2008年 02月 13日
大アジア友好の偉大な架け橋 ~前近代日本史に現れたインド人~
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独立期のインドで政治家・外交官として活躍するとともに高名な文学者にして歴史学者でもあったK・M・パニッカルという人物がいて、その人が1947年8月15日インド独立の日に刊行した『インドの歴史』(1954年に第二版)は「インド人の立場から総合的に書かれた史書の代表的なもの」(中村元『古代インド』講談社学術文庫 421頁)らしいのですが、日本でもこの本の翻訳が1959年に出版されています。
そして彼は、その日本語版の序文を記した中で、「インドと日本との直接的な接触が復活しはじめたのも、このころでした。アビネンドラナート・タゴールといえばインドの新しい絵画派の父といっていいひとですが、かれが日本美術の伝統の影響をうけた〔岡倉天心の渡印などが契機となっている〕ことはよく知られております。ラーシュ・ベハーリー・ボース、ラーラー・ラージパット・ラーイその他のような政治指導者は、インドの民族運動と日本の政治指導者との最初の接触を確立いたしました。またアジア統一の意識も、岡倉天心の「アジアは一なり」という感動的なことばによってはじめて表明され、これは若い世代のアジア人思想家たちに大きな影響をあたえました。最近の戦争中に、スバース・チャンドラ・ボースが日本政府とのあいだに行った協力も、インドと日本とをより緊密に結びつけるのに役立った要因であります。」(パニッカル『インドの歴史』 東洋経済新報社)と述べているのですが、文化から政治軍事にまで及ぶ近代のこの重大な交流関係を「復活」と呼ぶだけの接触が、それより過去の日印間には本当に存在したのでしょうか。
今回は、それを確かめるため前近代日本とインド人の直接の接触の例を探してみました。
とはいえ、引きこもり鎖国気質の上、グローバル化が叫ばれる現代においてさえ「アジア」の語でせいぜい中国までの至近の特定数カ国しか思い浮かべることのできない人間が溢れかえる視野の狭い国、日本。そんな日本の歴史上に遠国インドとの直接接触など、見つけることができるのか不安だったわけですが、それでもどうにかインド人が日本に渡来して活動している姿を史上に発見することが出来ました。
というわけで以下に、前近代日本に到来したあるいは到来したとされるインド人を紹介することにしましょう。
裸形上人
伝説によれば、仁徳天皇(4または5世紀)の時代に熊野に漂着したインド人仏僧で、同地の那智の滝で修行して観世音菩薩を感得、庵を結んだと言われる。この庵は、最澄、空海、円珍らの高僧が次々に参籠したほか皇室にも厚く信仰されて西国三十三所第一番札所となる那智山青岸渡寺の起源とされており、彼は霊場の集う聖地熊野の開祖の一人に当たる。彼をジャイナ教僧とする説もある。
法道仙人
伝説上の人物で、神通力を身につけたインド僧。紫雲に乗って日本に到来、兵庫南西部の播磨国法華山に下り立ったとされる。649年に孝徳天皇の病を治療したことで、勅令を得て、650年、法華山に一乗寺を開設したとされる。この他、646年に神戸の摩耶山忉利天上寺を開設したとされるなど、播磨、但馬、丹波、摂津といった近畿地方諸国などで多くの寺院を開いたことにされている。また645年、大阪の伝法地区に仏法を伝える草庵を建てたとされ、伝法の地名の由来となっている。
これら二人の伝説は、本当に古代の実話を伝えているのか怪しく、信憑性はあまり高いとは言えなさそうですが、古代にインド人が渡日した話は、伝説上のみならず歴史上にも見ることができ、それほど突飛な事態でもないのであって、伝説の背後に、古代の早い時期に近畿地方にインド僧が到来し活動していた可能性くらいは、見出しても良いような気がします。
というか、そうでもしないと今回の記事の趣旨に合わなくなって、ネタが減ってしまうので、とりあえず、そういうことにしておいて下さい。
菩提僊那(菩提仙那)
菩提僊那は南インド出身の僧で、中国に渡った後、日本の遣唐使多治比広成の要請を受け、来日を決意、736年に九州の太宰府に到着した。
彼は奈良の大安寺に住んで『華厳経』の読経や呪術を行ったほか、後進の教育を行って日本僧のサンスクリット語知識の習得に貢献した。
751年には彼は最上位の僧官である僧正となり、インドの司祭階級であるバラモンの生まれであったため、俗に婆羅門僧正と呼ばれた。
752年の東大寺大仏の開眼供養において彼は導師となり、大仏開眼の筆を取った。
なお菩提僊那はサンスクリット名ボディセーナ(Bodhisena)の音写である。
三河に到来した天竺人
『日本後紀』によれば、799年、愛知東部の三河国に出身地不明の外国人が小船で漂着、この者は中国語を習得した後、天竺人すなわちインド人を名乗った。このインド人は日本に初めてワタの種子をもたらし、その結果、9世紀には西日本各地で盛んにワタ栽培が行われることになった。ただ、その後ワタ栽培は不作で衰退、三河などごく一部で細々と栽培されるのみとなった。余談ながら、日本文化にワタが定着するのは16世紀に中国から種子を導入して以降である。
またこのインド人は一弦琴を日本にもたらした。常に一弦琴を携帯して哀楚な調べを奏でていたらしい。ただし、この一弦琴は今日のものとは異なると言われる。
ヒジリと楠葉西忍
1374年、日本に一人の天竺人すなわちインド人が渡来した(ただし本当にインド人なのかどうか明らかでないらしい)が、この男はヒジリ(聖)という名で呼ばれることになった。彼は最初は京都の相国寺に住んで時の将軍足利義満に側仕え、後には京都の三条烏丸の当たりに住んで、富裕な商人として名を知られるに至った。
このヒジリは、大阪東部の河内国楠葉に住む女との間にムスルという子供を作ったが、この子は、成人して天次を名乗り、京都を住まいに商業に従事した。ところが彼は、しだいに奈良興福寺の大乗院との関係を深めることとなり、大乗院の大僧正経覚の下で出家、楠葉西忍の名で興福寺付属の商人として活動することになる。
西忍は1432年と53年に遣明船に乗り込み貿易商として活躍したが、彼の貿易体験の述懐は、奈良興福寺の大乗院門跡である尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』に筆録されており、これは現在、当時の海外貿易を知るための重要な史料となっている。
なお西忍は初めの頃は天竺の姓を名乗っており、後に楠葉に姓を改めた。
以上の事例を見るに、裸形上人が開祖の一端を占める熊野は皇室との縁も深い日本屈指の聖地ですし、法道仙人は天皇に招かれ功績を挙げており、菩提僊那が導師を努めた大仏開眼は『続日本紀』が「仏法東帰より斎会の儀未だ嘗て此の如く之盛なるは有らざるなり」と讃える日本精神史上の国家的壮挙、ヒジリが仕えた足利義満は時の最高政治軍事権力者で、西忍の参加した遣明船は室町幕府の国家的経済事業ですから、インド人は前近代の日本において、国家中枢の近くでかなり重要な役割を果たしたと言い張ることも、どうにか可能なような、さすがに無理があるような、微妙な感じですねえ…。
まあ、日印友好を図る際にこれらの事実を美化して、日本人とインド人の素晴らしい交流史と持ち上げてみせるくらいなら、許されそうな感じです。
というわけで、日印友好の重要性が政治的にも経済的に認識されている今日この頃ですから、あえて言い切ってしまいましょう。
インドと日本は古来より深い交流の歴史を築いており、その交流が時に途絶えることがあっても、そのたびに日印の友好は力強く復活を遂げてきており、この力強い日印友好関係は、今後の世界の自由と繁栄の為に、必ずや大きく貢献すると確信することができます。
参考資料
中村元著『古代インド』 講談社学術文庫
K・M・パニッカル著『インドの歴史』 東洋経済新報社
久保田展弘『日本の聖地』 講談社学術文庫
青木和夫著『日本の歴史 3 奈良の都』 中央公論社
永原慶二著『日本の歴史 10 下克上の時代』 中央公論社
田中義成著『足利時代史』 講談社学術文庫
『国史大系第二巻 続日本紀』 経済雑誌社
『国史大系第三巻 日本後紀 続日本後紀 日本文徳天皇実録』 経済雑誌社
『国史大系第十四巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書』 経済雑誌社
『スーパー・ニッポニカ Professional for Windows Ver.1.0』 小学館
『世界大百科事典 第2版』 平凡社
関連記事(2009年5月15日新設)
古代インドの同盟術 ~西洋古代の蛮勇との対比において~ この世の戦場では金は実弾
「引きこもりニート列伝その35 ゴータマ・シッダールタ」補足―悟りと異性の好みと―
男のしるし、皇統の危機
れきけん・とらっしゅばすけっと/京都大学歴史研究会関連発表
自殺と往生(熊野について記述あり)
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/oujo.html
足利義満
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html
古代インドにおけるヒンドゥーイズムの展開
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1997/970718.html
遣唐使~その歴史的経緯と役割~
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2003/030418.html
そして彼は、その日本語版の序文を記した中で、「インドと日本との直接的な接触が復活しはじめたのも、このころでした。アビネンドラナート・タゴールといえばインドの新しい絵画派の父といっていいひとですが、かれが日本美術の伝統の影響をうけた〔岡倉天心の渡印などが契機となっている〕ことはよく知られております。ラーシュ・ベハーリー・ボース、ラーラー・ラージパット・ラーイその他のような政治指導者は、インドの民族運動と日本の政治指導者との最初の接触を確立いたしました。またアジア統一の意識も、岡倉天心の「アジアは一なり」という感動的なことばによってはじめて表明され、これは若い世代のアジア人思想家たちに大きな影響をあたえました。最近の戦争中に、スバース・チャンドラ・ボースが日本政府とのあいだに行った協力も、インドと日本とをより緊密に結びつけるのに役立った要因であります。」(パニッカル『インドの歴史』 東洋経済新報社)と述べているのですが、文化から政治軍事にまで及ぶ近代のこの重大な交流関係を「復活」と呼ぶだけの接触が、それより過去の日印間には本当に存在したのでしょうか。
今回は、それを確かめるため前近代日本とインド人の直接の接触の例を探してみました。
とはいえ、引きこもり鎖国気質の上、グローバル化が叫ばれる現代においてさえ「アジア」の語でせいぜい中国までの至近の特定数カ国しか思い浮かべることのできない人間が溢れかえる視野の狭い国、日本。そんな日本の歴史上に遠国インドとの直接接触など、見つけることができるのか不安だったわけですが、それでもどうにかインド人が日本に渡来して活動している姿を史上に発見することが出来ました。
というわけで以下に、前近代日本に到来したあるいは到来したとされるインド人を紹介することにしましょう。
裸形上人
伝説によれば、仁徳天皇(4または5世紀)の時代に熊野に漂着したインド人仏僧で、同地の那智の滝で修行して観世音菩薩を感得、庵を結んだと言われる。この庵は、最澄、空海、円珍らの高僧が次々に参籠したほか皇室にも厚く信仰されて西国三十三所第一番札所となる那智山青岸渡寺の起源とされており、彼は霊場の集う聖地熊野の開祖の一人に当たる。彼をジャイナ教僧とする説もある。
法道仙人
伝説上の人物で、神通力を身につけたインド僧。紫雲に乗って日本に到来、兵庫南西部の播磨国法華山に下り立ったとされる。649年に孝徳天皇の病を治療したことで、勅令を得て、650年、法華山に一乗寺を開設したとされる。この他、646年に神戸の摩耶山忉利天上寺を開設したとされるなど、播磨、但馬、丹波、摂津といった近畿地方諸国などで多くの寺院を開いたことにされている。また645年、大阪の伝法地区に仏法を伝える草庵を建てたとされ、伝法の地名の由来となっている。
これら二人の伝説は、本当に古代の実話を伝えているのか怪しく、信憑性はあまり高いとは言えなさそうですが、古代にインド人が渡日した話は、伝説上のみならず歴史上にも見ることができ、それほど突飛な事態でもないのであって、伝説の背後に、古代の早い時期に近畿地方にインド僧が到来し活動していた可能性くらいは、見出しても良いような気がします。
というか、そうでもしないと今回の記事の趣旨に合わなくなって、ネタが減ってしまうので、とりあえず、そういうことにしておいて下さい。
菩提僊那(菩提仙那)
菩提僊那は南インド出身の僧で、中国に渡った後、日本の遣唐使多治比広成の要請を受け、来日を決意、736年に九州の太宰府に到着した。
彼は奈良の大安寺に住んで『華厳経』の読経や呪術を行ったほか、後進の教育を行って日本僧のサンスクリット語知識の習得に貢献した。
751年には彼は最上位の僧官である僧正となり、インドの司祭階級であるバラモンの生まれであったため、俗に婆羅門僧正と呼ばれた。
752年の東大寺大仏の開眼供養において彼は導師となり、大仏開眼の筆を取った。
なお菩提僊那はサンスクリット名ボディセーナ(Bodhisena)の音写である。
三河に到来した天竺人
『日本後紀』によれば、799年、愛知東部の三河国に出身地不明の外国人が小船で漂着、この者は中国語を習得した後、天竺人すなわちインド人を名乗った。このインド人は日本に初めてワタの種子をもたらし、その結果、9世紀には西日本各地で盛んにワタ栽培が行われることになった。ただ、その後ワタ栽培は不作で衰退、三河などごく一部で細々と栽培されるのみとなった。余談ながら、日本文化にワタが定着するのは16世紀に中国から種子を導入して以降である。
またこのインド人は一弦琴を日本にもたらした。常に一弦琴を携帯して哀楚な調べを奏でていたらしい。ただし、この一弦琴は今日のものとは異なると言われる。
ヒジリと楠葉西忍
1374年、日本に一人の天竺人すなわちインド人が渡来した(ただし本当にインド人なのかどうか明らかでないらしい)が、この男はヒジリ(聖)という名で呼ばれることになった。彼は最初は京都の相国寺に住んで時の将軍足利義満に側仕え、後には京都の三条烏丸の当たりに住んで、富裕な商人として名を知られるに至った。
このヒジリは、大阪東部の河内国楠葉に住む女との間にムスルという子供を作ったが、この子は、成人して天次を名乗り、京都を住まいに商業に従事した。ところが彼は、しだいに奈良興福寺の大乗院との関係を深めることとなり、大乗院の大僧正経覚の下で出家、楠葉西忍の名で興福寺付属の商人として活動することになる。
西忍は1432年と53年に遣明船に乗り込み貿易商として活躍したが、彼の貿易体験の述懐は、奈良興福寺の大乗院門跡である尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』に筆録されており、これは現在、当時の海外貿易を知るための重要な史料となっている。
なお西忍は初めの頃は天竺の姓を名乗っており、後に楠葉に姓を改めた。
以上の事例を見るに、裸形上人が開祖の一端を占める熊野は皇室との縁も深い日本屈指の聖地ですし、法道仙人は天皇に招かれ功績を挙げており、菩提僊那が導師を努めた大仏開眼は『続日本紀』が「仏法東帰より斎会の儀未だ嘗て此の如く之盛なるは有らざるなり」と讃える日本精神史上の国家的壮挙、ヒジリが仕えた足利義満は時の最高政治軍事権力者で、西忍の参加した遣明船は室町幕府の国家的経済事業ですから、インド人は前近代の日本において、国家中枢の近くでかなり重要な役割を果たしたと言い張ることも、どうにか可能なような、さすがに無理があるような、微妙な感じですねえ…。
まあ、日印友好を図る際にこれらの事実を美化して、日本人とインド人の素晴らしい交流史と持ち上げてみせるくらいなら、許されそうな感じです。
というわけで、日印友好の重要性が政治的にも経済的に認識されている今日この頃ですから、あえて言い切ってしまいましょう。
インドと日本は古来より深い交流の歴史を築いており、その交流が時に途絶えることがあっても、そのたびに日印の友好は力強く復活を遂げてきており、この力強い日印友好関係は、今後の世界の自由と繁栄の為に、必ずや大きく貢献すると確信することができます。
参考資料
中村元著『古代インド』 講談社学術文庫
K・M・パニッカル著『インドの歴史』 東洋経済新報社
久保田展弘『日本の聖地』 講談社学術文庫
青木和夫著『日本の歴史 3 奈良の都』 中央公論社
永原慶二著『日本の歴史 10 下克上の時代』 中央公論社
田中義成著『足利時代史』 講談社学術文庫
『国史大系第二巻 続日本紀』 経済雑誌社
『国史大系第三巻 日本後紀 続日本後紀 日本文徳天皇実録』 経済雑誌社
『国史大系第十四巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書』 経済雑誌社
『スーパー・ニッポニカ Professional for Windows Ver.1.0』 小学館
『世界大百科事典 第2版』 平凡社
関連記事(2009年5月15日新設)
古代インドの同盟術 ~西洋古代の蛮勇との対比において~ この世の戦場では金は実弾
「引きこもりニート列伝その35 ゴータマ・シッダールタ」補足―悟りと異性の好みと―
男のしるし、皇統の危機
れきけん・とらっしゅばすけっと/京都大学歴史研究会関連発表
自殺と往生(熊野について記述あり)
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/oujo.html
足利義満
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html
古代インドにおけるヒンドゥーイズムの展開
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1997/970718.html
遣唐使~その歴史的経緯と役割~
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2003/030418.html
by trushbasket
| 2008-02-13 20:20
| My(山田昌弘)








