2008年 03月 15日
「遠祖は正成」―庶民から見た楠木氏―
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十四世紀における南北朝戦乱を描いた「太平記」では、楠木正成は少数の兵で鎌倉政権の大軍を翻弄した名将として、後醍醐天皇に殉じた忠臣として良い役回りを与えられています。徳川時代に「太平記」が語られた際にも、「本日正成が出ます」と言えば必ず満員になったそうですから聴衆からも人気のある存在であった事は伺えます。近代に入ると国家・天皇への忠誠を促すため「最も正しい日本人の典型」として歴史・修身(道徳)の教科書で称揚される事になりますが、それ以前から庶民の間では人気者ではあったわけです。現在では南北朝自体が敬遠され知名度が下がっていますが、それでも南北朝期の人物としては比較的知られた部類ですし悪いイメージで語られる事はないといってよいと思います。そんな正成ですから、後世には楠木氏にルーツを持つとされる分野がいくつか出てきています。それらについて検討しながら、後世の庶民が楠木氏にどんなイメージを持っていたかを見てみましょう。
南北朝合一後の朝廷は北朝系統でしたから公的には信長時代まで楠木氏は朝敵扱いで、自称楠木氏末裔の楠木正虎による願い出により赦免されたわけですが、それ以降は晴れて英雄となった正成を遠祖となぞらえる流派がいくつかのジャンルで見られるようになります。
恐らく一番有名なのが軍学でしょう。戦国が終わり天下が統一されると、軍事専門家は失職状態となります。その中で、軍事的知識を学問として生き残らせるため体系化した「軍学」が成立。もっとも、彼等にはそれらしく道徳臭を付けたりかつての名将たちに仮託して権威付けをした非実用的で胡散臭い連中が少なからずいたようです。権威付けに用いられた名将としては武田信玄(甲州流)や北条早雲・氏康(北条流)辺りが知られていますがその中に楠木正成も混じっていました。いわゆる楠流です。最初に楠木氏流兵法を唱え始めたのは法華法印陽翁とされ、池田輝政に仕え太平記関連の逸話をまとめた「太平記理尽抄」を参考にして楠木兵法を唱えたと言われています。十七世紀半ばに浪人を率いて反乱を目論んだ由比小雪も同様に楠木兵法を唱えた一人です。浪人・楠不伝と父子の契りを結び楠流の伝授を受け、楠帯刀と称して軍学を講じたとされます。他にも、「恩地左近太郎聞書」「楠公桜井書」など正成に仮託された兵学書は多く認められます。「楠氏研究」の藤田精一氏は「固より虚託にして、傀儡以って其の野心を遂げん一手段たりしのみ」(「楠氏研究」P521-522)と一刀両断していますが、恐らく正鵠を射た評価であると思われます。
あと、正成が忍者の祖であるという俗説も時にあります。確かに、死んだと見せかけて脱出したり人夫に化けて敵の城に入ったりといった行動は忍術で言う「死間」や「妖者術」に相当します。それに、「太平記」によれば南北朝後半で楠木正儀と共に足利軍に夜襲をかけて苦しめた楠木一族の和田正武は「立ちすぐり居すぐり」を行なって足利側からの刺客をあぶり出したとされています。「立ちすぐり居すぐり」とは首領が手下に合言葉をかけて立ったり座ったりさせ、反応を見て敵の間者を見つけ出す方法です。「北条五代記」によれば風魔が武田の間者を同様にして見つけ出したとされています。なるほど、神出鬼没な行動やこうした話からは忍者と共通した性格が見出せますね。更に「上島氏文書」によれば楠木氏が伊賀服部氏と縁戚関係にあったという話があるようです。伊賀の服部氏と言えば忍者の頭領として戦国期に知られた存在です。ここでも忍者つながり。実際、楠木正成を始祖と称する忍術流派も存在したようです。
楠木氏を始祖と称するジャンルは他にもあります。徳川期の「虚鐸伝記国字解」は、楠木正勝(楠木正成の孫、正儀の子)が尺八を学び諸国を回遊し、天蓋を被り尺八を吹く現在の虚無僧形式の祖となったと述べています。更に筑波山の虚無僧寺である古通寺には正勝が開いたと言う伝説があるようです。まあ、忍者ともども軍学よりは信憑性がある気はしないでもないですが、真偽の程は微妙ですね。
以上、徳川期に楠木氏を遠祖と称したジャンルは軍学・忍者・虚無僧と何だか治安紊乱に結びつきかねない胡散臭く謎めいたイメージが持たれているものが多い気がします。一方、近代になってから楠木氏との関連が噂されたジャンルもあります。能楽です。前述した「上島氏文書」に注目し、観阿弥は伊賀杉ノ内の服部信清の三男であり母は河内国玉櫛荘橘正遠の娘であるという記述を引き出しています。河内玉櫛荘といえば楠木氏の勢力圏ですし、楠木氏は橘氏末裔を称していましたから母方が楠木氏である可能性があるというのです。実際、吉川英治「私本太平記」やそれを原作とする大河ドラマ「太平記」はこれを基にして観阿弥の母が正成の妹であるという設定にしていました。能楽は他のジャンルとは違い高尚な古典芸能といった感じで胡散臭さとは無縁に思えます。しかし、念のために歴史を振り返っておく事にします。
能楽の大成者・世阿弥が義満に寵愛され男色的な関係にあったとされる事は有名ですが、第六代将軍義教も音阿弥を寵愛しています。更に第八代将軍義政も音阿弥の子・蓮阿弥を愛し、彼が十五歳の時には天皇から扇を賜った際に傍らで手に添えて拝領させてやったという話が残っています。そして第九代将軍義尚も観世流の彦次郎を寵愛し文明十六年には広沢の名字を与えて一族に順ずる待遇を与えてやったそうです。これらをふまえてか、岩田準一氏は能楽隆盛について「世阿弥に対する義満の男色趣味のしからしめた結果であった」(「本朝男色考・男色文献書志」P92)と断じています。「風姿花伝」に代表される厳しい芸術性追及のみならず、観世流一門が足利将軍家と文字通り心身共に密接に繋がりを持った事も能楽の文化的地位確立への一助となったという事でしょうか。
また、世阿弥ら観世流が貴族的教養を取り入れて能楽の芸術性を高めていく一方で、「手猿楽」と呼ばれる庶民向きの能楽も見られるようになりました。若い女性による「女房猿楽」や美少年による「稚児猿楽」が人気を得たそうですが、恐らく歌舞伎発祥期と同様に美女・美少年による売春と化していたであろう事は想像に難くありません。…能楽も草創期においては胡散臭さとはどうやら無縁じゃなかったのですな。まあ、どの芸能にも多かれ少なかれ言えそうな気はしますが。
さて徳川期には、支配層の間で楠木一族を「忠臣」「武士の鑑」として称揚する動きが盛んになりました。庶民も基本的にそうした見方を共有したようですが、浄瑠璃や歌舞伎で楠木一族を扱った「けいせい艶廓床」「正成妹吉原」は遊郭を舞台としており必ずしも道徳的で堅物な存在ではありません。まあ、四十七士や曾我兄弟といった「忠臣」「孝子」も同様に芝居では遊び人な一面を見せたりしていますから楠木一族だけじゃないんですけどね。近代になると、道徳的に模範とすべき存在として正成らは描かれるようになり、一気にお堅いイメージになります。理由はどうあれ楠木一門が遊郭で遊ぶなど言語道断。そんな中で、時流に乗って一般庶民の間でも正成を追慕する動きがありました。
つまり、日露戦争で正成の画像をお守りにすると弾が当たらないという話が生まれ、更にその兵団が勇ましい戦いぶりで名を挙げたという事ですね。…何だか、幸運の壷並に胡散臭い気がしないでもありません。しかし、戦いにおいて無事で帰ってくるようにと効果があるとされるお守りを家族が渡すのは当然の情だと思いますし古今東西において共通する光景ではないかと思います。そうすると、一般にこうした時にお守りとして使われていたのは何かというのが気になりますね。寺社のお守りは当然あったでしょうが、その他にも徳川期には「勝絵」といって春画が魔除けとして戦勝を招く効果があると考えられていたようです。近代に入ってもそうした信仰は続いていたようで、花咲一男氏は「川柳春画志」で「日中戦争にも、敵弾に当らぬ呪として、春画やエロ写真を懐中していた兵隊も居たことは確かである」(「江戸の性風俗」P68)と述べています。事実、これは半ば公然と広く行なわれたらしく、戦後に当局が回収するのに一苦労したという話も残されています。性的なものに呪術的な力を感じるというのは民俗信仰などで昔から見られる話ですが、正成像がこれと同様な存在と考えると何だか変な気がするのは確かですね。
以上、正成を始祖と称するジャンルや庶民の楠木氏への目は基本的に好意的ですが、どれをとっても何となく胡散臭さを感じさせる要素があるように思われます。司馬遼太郎氏は正成を女学校の校長のようなきまじめなイメージがとか言っていた気がしますがなかなかどうして。…僕が色眼鏡で見ているだけかも知れませんが。でも考えてみれば、楠木氏自体が正体不明で時に「悪党」と呼ばれるなど胡散臭いといえば非常に胡散臭い存在でした。正成も「太平記」では死後にも怨霊になって大暴れするなど、「忠臣」「名将」というイメージで収まりきらないおどろおどろしい一面を持っていますしね。民衆は彼等自身から出たヒーローである楠木一族に対して、国家権力がどうあろうと愛情を込めたしかし本質を捉えた目を向けていたといえます。…それだけに現在の無名ぶりは寂しい気はするんですけれどね。
【参考文献】
楠氏研究 藤田精一 廣島積善館
楠木正成 植村清二 中公文庫
江戸の兵学思想 野口武彦 中公文庫
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
虚無僧の謎吹禅の心 岡田冨士雄 秋田文化出版
私本太平記(一)~(八) 吉川英治 講談社
日本古典文学大系太平記 一~三 岩波書店
本朝男色考・男色文献書志 岩田準一著 原書房
楠木正成と悪党 海津一朗 ちくま新書
性と日本人 樋口清之 講談社文庫
江戸の性風俗 氏家幹人 講談社現代新書
手掘り日本史 司馬遼太郎 文春文庫
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「楠木正成」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2000/001201.html)
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「日本前近代軍事史」(当ブログ内に移転しました)(http://trushnote.exblog.jp/14549736/)
正成の戦いや軍学についても触れています
「千早攻防戦-日本初の本格的城塞戦-」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020426c.html)
「民族英雄考―楠木正成と諸国の英雄たち―」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/minzoku.html)
関連サイト:
「忍者マイスター」(http://www.2nja.com/)
「虚無僧研究会」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~komuken/)
「KANZE.NET」(http://www.kanze.net/) 観世流サイトです。
「浮世絵」(http://www1.ocn.ne.jp/~matikado/index.html)
様々な春画を閲覧する事ができます。無論、18歳未満の方は閲覧禁止です。18歳以上の方も閲覧される際には自己責任でお願いします。
リンクを変更(2010年12月8日)
南北朝合一後の朝廷は北朝系統でしたから公的には信長時代まで楠木氏は朝敵扱いで、自称楠木氏末裔の楠木正虎による願い出により赦免されたわけですが、それ以降は晴れて英雄となった正成を遠祖となぞらえる流派がいくつかのジャンルで見られるようになります。
恐らく一番有名なのが軍学でしょう。戦国が終わり天下が統一されると、軍事専門家は失職状態となります。その中で、軍事的知識を学問として生き残らせるため体系化した「軍学」が成立。もっとも、彼等にはそれらしく道徳臭を付けたりかつての名将たちに仮託して権威付けをした非実用的で胡散臭い連中が少なからずいたようです。権威付けに用いられた名将としては武田信玄(甲州流)や北条早雲・氏康(北条流)辺りが知られていますがその中に楠木正成も混じっていました。いわゆる楠流です。最初に楠木氏流兵法を唱え始めたのは法華法印陽翁とされ、池田輝政に仕え太平記関連の逸話をまとめた「太平記理尽抄」を参考にして楠木兵法を唱えたと言われています。十七世紀半ばに浪人を率いて反乱を目論んだ由比小雪も同様に楠木兵法を唱えた一人です。浪人・楠不伝と父子の契りを結び楠流の伝授を受け、楠帯刀と称して軍学を講じたとされます。他にも、「恩地左近太郎聞書」「楠公桜井書」など正成に仮託された兵学書は多く認められます。「楠氏研究」の藤田精一氏は「固より虚託にして、傀儡以って其の野心を遂げん一手段たりしのみ」(「楠氏研究」P521-522)と一刀両断していますが、恐らく正鵠を射た評価であると思われます。
あと、正成が忍者の祖であるという俗説も時にあります。確かに、死んだと見せかけて脱出したり人夫に化けて敵の城に入ったりといった行動は忍術で言う「死間」や「妖者術」に相当します。それに、「太平記」によれば南北朝後半で楠木正儀と共に足利軍に夜襲をかけて苦しめた楠木一族の和田正武は「立ちすぐり居すぐり」を行なって足利側からの刺客をあぶり出したとされています。「立ちすぐり居すぐり」とは首領が手下に合言葉をかけて立ったり座ったりさせ、反応を見て敵の間者を見つけ出す方法です。「北条五代記」によれば風魔が武田の間者を同様にして見つけ出したとされています。なるほど、神出鬼没な行動やこうした話からは忍者と共通した性格が見出せますね。更に「上島氏文書」によれば楠木氏が伊賀服部氏と縁戚関係にあったという話があるようです。伊賀の服部氏と言えば忍者の頭領として戦国期に知られた存在です。ここでも忍者つながり。実際、楠木正成を始祖と称する忍術流派も存在したようです。
楠木氏を始祖と称するジャンルは他にもあります。徳川期の「虚鐸伝記国字解」は、楠木正勝(楠木正成の孫、正儀の子)が尺八を学び諸国を回遊し、天蓋を被り尺八を吹く現在の虚無僧形式の祖となったと述べています。更に筑波山の虚無僧寺である古通寺には正勝が開いたと言う伝説があるようです。まあ、忍者ともども軍学よりは信憑性がある気はしないでもないですが、真偽の程は微妙ですね。
以上、徳川期に楠木氏を遠祖と称したジャンルは軍学・忍者・虚無僧と何だか治安紊乱に結びつきかねない胡散臭く謎めいたイメージが持たれているものが多い気がします。一方、近代になってから楠木氏との関連が噂されたジャンルもあります。能楽です。前述した「上島氏文書」に注目し、観阿弥は伊賀杉ノ内の服部信清の三男であり母は河内国玉櫛荘橘正遠の娘であるという記述を引き出しています。河内玉櫛荘といえば楠木氏の勢力圏ですし、楠木氏は橘氏末裔を称していましたから母方が楠木氏である可能性があるというのです。実際、吉川英治「私本太平記」やそれを原作とする大河ドラマ「太平記」はこれを基にして観阿弥の母が正成の妹であるという設定にしていました。能楽は他のジャンルとは違い高尚な古典芸能といった感じで胡散臭さとは無縁に思えます。しかし、念のために歴史を振り返っておく事にします。
能楽の大成者・世阿弥が義満に寵愛され男色的な関係にあったとされる事は有名ですが、第六代将軍義教も音阿弥を寵愛しています。更に第八代将軍義政も音阿弥の子・蓮阿弥を愛し、彼が十五歳の時には天皇から扇を賜った際に傍らで手に添えて拝領させてやったという話が残っています。そして第九代将軍義尚も観世流の彦次郎を寵愛し文明十六年には広沢の名字を与えて一族に順ずる待遇を与えてやったそうです。これらをふまえてか、岩田準一氏は能楽隆盛について「世阿弥に対する義満の男色趣味のしからしめた結果であった」(「本朝男色考・男色文献書志」P92)と断じています。「風姿花伝」に代表される厳しい芸術性追及のみならず、観世流一門が足利将軍家と文字通り心身共に密接に繋がりを持った事も能楽の文化的地位確立への一助となったという事でしょうか。
また、世阿弥ら観世流が貴族的教養を取り入れて能楽の芸術性を高めていく一方で、「手猿楽」と呼ばれる庶民向きの能楽も見られるようになりました。若い女性による「女房猿楽」や美少年による「稚児猿楽」が人気を得たそうですが、恐らく歌舞伎発祥期と同様に美女・美少年による売春と化していたであろう事は想像に難くありません。…能楽も草創期においては胡散臭さとはどうやら無縁じゃなかったのですな。まあ、どの芸能にも多かれ少なかれ言えそうな気はしますが。
さて徳川期には、支配層の間で楠木一族を「忠臣」「武士の鑑」として称揚する動きが盛んになりました。庶民も基本的にそうした見方を共有したようですが、浄瑠璃や歌舞伎で楠木一族を扱った「けいせい艶廓床」「正成妹吉原」は遊郭を舞台としており必ずしも道徳的で堅物な存在ではありません。まあ、四十七士や曾我兄弟といった「忠臣」「孝子」も同様に芝居では遊び人な一面を見せたりしていますから楠木一族だけじゃないんですけどね。近代になると、道徳的に模範とすべき存在として正成らは描かれるようになり、一気にお堅いイメージになります。理由はどうあれ楠木一門が遊郭で遊ぶなど言語道断。そんな中で、時流に乗って一般庶民の間でも正成を追慕する動きがありました。
「従軍将士の珍武装
日露戦争の真最中予後備軍人も続々召集せられ何れ劣らぬ義勇の振舞は感ぜぬものも無かりけり、この時或る地方に於いては誰云ふとなく楠公画像の肌の守りは霊験貴き荒火矢除けなりと謂ひ伝へければ、恩愛の情深き母や妻は手を碎きて楠公小画像を画師に求め心を籠めて襯衣腹巻に縫ひ込めば奇しき武装の勇士の面々雄々しく戦場に馳せ向ひぬ、戦報は逸早く新聞号外によりて某兵団の勇戦を伝へぬ、不思議やかの地方出の勇士が死傷の公報到る甚だ尠く而かも皆目覚しき戦功を樹てたる由なれば郷党の父老鎮守の宮に詣でて楠公の霊を遥拝するものもあり、戦済みて統率の某隊長兵を閲するまにまに一陣の夕嵐其の戦袍を打ち靡かして裏絹深く名工の楠公画像を吹き返せばさてこそあれと歓呼の声四方に起ちぬ、是より楠公隊長の渾名上下に伝はり楠公兵団の声は全軍に響び渡りしとなん(従軍者の実談)」
(「楠氏研究」P626 なお旧字体は新字体に改めています)
つまり、日露戦争で正成の画像をお守りにすると弾が当たらないという話が生まれ、更にその兵団が勇ましい戦いぶりで名を挙げたという事ですね。…何だか、幸運の壷並に胡散臭い気がしないでもありません。しかし、戦いにおいて無事で帰ってくるようにと効果があるとされるお守りを家族が渡すのは当然の情だと思いますし古今東西において共通する光景ではないかと思います。そうすると、一般にこうした時にお守りとして使われていたのは何かというのが気になりますね。寺社のお守りは当然あったでしょうが、その他にも徳川期には「勝絵」といって春画が魔除けとして戦勝を招く効果があると考えられていたようです。近代に入ってもそうした信仰は続いていたようで、花咲一男氏は「川柳春画志」で「日中戦争にも、敵弾に当らぬ呪として、春画やエロ写真を懐中していた兵隊も居たことは確かである」(「江戸の性風俗」P68)と述べています。事実、これは半ば公然と広く行なわれたらしく、戦後に当局が回収するのに一苦労したという話も残されています。性的なものに呪術的な力を感じるというのは民俗信仰などで昔から見られる話ですが、正成像がこれと同様な存在と考えると何だか変な気がするのは確かですね。
以上、正成を始祖と称するジャンルや庶民の楠木氏への目は基本的に好意的ですが、どれをとっても何となく胡散臭さを感じさせる要素があるように思われます。司馬遼太郎氏は正成を女学校の校長のようなきまじめなイメージがとか言っていた気がしますがなかなかどうして。…僕が色眼鏡で見ているだけかも知れませんが。でも考えてみれば、楠木氏自体が正体不明で時に「悪党」と呼ばれるなど胡散臭いといえば非常に胡散臭い存在でした。正成も「太平記」では死後にも怨霊になって大暴れするなど、「忠臣」「名将」というイメージで収まりきらないおどろおどろしい一面を持っていますしね。民衆は彼等自身から出たヒーローである楠木一族に対して、国家権力がどうあろうと愛情を込めたしかし本質を捉えた目を向けていたといえます。…それだけに現在の無名ぶりは寂しい気はするんですけれどね。
【参考文献】
楠氏研究 藤田精一 廣島積善館
楠木正成 植村清二 中公文庫
江戸の兵学思想 野口武彦 中公文庫
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
虚無僧の謎吹禅の心 岡田冨士雄 秋田文化出版
私本太平記(一)~(八) 吉川英治 講談社
日本古典文学大系太平記 一~三 岩波書店
本朝男色考・男色文献書志 岩田準一著 原書房
楠木正成と悪党 海津一朗 ちくま新書
性と日本人 樋口清之 講談社文庫
江戸の性風俗 氏家幹人 講談社現代新書
手掘り日本史 司馬遼太郎 文春文庫
関連記事(2009年5月15日新設)
「淫祀邪教」といわれたり「キモオタ」と呼ばれたり~日本人の「聖地巡礼」今昔~
「民族英雄考―楠木正成と諸国の英雄たち―」補足:正成とフランスの英雄たち
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「楠木正成」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2000/001201.html)
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「日本前近代軍事史」(当ブログ内に移転しました)(http://trushnote.exblog.jp/14549736/)
正成の戦いや軍学についても触れています
「千早攻防戦-日本初の本格的城塞戦-」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020426c.html)
「民族英雄考―楠木正成と諸国の英雄たち―」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/minzoku.html)
関連サイト:
「忍者マイスター」(http://www.2nja.com/)
「虚無僧研究会」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~komuken/)
「KANZE.NET」(http://www.kanze.net/) 観世流サイトです。
「浮世絵」(http://www1.ocn.ne.jp/~matikado/index.html)
様々な春画を閲覧する事ができます。無論、18歳未満の方は閲覧禁止です。18歳以上の方も閲覧される際には自己責任でお願いします。
リンクを変更(2010年12月8日)
by trushbasket
| 2008-03-15 10:30
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