2008年 02月 23日
「音楽は人を殺れる!!」―独裁者を魅了した魔性の「楽劇」―
|
「デトロイト・メタル・シティ」というギャグ漫画が人気のようですね。若杉公徳先生が「ヤングアニマル」にて連載中の作品で、インディーズ音楽界で人気を博している悪魔系デスメタルバンド「デトロイト・メタル・シティ」(略称DMC)でギター・メインボーカルを務める「クラウザーさん」ことヨハネ・クラウザーⅡ世が主人公です。彼はこの世の全てを犯す異常性欲者だとか幼い頃に両親を殺害し犯したとかいった伝説の持主で、デビュー曲「SATSUGAI」の歌詞ときたら「オレは地獄のテロリスト 昨日は母さん犯したぜ明日は父さんほってやる」「サツガイせよサツガイせよ」といった代物です。しかし、彼の正体は実は内気で普段は温厚な青年・根岸崇一。彼は異常性欲者どころか片思いの相手に告白も出来ず童貞で、両親も故郷で健在。オシャレなポップミュージックを好み、オシャレな音楽をやりたいと思っているようですがどうもそちらの才能には恵まれていないようです。そしてオシャレな音楽では認められないことや実生活での憤懣がルサンチマンとなって沸騰しDMCの悪魔系音楽に結実しており、「DMC信者」と呼ばれる熱狂的ファンから強い支持を獲得しています。
…実際の音楽家にも似たような人は結構いそうですね。
さて「デトロイト・メタル・シティ」物語中で、闇で活躍する凶悪なメタルバンドを世界各国から招いて対戦させ世界一を決める「サタニック・エンペラー」が開催され、DMCもそれに参加。そのクラマックスが炎の中で鬼気迫る姿で壮絶な歌を熱唱するクラウザーさん、そして大火災から逃げ惑う観衆という場面であり、「音楽が世界を壊し」「世界に狂乱を巻き起こしている」(「デトロイト・メタル・シティ」第四巻P137)ようなその光景は、「音楽は人を殺れる!!」(同P139)と評されるに至っています。この「炎の中で世界が崩壊する光景」と言えば、リヒャルト・ワーグナー作曲「ニーベルングの指輪」の第三夜「神々の黄昏」が連想されます。「ニーベルングの指輪」は「序夜」から「第三夜」までの四夜にまたがり、古代ゲルマン神話を題材に神や英雄たちによる愛と戦いの末に世界が崩壊し神代が終わるまでを描いた超大作。と言う訳で、今回はワーグナーについてです。
まずはワーグナーの生涯を概観しましょう。ワーグナーはライプチヒに生まれ、「魔弾の射手」で知られるウェーバーの影響を受けて音楽を志しました。しかし中々認められず各地を転々とし、パリで「さまよえるオランダ人」などを作曲しますが評価される事はありませんでした。この時は売れなかったばかりか上演契約時や家主と借家の契約をする時に騙されて負債を作る羽目にも陥っており、後に「フランス語をしゃべる国は信用できない」と友人に語るほどフランスへ怨念・不信感を抱くようになったようです。また、「わが祖国ドイツへの憧憬を覚醒させたのは、パリにおける祖国喪失感であった」と述懐しているように、これまでは国際主義者であったのがこれを期としてドイツ民族主義に傾倒するようになりました。郷愁やフランスへの怨念がこうした思想へと導いたと言う事でしょうか。さて、ワーグナーはドイツに帰ってから「リエンツィ」「さまよえるオランダ人」で好評を得て、更に「タンホイザー」や「ローエングリン」を作曲して評価を高めています。しかし1849年に革命家バクーニンと共にドイツ三月革命に参加して失敗し死刑宣告され、スイスに逃れる羽目になっています。この時期、前述の大作「ニーベルングの指輪」作曲に取り掛かったり「トリスタンとイゾルデ」を完成。何でも、この時期にパトロンの妻と不倫関係に陥りそれが「トリスタンとイゾルデ」制作の上で影響したそうです。何をやってるやら。その後、熱狂的なワーグナーファンであるバイエルン国王ルードヴィッヒ2世からも招待を受けたりもしています。また、この時期に指揮者ビューローの妻でリストの娘であるコジマと不倫関係に陥り最終的には結婚しています。…またぞろ不倫ですか。さて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」や「ニーベルングの指輪」を完成させたワーグナーは、自らの作品専用の劇場・バイロイト祝祭劇場を建設。死に至るまでワーグナーはこの劇場を重んじ、最後の作品「パルジファル」はバイロイト以外での上演を禁じていたそうです。没したのは1883年です。
ワーグナーのオペラ作品は「楽劇」と称され、聞くところによれば、従来のオペラ作品においては音楽はあくまでも個々の歌曲が作品要素の一つとして集まったという性格が強かったのに対し彼の作品ではオーケストラ音楽によって全体を一つの曲と言うべき繋がった存在にしたんだそうです。作品世界の特徴としては男女の愛を重厚にロマンチックに描いた作品が多い事が挙げられ、例えば「さまよえるオランダ人」は航海中に神を呪ったため永遠にさまよい続ける運命の男が乙女の純粋な愛によって天国に救われる話ですし、「タンホイザー」は官能的な美女に溺れ堕落した騎士が恋人である清純な乙女の犠牲によって魂が救済される話です。「トリスタンとイゾルデ」は不倫の愛の末に死を選ぶ男女の話で、「ローエングリン」は窮地にある乙女を救いに参上した騎士の物語。伝説や神話に依拠した壮大でロマンチックな作品が多い事が分り、ロマン主義的で民族主義的な一面が垣間見えます。これについて、トーマス・マンは「ワーグナーを通じて語られているのは民族の魂である。彼は、その口にすぎない」と評しています。
ワーグナーは文章家でもあり、著作から垣間見える思想はドイツ民族主義、反ユダヤ主義、反理性主義、反知性主義などからなっています。そして、それらを更に推し進めて階級・貧富の差を打破した民族国家への期待、その理想を実現するための民衆による義勇軍や「半神」的な英雄(彼は「バルバロッサ」などと呼んでいました)への渇望に至ったとも言われます。こうした常軌を逸したともいえる思想からはワーグナーが現実世界への強い反発を抱きそれを精神的支柱にしていた事が伺えるのであり、フランスでオシャレ音楽家として成功できなかったルサンチマンが自負心の強いワーグナーにとって上述したドイツナショナリズム溢れた傑作を残す原動力になったと言えます。このようなワーグナー作品に熱狂する人は全世界レベルで数多く、バイロイトへ趣く事を「巡礼」と呼ぶ例も見られるなど宗教信者に近いものがあったようです。
さて、次にワーグナー「信者」の極端な一例としてワーグナーの作品・思想に心酔した結果、歴史に大きな影響を与えた「とある人物」について言及する事にします。その人物の名はアドルフ・ヒトラー。言うまでもなく第二次世界大戦を引き起こし、更にはユダヤ民族絶滅を企図したとして悪名高いドイツの独裁者です。
ヒトラーが少年時代にワーグナーの作品に魅了されしばしば劇場に通っていた事は有名で、本人も「我が闘争」で以下のように回想しています。
本人の申告だけでなく、ヒトラーの側近であるゲッベルスもヒトラーが「マイスタージンガー」を百回以上見たと証言していますし、青年時代の知人もまた若きヒトラーが部屋の中を行ったり来たりしながら「ローエングリン」の「白鳥の歌」を歌っていたと回想していますから、ヒトラーが若い頃からワーグナーの作品を非常に愛好していたのは間違いないでしょう。
ヒトラーのワーグナーへの深い思い入れはその作品を鑑賞するだけではとどまりませんでした。まだ野党政治家に過ぎなかった1923年にヒトラーはバイロイトを訪れワーグナー家によって好意的に迎えられています。それ以降、ヒトラーはワーグナー夫人コジマや長男ジークフリートの妻ヴィニフリートと親交を結び、ワーグナーの孫達とも親しい関係にありました。中でもヴィニフリートとは親密で、周囲が二人は結婚するのではないかと見ていたほどだといいます。また、ワーグナーの娘婿である哲学者チェンバレンはアーリア民族の純血こそが偉大な性格を生むと唱えていた人物ですが、ヒトラーの才能に惚れ込みヒトラーも彼に私淑する間柄でした。もっとも、ワーグナー家の全員がヒトラーとの交際に同意していたわけではないようですが。
更にワーグナーへの傾倒は政治的にも利用されました。政権が成立した1933年にナチズム公認の芸術的象徴として「マイスタージンガー」の祝賀上演をベルリンに命じていますし、翌1934年にはラジオ全国放送でバイロイトから「ニーベルングの指輪」四部作を中継するという大型企画が実行されています。また、前述したワーグナー自身のドイツ民族主義・反ユダヤ的傾向・階級打破思想もあって第一次大戦後にはバイロイト音楽祭が急進的国家主義者の象徴となっており、ヒトラーもこれと自身の思想とを結びつけたようです。中でも理想を実現する「バルバロッサ」願望はヒトラーの権力掌握を理論武装するのに力があったことでしょう。こうしたヒトラーとワーグナーの思想との関係の深さから、中にはヒトラーはワーグナーの理想を追い彼が描いたゲルマン神話世界を再現しようとしたのだと主張する論者すら存在しますが、流石にそれは言いすぎでしょう。まあ、ヒトラーが世界戦略を進める中で自らをワーグナー楽劇の英雄になぞらえた事位はあったかも知れませんが。
さて結果としてヒトラーは敗北し、大戦において世界各地が廃墟と化しました。前述した説を考えると、ヒトラーが自らの破滅によって現実世界で「神々の黄昏」のような世界崩壊を現出する結果になったのは何とも皮肉です。
以上から分るように、ワーグナーはフランスでオシャレ音楽家になれなかったルサンチマンから出発した、ヒトラー総統お墨付きの常軌を逸したドイツ民族主義な音楽家です。オシャレなポップ音楽で認められなかったルサンチマンを源泉として地獄系音楽の傑作を次々に生み出しているクラウザーさんに似ていますね。そういえば、ヒトラーもオシャレ芸術的画家として認められなかったルサンチマンを原動力に独裁者になった人物でした。オシャレでモテな流行芸術から疎外された人間の怨念は、時として大きな力となるのですね。
【参考文献】
ワーグナーと現代 トーマス・マン 小塚敏夫訳 みすず書房
ワーグナー 堀内修 講談社現代新書
作曲家別名曲解説ライブラリー②ワーグナー 音楽之友社
傑作オペラはこうしてできた ミルトン・ブレナー著 立石光子訳 白水社
読んで観てわかるオペラ鑑賞ガイド 小学館
オペラと歌舞伎 永竹吉幸 丸善ライブラリー
アドルフ・ヒトラー 村瀬興雄著 中公新書
劇画ヒットラー 水木しげる ちくま文庫
我が闘争(上)完訳 アドルフ・ヒトラー著 平野一郎・将積茂訳 角川文庫
ワーグナーのヒトラー ヨアヒム・ケーラー著 橘正樹訳 三交社
第三帝国の音楽 エリック・リーヴィー著 望田幸雄監訳 田野大輔・中岡俊介訳 名古屋大学出版会
エンカルタ百科事典 マイクロソフト
デトロイト・メタル・シティ 若杉公徳 白水社
関連記事(2009年5月15日新設)
諸君 私は戦争が好きだ ~高らかに謳う文学的戦闘者エルンスト・ユンガー紹介~
偉大なるダメ人間シリーズ番外その4 タカリ魔のヤンデレ内政王 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
「大陸土産は世界最強ォォーッ」―市民革命直前期の、とある文学―
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「西洋民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021108.html)
「西洋軍事史」(当ブログ内に移転しました)(http://trushnote.exblog.jp/14455214/)
「引きこもりニート列伝その11 ヒトラー」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet11.html)
「引きこもりニート列伝その29 ニーチェ」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet29.html)
ニーチェも(後に決別しましたが)ワーグナーと親交がありました。
ヒトラーについては
よろしければ、社会評論社『ダメ人間の世界史』
(「ヒトラー 趣味はお絵かき、ケーキが好物、シャイでデートもしたこと無い、意外とヘタレな悪の独裁者」収録)
もご参照ください。
(著作紹介2010年6月27日加筆)
関連サイト:
「デトロイト・メタル・シティ」(http://www.younganimal.com/dmc/)
公式サイトです。
「ファッキンガム宮殿~DETROIT METAL COPY~」(http://dmcopy.seesaa.net/)
「デトロイト・メタル・シティ」に登場する歌を「再現」した音源ページ。
「きまぐれつれづれらぷそでぃ」(http://www4.plala.or.jp/trillweb/)より
「交友リスト」(http://www4.plala.or.jp/trillweb/wagner_friends.htm)
「ワーグナー作品リスト」(http://www4.plala.or.jp/trillweb/wagner_rist.htm)
「ワーグナーの魔力」(http://www4.plala.or.jp/trillweb/wagner_music.htm)
「日本ワーグナー協会」(http://www.wagner-jp.org/)
「ヘブライの館2」(http://hexagon.inri.client.jp/index2.html)より
「ヒトラーの『超人思想』の謎」(http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha100.html)
「ran an den Feind!」(http://www.snow-cream.com/ranandenfeind/)
ドイツ軍歌サイトです。
リンクを変更(2010年12月8日)
…実際の音楽家にも似たような人は結構いそうですね。
さて「デトロイト・メタル・シティ」物語中で、闇で活躍する凶悪なメタルバンドを世界各国から招いて対戦させ世界一を決める「サタニック・エンペラー」が開催され、DMCもそれに参加。そのクラマックスが炎の中で鬼気迫る姿で壮絶な歌を熱唱するクラウザーさん、そして大火災から逃げ惑う観衆という場面であり、「音楽が世界を壊し」「世界に狂乱を巻き起こしている」(「デトロイト・メタル・シティ」第四巻P137)ようなその光景は、「音楽は人を殺れる!!」(同P139)と評されるに至っています。この「炎の中で世界が崩壊する光景」と言えば、リヒャルト・ワーグナー作曲「ニーベルングの指輪」の第三夜「神々の黄昏」が連想されます。「ニーベルングの指輪」は「序夜」から「第三夜」までの四夜にまたがり、古代ゲルマン神話を題材に神や英雄たちによる愛と戦いの末に世界が崩壊し神代が終わるまでを描いた超大作。と言う訳で、今回はワーグナーについてです。
まずはワーグナーの生涯を概観しましょう。ワーグナーはライプチヒに生まれ、「魔弾の射手」で知られるウェーバーの影響を受けて音楽を志しました。しかし中々認められず各地を転々とし、パリで「さまよえるオランダ人」などを作曲しますが評価される事はありませんでした。この時は売れなかったばかりか上演契約時や家主と借家の契約をする時に騙されて負債を作る羽目にも陥っており、後に「フランス語をしゃべる国は信用できない」と友人に語るほどフランスへ怨念・不信感を抱くようになったようです。また、「わが祖国ドイツへの憧憬を覚醒させたのは、パリにおける祖国喪失感であった」と述懐しているように、これまでは国際主義者であったのがこれを期としてドイツ民族主義に傾倒するようになりました。郷愁やフランスへの怨念がこうした思想へと導いたと言う事でしょうか。さて、ワーグナーはドイツに帰ってから「リエンツィ」「さまよえるオランダ人」で好評を得て、更に「タンホイザー」や「ローエングリン」を作曲して評価を高めています。しかし1849年に革命家バクーニンと共にドイツ三月革命に参加して失敗し死刑宣告され、スイスに逃れる羽目になっています。この時期、前述の大作「ニーベルングの指輪」作曲に取り掛かったり「トリスタンとイゾルデ」を完成。何でも、この時期にパトロンの妻と不倫関係に陥りそれが「トリスタンとイゾルデ」制作の上で影響したそうです。何をやってるやら。その後、熱狂的なワーグナーファンであるバイエルン国王ルードヴィッヒ2世からも招待を受けたりもしています。また、この時期に指揮者ビューローの妻でリストの娘であるコジマと不倫関係に陥り最終的には結婚しています。…またぞろ不倫ですか。さて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」や「ニーベルングの指輪」を完成させたワーグナーは、自らの作品専用の劇場・バイロイト祝祭劇場を建設。死に至るまでワーグナーはこの劇場を重んじ、最後の作品「パルジファル」はバイロイト以外での上演を禁じていたそうです。没したのは1883年です。
ワーグナーのオペラ作品は「楽劇」と称され、聞くところによれば、従来のオペラ作品においては音楽はあくまでも個々の歌曲が作品要素の一つとして集まったという性格が強かったのに対し彼の作品ではオーケストラ音楽によって全体を一つの曲と言うべき繋がった存在にしたんだそうです。作品世界の特徴としては男女の愛を重厚にロマンチックに描いた作品が多い事が挙げられ、例えば「さまよえるオランダ人」は航海中に神を呪ったため永遠にさまよい続ける運命の男が乙女の純粋な愛によって天国に救われる話ですし、「タンホイザー」は官能的な美女に溺れ堕落した騎士が恋人である清純な乙女の犠牲によって魂が救済される話です。「トリスタンとイゾルデ」は不倫の愛の末に死を選ぶ男女の話で、「ローエングリン」は窮地にある乙女を救いに参上した騎士の物語。伝説や神話に依拠した壮大でロマンチックな作品が多い事が分り、ロマン主義的で民族主義的な一面が垣間見えます。これについて、トーマス・マンは「ワーグナーを通じて語られているのは民族の魂である。彼は、その口にすぎない」と評しています。
ワーグナーは文章家でもあり、著作から垣間見える思想はドイツ民族主義、反ユダヤ主義、反理性主義、反知性主義などからなっています。そして、それらを更に推し進めて階級・貧富の差を打破した民族国家への期待、その理想を実現するための民衆による義勇軍や「半神」的な英雄(彼は「バルバロッサ」などと呼んでいました)への渇望に至ったとも言われます。こうした常軌を逸したともいえる思想からはワーグナーが現実世界への強い反発を抱きそれを精神的支柱にしていた事が伺えるのであり、フランスでオシャレ音楽家として成功できなかったルサンチマンが自負心の強いワーグナーにとって上述したドイツナショナリズム溢れた傑作を残す原動力になったと言えます。このようなワーグナー作品に熱狂する人は全世界レベルで数多く、バイロイトへ趣く事を「巡礼」と呼ぶ例も見られるなど宗教信者に近いものがあったようです。
さて、次にワーグナー「信者」の極端な一例としてワーグナーの作品・思想に心酔した結果、歴史に大きな影響を与えた「とある人物」について言及する事にします。その人物の名はアドルフ・ヒトラー。言うまでもなく第二次世界大戦を引き起こし、更にはユダヤ民族絶滅を企図したとして悪名高いドイツの独裁者です。
ヒトラーが少年時代にワーグナーの作品に魅了されしばしば劇場に通っていた事は有名で、本人も「我が闘争」で以下のように回想しています。
「十二歳のときにわたしははじめて『ヴィルヘルム・テル』を見た。それから二、三か月後に『ローエングリーン』を見たのが、わたしがオペラを見た最初である。わたしは一度でひきつけられた。バイロイトの巨匠に対する若者の感激は、とどまるところを知らなかった。なんどもわたしはかれの作品にひきつけられた。そして地方での上演がひかえ目であったため、その後印象を高められる可能性があったことは、今は特に幸運だったと思っている。」(「我が闘争」(上) 角川文庫 P39)
本人の申告だけでなく、ヒトラーの側近であるゲッベルスもヒトラーが「マイスタージンガー」を百回以上見たと証言していますし、青年時代の知人もまた若きヒトラーが部屋の中を行ったり来たりしながら「ローエングリン」の「白鳥の歌」を歌っていたと回想していますから、ヒトラーが若い頃からワーグナーの作品を非常に愛好していたのは間違いないでしょう。
ヒトラーのワーグナーへの深い思い入れはその作品を鑑賞するだけではとどまりませんでした。まだ野党政治家に過ぎなかった1923年にヒトラーはバイロイトを訪れワーグナー家によって好意的に迎えられています。それ以降、ヒトラーはワーグナー夫人コジマや長男ジークフリートの妻ヴィニフリートと親交を結び、ワーグナーの孫達とも親しい関係にありました。中でもヴィニフリートとは親密で、周囲が二人は結婚するのではないかと見ていたほどだといいます。また、ワーグナーの娘婿である哲学者チェンバレンはアーリア民族の純血こそが偉大な性格を生むと唱えていた人物ですが、ヒトラーの才能に惚れ込みヒトラーも彼に私淑する間柄でした。もっとも、ワーグナー家の全員がヒトラーとの交際に同意していたわけではないようですが。
更にワーグナーへの傾倒は政治的にも利用されました。政権が成立した1933年にナチズム公認の芸術的象徴として「マイスタージンガー」の祝賀上演をベルリンに命じていますし、翌1934年にはラジオ全国放送でバイロイトから「ニーベルングの指輪」四部作を中継するという大型企画が実行されています。また、前述したワーグナー自身のドイツ民族主義・反ユダヤ的傾向・階級打破思想もあって第一次大戦後にはバイロイト音楽祭が急進的国家主義者の象徴となっており、ヒトラーもこれと自身の思想とを結びつけたようです。中でも理想を実現する「バルバロッサ」願望はヒトラーの権力掌握を理論武装するのに力があったことでしょう。こうしたヒトラーとワーグナーの思想との関係の深さから、中にはヒトラーはワーグナーの理想を追い彼が描いたゲルマン神話世界を再現しようとしたのだと主張する論者すら存在しますが、流石にそれは言いすぎでしょう。まあ、ヒトラーが世界戦略を進める中で自らをワーグナー楽劇の英雄になぞらえた事位はあったかも知れませんが。
さて結果としてヒトラーは敗北し、大戦において世界各地が廃墟と化しました。前述した説を考えると、ヒトラーが自らの破滅によって現実世界で「神々の黄昏」のような世界崩壊を現出する結果になったのは何とも皮肉です。
以上から分るように、ワーグナーはフランスでオシャレ音楽家になれなかったルサンチマンから出発した、ヒトラー総統お墨付きの常軌を逸したドイツ民族主義な音楽家です。オシャレなポップ音楽で認められなかったルサンチマンを源泉として地獄系音楽の傑作を次々に生み出しているクラウザーさんに似ていますね。そういえば、ヒトラーもオシャレ芸術的画家として認められなかったルサンチマンを原動力に独裁者になった人物でした。オシャレでモテな流行芸術から疎外された人間の怨念は、時として大きな力となるのですね。
【参考文献】
ワーグナーと現代 トーマス・マン 小塚敏夫訳 みすず書房
ワーグナー 堀内修 講談社現代新書
作曲家別名曲解説ライブラリー②ワーグナー 音楽之友社
傑作オペラはこうしてできた ミルトン・ブレナー著 立石光子訳 白水社
読んで観てわかるオペラ鑑賞ガイド 小学館
オペラと歌舞伎 永竹吉幸 丸善ライブラリー
アドルフ・ヒトラー 村瀬興雄著 中公新書
劇画ヒットラー 水木しげる ちくま文庫
我が闘争(上)完訳 アドルフ・ヒトラー著 平野一郎・将積茂訳 角川文庫
ワーグナーのヒトラー ヨアヒム・ケーラー著 橘正樹訳 三交社
第三帝国の音楽 エリック・リーヴィー著 望田幸雄監訳 田野大輔・中岡俊介訳 名古屋大学出版会
エンカルタ百科事典 マイクロソフト
デトロイト・メタル・シティ 若杉公徳 白水社
関連記事(2009年5月15日新設)
諸君 私は戦争が好きだ ~高らかに謳う文学的戦闘者エルンスト・ユンガー紹介~
偉大なるダメ人間シリーズ番外その4 タカリ魔のヤンデレ内政王 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
「大陸土産は世界最強ォォーッ」―市民革命直前期の、とある文学―
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「西洋民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021108.html)
「西洋軍事史」(当ブログ内に移転しました)(http://trushnote.exblog.jp/14455214/)
「引きこもりニート列伝その11 ヒトラー」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet11.html)
「引きこもりニート列伝その29 ニーチェ」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet29.html)
ニーチェも(後に決別しましたが)ワーグナーと親交がありました。
ヒトラーについては
よろしければ、社会評論社『ダメ人間の世界史』
(「ヒトラー 趣味はお絵かき、ケーキが好物、シャイでデートもしたこと無い、意外とヘタレな悪の独裁者」収録)
もご参照ください。
(著作紹介2010年6月27日加筆)
関連サイト:
「デトロイト・メタル・シティ」(http://www.younganimal.com/dmc/)
公式サイトです。
「ファッキンガム宮殿~DETROIT METAL COPY~」(http://dmcopy.seesaa.net/)
「デトロイト・メタル・シティ」に登場する歌を「再現」した音源ページ。
「きまぐれつれづれらぷそでぃ」(http://www4.plala.or.jp/trillweb/)より
「交友リスト」(http://www4.plala.or.jp/trillweb/wagner_friends.htm)
「ワーグナー作品リスト」(http://www4.plala.or.jp/trillweb/wagner_rist.htm)
「ワーグナーの魔力」(http://www4.plala.or.jp/trillweb/wagner_music.htm)
「日本ワーグナー協会」(http://www.wagner-jp.org/)
「ヘブライの館2」(http://hexagon.inri.client.jp/index2.html)より
「ヒトラーの『超人思想』の謎」(http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha100.html)
「ran an den Feind!」(http://www.snow-cream.com/ranandenfeind/)
ドイツ軍歌サイトです。
リンクを変更(2010年12月8日)
by trushbasket
| 2008-02-23 19:10
| NF








