管甘藷伝来400年祭副読本『甘藷と野國總管』 嘉手納町野國總管甘藷伝来400年祭実行委員会 (嘉手納町役場サイトより http://www.town.kadena.okinawa.jp/soukan/book/index.html)
篠田統著『中国食物史』 柴田書店
大貫良夫/前川和也/渡辺和子/屋形禎亮著『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』 中央公論社
『スーパー・ニッポニカ Professional for Windows Ver.1.0』 小学館
関連記事(2009年5月17日新設)
偉大なるダメ人間シリーズ番外その4 タカリ魔のヤンデレ内政王 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
「男のしるし、皇統の危機」訂正事項
中国食人文化入門 ~中国的合理主義と、中国人であることおよび中国人があることの不幸について~
サツマイモについては、青木昆陽とか、わずかとはいえ伝来・普及の知識があるのに、サツマイモより好物であるジャガイモについて何も知らないのは残念だという個人的な思いから、少しジャガイモについて調べてみたのですが、せっかくだから、サツマイモについても軽く調べてみました。
まずはサツマイモとジャガイモが日本に伝わり広まるまでの歴史を辿りましょう。
ジャガイモの原産地は南米ペルーのティティカカ湖畔で、紀元前500年頃から栽培が始まっています。
これをユーラシア地域に初めて伝えたのは南米に支配を広げたスペイン人で、1570年、目新しい新大陸土産の珍植物として持ち帰ったのだそうです。これがヨーロッパで食用されるようになったのはその三年後、スペインの都市セビリアで病院の患者に供されたのが初めだとか。そしてジャガイモは16世紀の間に、西ヨーロッパ中に広まっていきますが、この頃はジャガイモを食用に供することは未だ少なく、主に植物学者等の菜園で研究・観賞用に細々と栽培されていたのみだそうです。ジャガイモがなかなか食用されなかった理由としては、聖書にない不浄の作物として嫌われたこと、流行病の原因とされたことなどがありますが、17世紀半ば以降、戦乱による耕地の荒廃や頻発する凶作、飢饉の中で、次第に食用が拡大していったそうです。16世紀には、ジャガイモは、インドや東南アジア、中国にも伝えられています。
日本には、オランダによってジャガイモが伝えられており、1598年にインドネシアのジャワ島からやって来たオランダ船が、ジャガイモを長崎港に持ち込んでいます。ちなみにジャワの街ジャカトラ(現ジャカルタ)から来たイモだからジャカトライモと呼ばれ、これが転じてジャガイモとなったそうです。なお18世紀末にはロシア人も日本にジャガイモを伝え、北海道や東北地方に広まっています。
日本でもジャガイモは伝来当初は観賞用でしたが、飢饉のたびに食用への関心が高まり19世紀半ばまでに全国的に食用栽培が普及、天保の飢饉(1833~1836)では多くの者がジャガイモのおかげで餓死を免れ、ジャガイモは御助薯と呼ばれています。
現在日本で栽培されるジャガイモの代表種である男爵イモは1908年、アメリカから取り寄せて北海道の農園に導入されたもので、もう一方の代表種メークイーンは1917年にイギリスから導入されたそうです。
ちなみにジャガイモはバレイショ(馬鈴薯)とも呼ばれますが、これは小野蘭山『耋莚小牘』(1808)で、ジャガイモを中国の『松渓懸志』に登場する植物の馬鈴薯に誤ってあてたこと端を発するそうです。
サツマイモの原産地はメキシコで、紀元前3000年頃には栽培が始まっていたと考えられており、紀元前2500年頃には南米にも伝わっています。
サツマイモをユーラシア地域に初めて伝えたのは1492年の西インド諸島到達以降数度にわたってアメリカ大陸方面へ航海を繰り返したコロンブスで、彼は1498年の第三回航海で南アメリカ大陸に到達、サツマイモを持ち帰ってスペイン女王イザベルに献上したそうです。サツマイモは16世紀の間にヨーロッパ各地やアフリカ、アジアに広まっていますが、ヨーロッパではジャガイモほどには普及しませんでした。
サツマイモは、日本には16世紀末から17世紀の初めにかけて中国から伝えられています。日本で最初に伝わったのは琉球(沖縄地方)で、1597年に宮古島に持ち込まれたそうですが、宮古島のサツマイモが他へ伝播していくことはありませんでした。1605年には沖縄本島に福建からサツマイモの鉢植えが持ち込まれ、ここからサツマイモが沖縄中に普及していくことになりました。
日本本土に伝来した最初の事例は1615年に沖縄から長崎の平戸のイギリス商館に持ち込まれ栽培されたものらしいですが、これはごくわずかしか後世に影響を残しませんでした。18世紀になるとサツマイモは沖縄から薩摩(鹿児島)に伝わり、ここから日本本土に広まっていくことになりますが、凶作への対策になるので次第に西日本に普及していき、1717年には京都に焼き芋屋が存在したそうです。1735年には江戸でもサツマイモが導入され、19世紀半ばまでにサツマイモ栽培は東北地方にまで広がっていったそうです。
サツマイモはカンショ(甘藷)、バンショ(蕃藷)、リュウキュウイモ(琉球藷)、カライモ(唐芋)などとも言う。
ところでジャガイモもサツマイモも、やせた土地でも栽培可能であるため凶作・飢饉への対策や生産力増強に非常に有効ですから、この点に目を付けてこれらのイモの導入・普及を成功させ歴史に名を残した賢者の名が、世界各地に多数伝わっています。以下ではそんな世界のイモ英雄たちを、見ていくことにしましょう。
フリードリヒ大王
ドイツ東北辺境のプロイセンの王。プロイセンでは彼の父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の代にもジャガイモの栽培を奨励していたが、成功を収めてはいなかった。それが、息子の彼はオーストリアとの過酷な戦争を乗り越えるために農業振興を図り、1750年以降、ジャガイモ普及を強力に推進し、様々な手を打つ。農民にジャガイモの種芋を配布したほか兵士を監視役に派遣して栽培を強制、プロイセン全土にジャガイモを普及させていった。ジャガイモ普及に貢献した彼の墓には、現在でもしばしばジャガイモが備えられるらしい。
パルマンティエ
フランスの農学者。七年戦争(1756~1763年)でプロイセン軍の捕虜となりジャガイモに触れて、その優秀性を知る。1772年に食料飢饉緩和策に関する懸賞論文に応募して採用され、王室の援助下に、フランスでのジャガイモ栽培普及に尽力した。王妃マリー・アントワネットにジャガイモの花を付けて夜会に出席させ、社交界にジャガイモを宣伝したり、昼間ジャガイモ畑を王の親衛隊で警備してジャガイモが貴重な王の作物であるとの印象を与えつつ夜間に警備を弱めることで、農民がこれを盗み出すよう誘導するなどした。ジャガイモ料理を様々に工夫し、パルマンティエ風と呼ばれる料理が今も残っている。
デカブリスト
1825年にロシアでは、開明派の青年将校が西ヨーロッパの先進的制度に倣った政治改革を志して武装蜂起し、簡単に鎮圧されたが、彼等はデカブリストと呼ばれた。彼等のうち121名がシベリア流刑となったが、彼等は飢饉に苦しむシベリア住民のため、故郷からジャガイモを取り寄せ栽培を開始、ジャガイモを気味悪がる農民に金を与えて懐柔するなどして、シベリアにジャガイモを定着させた。
江戸時代日本の救荒の名代官たち
幸田善太夫は1745年飛騨の代官となりジャガイモを広めた。同地では1833~1836年の天保の飢饉に際してジャガイモが大いに役立ったため、ジャガイモを「善太いも」と呼んだ。
ジャガイモに関するこの種の逸話は日本各地に残っているらしく、山梨では代官の中井清太夫の名にちなんだ「清太夫いも」という呼び名ができている。
湯地定基
1882年に初代根室県令となって北海道根室地方開拓地の食糧難に対処、住民に農具を支給するとともに、自ら種芋を持って家々を巡り、ジャガイモ栽培を普及させる。ジャガイモは根室地方の特産物となって、食料不安を緩和し、彼は感謝を込めて「芋判官」と呼ばれた。
川田龍吉
北海道の函館船渠社長で男爵。北海道の農業の発展にも貢献した。
1908年、函館郊外の自己の農園にアメリカからアイリッシュ・コブラーというジャガイモを導入、これがたちまち全北海道さらに全国へと普及して、日本のジャガイモの代表品種となっていった。この品種は日本では彼にちなんで「男爵」と呼ばれるようになった。
余談ながら川田男爵は、造船技術を学ぶためのイギリス留学時代にイギリス人女性と恋仲となって結婚を誓い合いながら、帰国後父の反対で結婚を断念するに至っており、この恋人とグラスゴーの街角で逢い引きしつつよく焼きジャガイモを食べたのだそうです。
陳振流と金学曾
陳振流は福建省の福州の商人で、1593年、フィリピンのルソンでサツマイモに触れ輸出厳禁の所を、芋の蔓を船の帆縄にないこむことで持ち出しに成功、中国南東部の福州にサツマイモを伝える。
彼の子孫も彼の遺志を継いでサツマイモの普及に力を尽くし、商用で訪れる先々に芋種を伝えている。おげで1662年には浙江省、1722年には山東省へとサツマイモが伝わり、さらに河南省、1757年には河北省にも伝えられている。
金学曾は福建省で地方民政長官とでも言うべき巡撫を務めた人物。陳振流がサツマイモを持ち帰った翌年、1594年の飢饉において、サツマイモを大いに奨励、成果を上げる。このためサツマイモを「金薯」と呼ぶようになった。
徐光啓
上海の学者。1608年の飢饉の際、かつて金学曾が飢饉にサツマイモで対策した噂を聞いて、芋種を上海へと取り寄せる。サツマイモの優良ぶりに感心して、サツマイモの栽培法を丁寧に記した『甘藷疏』を著したほか、『農政全書』を編纂した際にもサツマイモについて詳細に記載。
林懐蘭
広東省呉川の医者で、万暦(1573~1619年)の頃、カンボジアから中国南部の広東にサツマイモを持ち込み、そこから広東にサツマイモが普及していったと言われており、その伝説は以下の通り。
カンボジアに旅行した際に国境の守将の娘を治療してやった縁で国王の娘の治療にも当たり、その際、宴席で出されたサツマイモ料理に触れることになった。サツマイモは国外への持ち出しを厳禁されていたが、彼は、味を比較したいと言って特別に一つだけ生のサツマイモを貰うことができ、これを半分残して密かに懐に入れ、国外への持ち出しを図る。国境では守将にサツマイモを見つけられるも、守将はこれを見逃し、広東省にサツマイモが導入されることとなった。守将は責任を取って投身自殺した。
野国総管と儀間真常
野国総管は沖縄の役人で、朝貢船の一員として中国福建省を訪れた彼は、1605年にサツマイモの鉢植えを沖縄本島に持ち帰り「芋大主(ンムウスー)」と呼ばれた。
儀間真常は沖縄の役人で殖産興業に尽力した人物。1605年に野国総管からサツマイモの栽培法を教わって、以後、沖縄中にサツマイモの栽培を普及定着させていった。
種子島久基と休左衛門
種子島の島主の種子島久基は1698年に琉球王に頼み込んで沖縄からサツマイモを入手、家老に栽培を命じた。
家老は信頼する農民の休左衛門にサツマイモの試作を命じ、休左衛門は試行錯誤の末栽培に成功し、その功績で大瀬の姓を名乗ることを許された。
なお、久基は「いも殿様」と呼ばれて功績を讃えられ、久基を祀った神社は「いも神社」と名づけられることになった。
前田利右衛門
鹿児島の山川の農家の生まれで、1705年に沖縄を水夫として訪れ、その際に農家からサツマイモの苗を譲り受けて郷里で栽培に成功した。これ以前にも鹿児島にはサツマイモが持ち込まれたことはあったが、鹿児島全土へと普及していくのはここからである。彼は「甘藷翁(カライモオンジョ)」と呼ばれ、神社に祀られるようになった。
下見吉十郎
愛媛の大三島の出身で、1711年に全国六十六カ所の霊場を訪ねる巡礼の旅に出て、鹿児島から郷里にサツマイモの芋種を持ち帰り、そこからサツマイモが周囲の島々にも広まる。死後「甘藷地蔵」として祀られるようになった。
島利兵衛
京都の長池出身。硫黄島に島流しとなったが、1716年に罪を許され帰郷する際にサツマイモを持ち帰り、郷里と周辺地域に普及させたていった。「芋宗匠」と讃えられる。
陶山純翁
対馬の奉行で、職を退いた後、1720年に薩摩からサツマイモを入手、農民たちに栽培させる。『甘藷説』を著して、サツマイモの普及に努めた。
井戸平左衛門
島根の大森の代官で、1732年に旅の僧からサツマイモの情報を入手、鹿児島からサツマイモを手に入れて栽培を奨励した。「芋代官」の名を残している。
青木昆陽
江戸で活躍した学者で、サツマイモの栽培を奨励する『蕃藷考』を著して幕府に採用され、1734年に鹿児島から種芋を取り寄せて小石川でサツマイモを試作、サツマイモの江戸および関東への導入を果たす。「甘藷先生」と呼ばれる。
参考資料
伊藤章治著『ジャガイモの世界史 歴史を動かした「貧者のパン」』 中公新書
野國總管甘藷伝来400年祭副読本『甘藷と野國總管』 嘉手納町野國總管甘藷伝来400年祭実行委員会 (嘉手納町役場サイトより http://www.town.kadena.okinawa.jp/soukan/book/index.html)
篠田統著『中国食物史』 柴田書店
大貫良夫/前川和也/渡辺和子/屋形禎亮著『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』 中央公論社
『スーパー・ニッポニカ Professional for Windows Ver.1.0』 小学館
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「男のしるし、皇統の危機」訂正事項
中国食人文化入門 ~中国的合理主義と、中国人であることおよび中国人があることの不幸について~
by trushbasket
| 2008-02-06 20:14
| My(山田昌弘)








