2008年 03月 08日
ああ人生に涙あり?―東西の回国伝説―
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民衆は昔から英雄や王様が好きです。「英雄史観は民衆不在でよくない」とか言われたりもしますが、それでも民衆は英雄や偉大な王様が好きなようで、彼等の物語を自らの夢を乗せて語り継いできました。これについて、社会学的な視点から歴史学を描いた西洋史の碩学ピーター・バークは、「国王たちは相当量の民衆の善意という財産を相続してきており、国王たちは、そうでないことが証明されるまでは、慈悲深い、さらには英雄的であると考えられてきた。」(「ヨーロッパの民衆文化」P206)と述べています。そして、彼によればそうした王者の類型は数々の勝利に彩られた征服者か公平な統治者に分けられるようです。その内で後者に関する伝説には、ある特徴的な種類のものがありました。何でも、「ときどき繰り返して生じた支配者の物語は、支配者がお忍びで国内を歩き回った事を告げている。ある人は『千一夜物語』の中で語られているバグダッドのカリフの物語にしたがって、これを『ハルン・アル・ラシッド』型の話と呼んでいる。」(同P203)というのです。こうした逸話は、その王者が「公平が守られるようにしようと、ないしは一般民衆の生活を経験しようと試みる人物」(同P203)である事を示すものだと考えられています。
では、早速西洋史に登場する王者からそうした逸話の残る人物を挙げていく事にしましょう。イングランドの民謡であるバラッドでは、エドワード王がなめし皮業者と、ヘンリー王が粉屋と、ウィリアム王が森番と、リチャード王が盗賊ロビン・フッドと出会ったという話が描かれています。もっとも、それぞれの王が何世なのかは不明ですが。更に、十七世紀の「国王と靴直しの物語」は「夜おそく変装して旧市内を歩き、巡査や夜警が彼らの義務をどのように守っているかを見るのが、国王ヘンリー八世の習慣であった」と伝えています。また、スコットランドにも国王ジェームズ五世が鋳掛け屋・乞食・「バレンザイトの自作農」に変装して歩いたという伝承が残されているそうです。ロシアでも、イワン雷帝が変装して盗賊に加わって下々の様子を見る事があったと伝えられます。その際、「あるとき、自分は国庫に通じる道を知っているから、そこを襲おう、と彼らに勧めた。しかし仲間のひとりは拳骨を振り上げ、この野郎、皇帝から略奪しようというのか、皇帝はわしらにとっても親切な人だ、といって、顔を力一杯ぶんなぐった。そして皇帝から莫大な金を騙し取っている金持の貴族を略奪しに行こうや、といった。このことでイヴァンはたいへん喜んだ。」(同P204)という話が残されています。後のピョートル大帝にも同様な逸話が残されているそうです。
また、先にも少し出てきましたが、イスラーム世界においてもそうした逸話の残る君主が存在しています。その名はハールーン・アッラシード、アッバース朝の全盛期を現出したカリフ(教主)です。「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)」には、彼が宰相ジヤファルや宦官マスルールという側近二人を連れてお忍びで町を歩き回り様々な出来事に遭遇する話がいくつか掲載されています。この話から、「あの」有名時代劇を連想する方は多いと思います。
という訳で、いよいよ日本の話です。日本史におけるこの手の話題と言えば大概の方は、前述した「あの」有名時代劇こと「水戸黄門」の主人公である水戸藩主徳川光圀、「暴れん坊将軍」こと徳川政権第八代将軍徳川吉宗を連想するのではないでしょうか。日本史に詳しい方なら、更に鎌倉政権の第五代執権北条時頼の名をも思い浮かべる事でしょう。という訳で以下では彼らについて詳細を述べていこうかと思います。
まずは徳川光圀から。光圀は日本史の編纂に力を注ぎ、そのために各地に調査員を派遣し大船を作るなど多額の費用を費やして文化事業を行ないました。また領内の産業育成にも力を注ぎ同時代から既に名君と評されていたと言われています。しかし、一方でこの時期に先代以来の財政赤字が累積し年貢率は彼の時代に最大であったとも言われており単純に手放しで賞賛する事は出来ないようです。
さて、光圀の回国伝説は十八世紀後半の宝暦年間、講談師の東林亭東宝の手によって「水戸黄門記」が著されたのが最初です。光圀の伝記を脚色し、徳川政権内部の内紛や大名家のお家騒動において政道を正したり隠退後に各地を巡って民情視察をするという内容となっています。そのうちで諸国を巡る話は当時流行していた滑稽本「東海道中膝栗毛」の影響を受けたとも言われているようです。そして明治以降になると「水戸黄門」物語は更に広い人気を集めるようになり、明治十年には河竹黙阿弥が「黄門記童講釈」を著して九代目市川団十郎が主演しました。また明治三十三年(1900)には荒川吉五郎「水戸黄門記」上下二巻、明治三十六年(1903)には山内文三郎「今古実録水戸黄門仁徳録」が刊行されています。講釈師によりこれらの物語は広まり、明治二十年には光圀が助さん・格さんを従えて旅をするという今の形式の原型ができたようです。その後も明治末から大正初期には立川文庫から加藤玉秀「諸国漫遊水戸黄門」や雪花山人「奇談水戸黄門関西漫遊記」「水戸黄門九州漫遊記」「水戸黄門東海道漫遊記」などが出版され、大正文庫からも「水戸黄門中国漫遊記」「水戸黄門九州四国漫遊記」が出ています。更に大正四年(1915)には映画「水戸黄門記」(日活、牧野省三監督)が封切られ映像化を果たしています。戦後になるとテレビ番組として長年にわたり人気を博しているのは皆様御存知の通りです。
光圀が実際に経験した旅は江戸と水戸を往復する程度だったようですが、隠退後には領内を歩き回り善行者を賞したり便宜を図ったりしたのは事実のようです。ただ、現地の役人にとっては迷惑だったようで、しばしば衝突を起こしていたそうです。一方、彼が遊里に通っていたという噂もあり、それは民情を知るための微行(お忍び)であったのでないかと推測する向きもあります。なお、光圀が全国を回ったと言う伝承の謂れは、安積覚兵衛(「格さん」のモデル)や佐々介三郎(「助さん」のモデル)を中心として「大日本史」編纂を行なう際に史館員を全国的に派遣した事にあるようです。
徳川吉宗は、徳川将軍家の嫡流が断絶したため分家・紀州徳川家から将軍として迎え入れられました。そして徳川政権の財政再建に取り組み様々な改革をしたことで知られています。「暴れん坊将軍」の物語は戦後にテレビ放送が定着して長らくたってから初めて登場したもので、最初から娯楽作品として作り出されたフィクションですから回国伝説とは少し違うと言えます。もっとも、吉宗が「目安箱」を設置して民の声を聞こうと試みたり「お庭番」を設置して情報を集めたり、火事があったときには自ら屋根に上り火元を確認しようとしたり、鷹狩を好んでしばしば外出しその際に農家で休憩したりといった行動的で前例にとらわれない型破りな人物であった点がイメージの元になっているのではないかとは言えそうです。
そして、北条時頼です。時頼は三浦氏など北条氏の対抗馬となり得る有力氏族を角逐したり藤原氏出身の将軍を追放し皇族将軍を迎えるなどで北条氏の権力を固め、出家後も権力を握るなど北条氏嫡流にによる独裁体制の基礎を築いたとされています。その一方で引付衆を設置するなど訴訟制度を整備し、御家人の負担を軽くしたり庶民の税を減らしたりと民政にも心を配ったといわれています。
そうしたことからか早い段階から回国伝説が語られていたようで、足利時代の謡曲「鉢の木」はこのような話を伝えています。修行僧に変装した時頼が厳寒の頃に上野国佐野の貧しい家に泊まったところ、家の主人・佐野常世は時頼を精一杯もてなし暖を取らせるため愛蔵の松・梅・桜の鉢植えをも惜しげもなく火にくべ、「一族に領地を奪われ貧しい暮らしを余儀なくされているが、御家人としての心は忘れていない。一朝事あれば痩せ馬にまたがってでも鎌倉に馳せ参じる。」と語りました。その後、鎌倉に戻った時頼は御家人たちに緊急動員をかけます。すると、言葉どおりに佐野常世は駆けつけたため、それを賞した時頼は正体を明かしあの時の松梅桜に因んで松井田荘・梅田荘・桜井荘を与えたと言う事です。また、「太平記」によれば旅の僧に身をやつした時頼が摂津難波の貧しい家に宿を乞い、そこの主人であった老尼は彼を快く迎えます。その晩に尼から夫や子に先立たれ地頭に所領を奪われた身の上を聞いて同情した時頼は、後にその地頭から所領を没収して老尼に与えたそうです。また、南北朝期に書かれた史書「増鏡」からも同様な逸話があった事が分かります。
こうした時頼の回国伝説が史実かどうかについては、昔から議論があったようです。例えば三浦周行氏は「後世に行はれた一種の伝説」(「北条時頼の廻国説批評」)と一蹴している一方で八代国治氏は史実と考えていました。豊田武氏は「伝説となるには必ずそこに何らかの理由がある」として北条氏と東北の強い関わりに注目し「たしかに時頼が二、三の地方をまわったことはありうるであろう」(共に「英雄と伝説」)と述べています。坂本太郎氏もこれに近い考えで、「鎌倉時代史の研究に幾多の卓見を示した八代国治博士は、これらの疑惑説の取るに足りないことを論じ、『増鏡』の資料的価値から見て、これを事実と論断した。私もこれを一概に架空の物語と見なしてはなるまいと思う。」と述べ、「太平記」などで伝えられた逸話は疑わしいとしながらも「『増鏡』のいう程度の抽象的な事実は存在したとしてよかろう」(共に「史書を読む」中公文庫 P158)と結論付けています。幕末期の竹尾覚斎は「即事考」で実は虚構であり己が帰依した禅僧を回国させたのではないかと言っていますから、時頼自身の回国が虚構としても元になった事実はあると考える人は多いようです。実際、「北条九代記」異本には時頼・時宗・貞時の時代には「廻国使」が存在したとありますから時頼自身が回国しなくとも配下を同様の目的で諸国巡視させたのは事実と見てよさそうですね。
さて、多くの碩学たちが議論を重ねたこの問題は今日でも学者の興味を引いているようで、佐々木馨氏が「執権時頼と廻国伝説」において時頼自身の回国は史実であったと論じています。以下ではその論旨を見ていきましょう。
北条氏は東北に勢力を張っていた津軽安東氏を家臣として「蝦夷管領」に任じ支配を進めていきました。その過程で、東北に多かった天台宗寺院が禅宗に改宗しているというのです。その一つである奥州松島寺では、寺伝「天台記」にこのような話を残しています。山王七社大権現の祭礼がなされている際、修行僧に身をやつした時頼が見物人の中に混じり、祭礼の舞を見て感極まってつい大声を出してしまいました。そのため激怒した僧侶たちにより時頼は危うく殺されそうになります。難を逃れた時頼は禅僧と出会い、この寺を禅寺にするよう求められます。帰国後、時頼は有無を言わさず松島寺を焼き払い禅寺として再建したというのです。その他、出羽立石寺や象潟(秋田県)の蚶満寺にも微行した時頼により天台宗から禅宗に改められたという話が残されています。他、津軽護国寺は巡回中の時頼が寵姫唐糸の菩提を弔うため再建したとされています。これらの話は同じ時頼回国伝説でも、上述してきた民情視察とはやや趣が異なっています。どうやら北条政権の宗教政策と密接な関連がありそうです。佐々木氏はこれらに着目し、時頼の禅宗への帰依の深さも考慮すると鎌倉政権独自の「鎮護国家」仏教として禅宗・密教体制を東国・東北に浸透させる動きの一環として回国がなされたのではないかとしています。
更に、北条高時時代の幕府要人が当時に実験を握っていた長崎高資に諫言した「平政連諌草」には「まさに禅閣(NF注:北条貞時)、都鄙の間、大事を行じしめ、貴賎の行、少諍もなすべからず、徳仁を兼ぬるは、あに民のための生にあらざらんや」という一説に佐々木氏は注目。「太平記」で時頼の孫・貞時もまた祖父に倣い諸国を巡行したという伝承が載せられている事も考慮し、「大事」とは貞時が民情を知るために回国をした事実を指しているのではないかと推測しています。そして時期についても佐々木氏は「吾妻鏡」の記事に欠落がある正元元年(1259)の事ではないかと結論付けているのです。
この説が正鵠を射ているのかどうかは分かりませんが、時頼を始めとする北条政権が民政や宗教問題に強い関心を払っており、それがこうした伝説に繋がったのは確かなようです。
以上からは、少なくとも我が国における回国伝説には何らかの基となる事実があったといえそうです。加えて、苦境を明主に救ってもらいたいと言う民衆願望や、外からの訪問者(「マレビト」)が神としてこれをもてなした者に福をもたらすと言う伝承がこれに結びついたのでしょう。西洋やイスラームにおける伝説にもあるいは似たような側面があるのかもしれませんな。
<追記(08/2/12)>年代にミスがあったので訂正しました。
【参考文献】
ヨーロッパの民衆文化 ピーター・バーク著 中村賢二郎/谷秦訳 人文書院
完訳千一夜物語 (1)~(13) 豊島与志雄、渡辺一夫、佐藤正彰、岡部正孝訳 岩波文庫
天下は天下の天下なり 山下昌也 展望社
人物叢書徳川光圀 鈴木暎一 吉川弘文館
殿様の通信簿 磯田道史 朝日新聞社
人物叢書徳川吉宗 辻達也 吉川弘文館
執権時頼と廻国伝説 佐々木馨 吉川弘文館
日本古典文学大系太平記 一~三 岩波書店
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
増鏡 和田英松校訂 岩波文庫
鎌倉北条氏の興亡 奥富敬之 吉川弘文館
史書を読む 坂本太郎 中公文庫
日本神話の研究 松本信広 平凡社東洋文庫
関連記事(2009年5月15日新設)
自称「皇帝」の男たち
エロマンガ大王 後白河法皇 ~日本エロマンガの歴史は天皇家より始まる~
覇者の胃袋 ~粗食、偏食、暴飲暴食の帝王たち~
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「西洋民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021108.html)
「イスラム民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020614b.html)
「日本民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
関連サイト:
「水戸黄門」(http://www.cal-net.co.jp/mito/main/top/index.html)
「暴れん坊将軍」(http://www.tv-asahi.co.jp/abare/)
それぞれ公色サイトです。
「あぁ水戸黄門」(http://iwa.pekori.to/mito/)
「水戸黄門」ファンサイトです。
「よろパラ文学歴史の10」
(http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/index.htm)より
「北条時頼」(http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00055.htm)
では、早速西洋史に登場する王者からそうした逸話の残る人物を挙げていく事にしましょう。イングランドの民謡であるバラッドでは、エドワード王がなめし皮業者と、ヘンリー王が粉屋と、ウィリアム王が森番と、リチャード王が盗賊ロビン・フッドと出会ったという話が描かれています。もっとも、それぞれの王が何世なのかは不明ですが。更に、十七世紀の「国王と靴直しの物語」は「夜おそく変装して旧市内を歩き、巡査や夜警が彼らの義務をどのように守っているかを見るのが、国王ヘンリー八世の習慣であった」と伝えています。また、スコットランドにも国王ジェームズ五世が鋳掛け屋・乞食・「バレンザイトの自作農」に変装して歩いたという伝承が残されているそうです。ロシアでも、イワン雷帝が変装して盗賊に加わって下々の様子を見る事があったと伝えられます。その際、「あるとき、自分は国庫に通じる道を知っているから、そこを襲おう、と彼らに勧めた。しかし仲間のひとりは拳骨を振り上げ、この野郎、皇帝から略奪しようというのか、皇帝はわしらにとっても親切な人だ、といって、顔を力一杯ぶんなぐった。そして皇帝から莫大な金を騙し取っている金持の貴族を略奪しに行こうや、といった。このことでイヴァンはたいへん喜んだ。」(同P204)という話が残されています。後のピョートル大帝にも同様な逸話が残されているそうです。
また、先にも少し出てきましたが、イスラーム世界においてもそうした逸話の残る君主が存在しています。その名はハールーン・アッラシード、アッバース朝の全盛期を現出したカリフ(教主)です。「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)」には、彼が宰相ジヤファルや宦官マスルールという側近二人を連れてお忍びで町を歩き回り様々な出来事に遭遇する話がいくつか掲載されています。この話から、「あの」有名時代劇を連想する方は多いと思います。
という訳で、いよいよ日本の話です。日本史におけるこの手の話題と言えば大概の方は、前述した「あの」有名時代劇こと「水戸黄門」の主人公である水戸藩主徳川光圀、「暴れん坊将軍」こと徳川政権第八代将軍徳川吉宗を連想するのではないでしょうか。日本史に詳しい方なら、更に鎌倉政権の第五代執権北条時頼の名をも思い浮かべる事でしょう。という訳で以下では彼らについて詳細を述べていこうかと思います。
まずは徳川光圀から。光圀は日本史の編纂に力を注ぎ、そのために各地に調査員を派遣し大船を作るなど多額の費用を費やして文化事業を行ないました。また領内の産業育成にも力を注ぎ同時代から既に名君と評されていたと言われています。しかし、一方でこの時期に先代以来の財政赤字が累積し年貢率は彼の時代に最大であったとも言われており単純に手放しで賞賛する事は出来ないようです。
さて、光圀の回国伝説は十八世紀後半の宝暦年間、講談師の東林亭東宝の手によって「水戸黄門記」が著されたのが最初です。光圀の伝記を脚色し、徳川政権内部の内紛や大名家のお家騒動において政道を正したり隠退後に各地を巡って民情視察をするという内容となっています。そのうちで諸国を巡る話は当時流行していた滑稽本「東海道中膝栗毛」の影響を受けたとも言われているようです。そして明治以降になると「水戸黄門」物語は更に広い人気を集めるようになり、明治十年には河竹黙阿弥が「黄門記童講釈」を著して九代目市川団十郎が主演しました。また明治三十三年(1900)には荒川吉五郎「水戸黄門記」上下二巻、明治三十六年(1903)には山内文三郎「今古実録水戸黄門仁徳録」が刊行されています。講釈師によりこれらの物語は広まり、明治二十年には光圀が助さん・格さんを従えて旅をするという今の形式の原型ができたようです。その後も明治末から大正初期には立川文庫から加藤玉秀「諸国漫遊水戸黄門」や雪花山人「奇談水戸黄門関西漫遊記」「水戸黄門九州漫遊記」「水戸黄門東海道漫遊記」などが出版され、大正文庫からも「水戸黄門中国漫遊記」「水戸黄門九州四国漫遊記」が出ています。更に大正四年(1915)には映画「水戸黄門記」(日活、牧野省三監督)が封切られ映像化を果たしています。戦後になるとテレビ番組として長年にわたり人気を博しているのは皆様御存知の通りです。
光圀が実際に経験した旅は江戸と水戸を往復する程度だったようですが、隠退後には領内を歩き回り善行者を賞したり便宜を図ったりしたのは事実のようです。ただ、現地の役人にとっては迷惑だったようで、しばしば衝突を起こしていたそうです。一方、彼が遊里に通っていたという噂もあり、それは民情を知るための微行(お忍び)であったのでないかと推測する向きもあります。なお、光圀が全国を回ったと言う伝承の謂れは、安積覚兵衛(「格さん」のモデル)や佐々介三郎(「助さん」のモデル)を中心として「大日本史」編纂を行なう際に史館員を全国的に派遣した事にあるようです。
徳川吉宗は、徳川将軍家の嫡流が断絶したため分家・紀州徳川家から将軍として迎え入れられました。そして徳川政権の財政再建に取り組み様々な改革をしたことで知られています。「暴れん坊将軍」の物語は戦後にテレビ放送が定着して長らくたってから初めて登場したもので、最初から娯楽作品として作り出されたフィクションですから回国伝説とは少し違うと言えます。もっとも、吉宗が「目安箱」を設置して民の声を聞こうと試みたり「お庭番」を設置して情報を集めたり、火事があったときには自ら屋根に上り火元を確認しようとしたり、鷹狩を好んでしばしば外出しその際に農家で休憩したりといった行動的で前例にとらわれない型破りな人物であった点がイメージの元になっているのではないかとは言えそうです。
そして、北条時頼です。時頼は三浦氏など北条氏の対抗馬となり得る有力氏族を角逐したり藤原氏出身の将軍を追放し皇族将軍を迎えるなどで北条氏の権力を固め、出家後も権力を握るなど北条氏嫡流にによる独裁体制の基礎を築いたとされています。その一方で引付衆を設置するなど訴訟制度を整備し、御家人の負担を軽くしたり庶民の税を減らしたりと民政にも心を配ったといわれています。
そうしたことからか早い段階から回国伝説が語られていたようで、足利時代の謡曲「鉢の木」はこのような話を伝えています。修行僧に変装した時頼が厳寒の頃に上野国佐野の貧しい家に泊まったところ、家の主人・佐野常世は時頼を精一杯もてなし暖を取らせるため愛蔵の松・梅・桜の鉢植えをも惜しげもなく火にくべ、「一族に領地を奪われ貧しい暮らしを余儀なくされているが、御家人としての心は忘れていない。一朝事あれば痩せ馬にまたがってでも鎌倉に馳せ参じる。」と語りました。その後、鎌倉に戻った時頼は御家人たちに緊急動員をかけます。すると、言葉どおりに佐野常世は駆けつけたため、それを賞した時頼は正体を明かしあの時の松梅桜に因んで松井田荘・梅田荘・桜井荘を与えたと言う事です。また、「太平記」によれば旅の僧に身をやつした時頼が摂津難波の貧しい家に宿を乞い、そこの主人であった老尼は彼を快く迎えます。その晩に尼から夫や子に先立たれ地頭に所領を奪われた身の上を聞いて同情した時頼は、後にその地頭から所領を没収して老尼に与えたそうです。また、南北朝期に書かれた史書「増鏡」からも同様な逸話があった事が分かります。
「故時頼朝臣は、頭おろしてのち、忍ひて諸国を修行しありきけり。それも、国々のありさま、人の愁など、委しくあなぐり見聞かむの謀にてありける。あやしのやどりに立ちよりては、その家ぬしが有様を問ひ聞き、ことわりある愁などの、うづもれたるを聞きひらきては、『我れはあやしき身なれど、むかしよろしき主をもち奉りし。いまだ世にやおはすると、消息奉らむ。もてまうでて聞え給へ』などいへば『なでふ事なき修行者の何ばかりかな』と思ひながら、いひあわせて、その文をもちて、あづまへ行きて、しかじかと、教へしままにいひて見れば、入道殿(時頼)の御消息なりけり。『あなかまあなかま』とて、永く愁なきやうにはからひつ。仏神のあらはれ給ふかと、皆額をつきて悦びけり。かやうの事、すべて数しらずありしほどに、国々も、心づかひをのみしけり。最明寺の入道とぞいひける。」(「増鏡」岩波文庫 P106-107)「増鏡」の一級史料としての価値を考えると、虚構として笑い飛ばせないような気がしてきます。果たして時頼の伝説は史実だったのでしょうか、あるいは元となるような話はあったのでしょうか。
こうした時頼の回国伝説が史実かどうかについては、昔から議論があったようです。例えば三浦周行氏は「後世に行はれた一種の伝説」(「北条時頼の廻国説批評」)と一蹴している一方で八代国治氏は史実と考えていました。豊田武氏は「伝説となるには必ずそこに何らかの理由がある」として北条氏と東北の強い関わりに注目し「たしかに時頼が二、三の地方をまわったことはありうるであろう」(共に「英雄と伝説」)と述べています。坂本太郎氏もこれに近い考えで、「鎌倉時代史の研究に幾多の卓見を示した八代国治博士は、これらの疑惑説の取るに足りないことを論じ、『増鏡』の資料的価値から見て、これを事実と論断した。私もこれを一概に架空の物語と見なしてはなるまいと思う。」と述べ、「太平記」などで伝えられた逸話は疑わしいとしながらも「『増鏡』のいう程度の抽象的な事実は存在したとしてよかろう」(共に「史書を読む」中公文庫 P158)と結論付けています。幕末期の竹尾覚斎は「即事考」で実は虚構であり己が帰依した禅僧を回国させたのではないかと言っていますから、時頼自身の回国が虚構としても元になった事実はあると考える人は多いようです。実際、「北条九代記」異本には時頼・時宗・貞時の時代には「廻国使」が存在したとありますから時頼自身が回国しなくとも配下を同様の目的で諸国巡視させたのは事実と見てよさそうですね。
さて、多くの碩学たちが議論を重ねたこの問題は今日でも学者の興味を引いているようで、佐々木馨氏が「執権時頼と廻国伝説」において時頼自身の回国は史実であったと論じています。以下ではその論旨を見ていきましょう。
北条氏は東北に勢力を張っていた津軽安東氏を家臣として「蝦夷管領」に任じ支配を進めていきました。その過程で、東北に多かった天台宗寺院が禅宗に改宗しているというのです。その一つである奥州松島寺では、寺伝「天台記」にこのような話を残しています。山王七社大権現の祭礼がなされている際、修行僧に身をやつした時頼が見物人の中に混じり、祭礼の舞を見て感極まってつい大声を出してしまいました。そのため激怒した僧侶たちにより時頼は危うく殺されそうになります。難を逃れた時頼は禅僧と出会い、この寺を禅寺にするよう求められます。帰国後、時頼は有無を言わさず松島寺を焼き払い禅寺として再建したというのです。その他、出羽立石寺や象潟(秋田県)の蚶満寺にも微行した時頼により天台宗から禅宗に改められたという話が残されています。他、津軽護国寺は巡回中の時頼が寵姫唐糸の菩提を弔うため再建したとされています。これらの話は同じ時頼回国伝説でも、上述してきた民情視察とはやや趣が異なっています。どうやら北条政権の宗教政策と密接な関連がありそうです。佐々木氏はこれらに着目し、時頼の禅宗への帰依の深さも考慮すると鎌倉政権独自の「鎮護国家」仏教として禅宗・密教体制を東国・東北に浸透させる動きの一環として回国がなされたのではないかとしています。
更に、北条高時時代の幕府要人が当時に実験を握っていた長崎高資に諫言した「平政連諌草」には「まさに禅閣(NF注:北条貞時)、都鄙の間、大事を行じしめ、貴賎の行、少諍もなすべからず、徳仁を兼ぬるは、あに民のための生にあらざらんや」という一説に佐々木氏は注目。「太平記」で時頼の孫・貞時もまた祖父に倣い諸国を巡行したという伝承が載せられている事も考慮し、「大事」とは貞時が民情を知るために回国をした事実を指しているのではないかと推測しています。そして時期についても佐々木氏は「吾妻鏡」の記事に欠落がある正元元年(1259)の事ではないかと結論付けているのです。
この説が正鵠を射ているのかどうかは分かりませんが、時頼を始めとする北条政権が民政や宗教問題に強い関心を払っており、それがこうした伝説に繋がったのは確かなようです。
以上からは、少なくとも我が国における回国伝説には何らかの基となる事実があったといえそうです。加えて、苦境を明主に救ってもらいたいと言う民衆願望や、外からの訪問者(「マレビト」)が神としてこれをもてなした者に福をもたらすと言う伝承がこれに結びついたのでしょう。西洋やイスラームにおける伝説にもあるいは似たような側面があるのかもしれませんな。
<追記(08/2/12)>年代にミスがあったので訂正しました。
【参考文献】
ヨーロッパの民衆文化 ピーター・バーク著 中村賢二郎/谷秦訳 人文書院
完訳千一夜物語 (1)~(13) 豊島与志雄、渡辺一夫、佐藤正彰、岡部正孝訳 岩波文庫
天下は天下の天下なり 山下昌也 展望社
人物叢書徳川光圀 鈴木暎一 吉川弘文館
殿様の通信簿 磯田道史 朝日新聞社
人物叢書徳川吉宗 辻達也 吉川弘文館
執権時頼と廻国伝説 佐々木馨 吉川弘文館
日本古典文学大系太平記 一~三 岩波書店
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
増鏡 和田英松校訂 岩波文庫
鎌倉北条氏の興亡 奥富敬之 吉川弘文館
史書を読む 坂本太郎 中公文庫
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「西洋民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021108.html)
「イスラム民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020614b.html)
「日本民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
関連サイト:
「水戸黄門」(http://www.cal-net.co.jp/mito/main/top/index.html)
「暴れん坊将軍」(http://www.tv-asahi.co.jp/abare/)
それぞれ公色サイトです。
「あぁ水戸黄門」(http://iwa.pekori.to/mito/)
「水戸黄門」ファンサイトです。
「よろパラ文学歴史の10」
(http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/index.htm)より
「北条時頼」(http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00055.htm)
by trushbasket
| 2008-03-08 15:22
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