2008年 06月 03日
「引きこもりニート列伝その26 西行」補足―当代最強の放浪歌人?―
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以前、文覚上人についての記事がありました。彼は、その激しい性格や法力で知られ、後白河法皇や源頼朝との繋がりを活かして神護寺再建や寺院経営に手腕を振るった人物です。「平家物語」では文覚が頼朝に挙兵を促し、後白河から平家追討の院宣を受けて大義名分を整えたとされています。頼朝はこれに恩を感じ、「いかなる大事をも申せ、聖(文覚)が申さむ事をば、頼朝が一期の間はかなへん」と約束したといわれています。もっとも、「吾妻鏡」によれば頼朝挙兵のきっかけは以仁王(後白河の皇子で、平家に反旗を翻し討たれた)の令旨だったそうですから完全な事実というわけではないのかもしれませんが。それでも、頼朝は文覚に深く帰依して寺院再建に協力したり様々な無理を聞いたりしているので、後白河との仲介を務めるなど似たような事実はあったものと思われます。「吾妻鏡」によれば頼朝が寺院に寄進した所領を無断で「弟子」「檀那」と称する俗人に与え、これを頼朝が咎めたところ「現地の者が悪賢くて手に負えないから、力ずくで抑えるために親しい者を現地に入れた。これが讒訴のもとになったのであろうが、こういう讒訴をする奴は今生はもとより来世も無間地獄に落ちて浮かび上がれまい。」と悪びれることなく言い放ったため頼朝も閉口したという話があるようです。更に、平家嫡流である六代(平維盛の嫡男)を助命するよう頼朝に強要し、本来は禍根を残したくないと考えていた頼朝は「進退きわまった」とこぼしたが結局は出家させて助命せざるを得なかったという話もあります。「平家物語」によれば「(六代が)謀反おこさば、やがてかたうど(味方)せうずる聖の御坊なり」とまで頼朝は愚痴ったとされています。
以上の話を総合すると、力関係において「文覚>頼朝」という図式が成り立つようです。
さて、同時代の僧で文覚と同じくかつて北面の武士だった事で有名なのが西行です。
彼は生涯を旅に過ごして数々の優れた歌を残し、「山家集」に作品はまとめられました。
と詠み、願いどおりに二月十六日に大往生を遂げたその生涯は、後世の人々にも隠遁者の理想像として語り継がれています。
西行が出家した原因については、宮廷の女房を恋慕して弄ばれたためだとか友人が急死して無情を感じたのがきっかけだとか色々いわれていますが、好きであった歌の修行に専念するためではないかという推測もなされています。まあ、いずれにせよ文覚のように性欲目的で殺人したためでないのは確かなようです。
出家後の西行は、仏道修行をしながらも吉野山や伊勢二見浦など歌枕(しばしば和歌に詠まれる名所)を巡って歌道研鑽をしていたと言われています。ところが、これが文覚には気に入らなかったようです。「井蛙抄」には、このような話が伝えられています。文覚は西行を毛嫌いして「遁世者ならば仏道修行に専念すべきであるのに、数寄の道で遊行しているとはけしからん。出会ったら頭を打ち破ってくれよう。」と公言していたそうです。そして神護寺で法会が行なわれた際、西行も結縁のために参列。二人はその場において顔をあわせ、文覚の弟子たちは血を見るのではないかとハラハラしていたそうです。ところが、文覚は西行の顔をじっと凝視していたかと思うと、にわかに「良くお出でなされた」と迎え入れて手厚く饗応して帰しました。「日頃の仰せと違いましたね」と安堵して尋ねる弟子たちに、文覚は「あら言ひがひ無の法師どもや、あれは文覚に打たれんずる者の面様か。文覚をこそ打たんずる者なれ。」と答えたという事です。馬鹿者、あれが文覚にボコられるタマに見えるか、そんな事をすればこちらがボコボコにされるわ、というわけですね。傍若無人で暴れ者のくせして、意外にヘタレな一面を文覚はさらしたようです。
あと、西行は頼朝に対面した際も相手に引けをとらなかったようです。勧進のため奥州へ趣いた際に取り成しを求めて頼朝に面会し、武芸や和歌について問われましたが「弓矢の道については殺生の道なので出家する際に家伝を燃やして全て忘れた。歌は道といえるものを知らない。」と答えています。しかし語り明かし再度話を求められて詳細に語ったという事です。そして十三世紀前半の北条泰時時代にその時の話を覚えていた者がおり、西行の語った内容を鎌倉幕府における故実としたという話も残されています。また、晩年に北面の武士の弓の持ち方に太鼓判を押したという逸話もあり、生涯にわたって西行は武芸においても権威的な存在であったことが分かります。更に全国を歩き回り、時には大峰山で修験道の行もこなしている事から肉体的にも頑健であったろうと想像されます。…なるほど、これは強いわけだ。文覚がボコボコにされるのを恐れたのも理解できます。また、「古今著聞集」によれば左大臣後徳大寺実定が邸宅に縄を張って鳶が止まれなくしたのをみてその狭量さに怒ったとか、徳大寺公衡が出世争いに負けた際に出家しなかったので幻滅したとかいった説話があり、強情で気性の激しい一面も西行が備えていた事が伺えます。文覚が西行を見てひるんだのは、肉体的・暴力的な理由というよりもこうした文覚に引けをとらない激しさに加え、異質さをも感じ取って不意をつかれたためではないかという意見もあるようです。
まあ、いずれにせよ力関係で「西行>文覚」とは言えそうです。西行が頼朝に気圧されなかったことも考慮すると、「西行>文覚>頼朝」となりますね。
このように天下人・頼朝や彼を手玉に取る怪僧・文覚も圧倒した西行ですが、旅先においては意外に不覚をとる場面もあったようです。彼が大峰山で修行を行った事は前述しましたが、その際に先達・宗南坊に厳しく責めさいなまれ「こんな驕慢な先達とも知らず心身を苦しめられるのが悔しい」と泣き言を言ったりしています。また、各地に西行が歌で現地の子供・老女にやりこめられるという内容の話が残されているようで柳田国男が数多く指摘しています。
例えば陸前国松島には、「月にそふ 桂男の かよひ来て すすきはらむは 誰が子なるらん」と詠み得意になっていた西行に対し、童子が「雨もふり 霞もかかり 霧もふる すすきはらむは 誰が児なるらん」と改作したので西行は恥じ入ったという伝承があります。
安芸国宮島でも、西行が老女に道を尋ねたが何の返事もないので腹立ちの余り「うつせみの もぬけの殻に こと問へば 山路をさへに 教へざりけり」と詠んだところ老女が「もぬけのからが」でなければ歌にならないと言い返したとされています。話しかけた相手がもぬけの殻のような人物なので答えが返ってこない、と詠んだのが、もぬけの殻のような人間が話しかけてきたので答えない、という意味に変わってしまいましたね。
伊勢垂水の成就寺に参詣した西行が、道端の木に登る子供を見て「さる稚児と見るより早く木に登る」と上の句を詠んだところ、その子供が「犬のやうなる法師来れば」と下の句を付けたので西行は閉口して逃げ去ったといいます。「さる(とある)」と「猿」をかけて子供をからかった所、反撃されてしまったというわけです。
これらの伝承を考えに入れると、「子供・老女>西行>文覚>頼朝」という事になりそうです。…何だか変ですね。
解決の糸口を探るため、もう少し似たような話を追いかけてみましょう。「西行くどき」という木遣歌には、以下のような歌詞があります。
つまりは「涼しいのに熱田とはこれいかに」と西行が洒落てみたところ、神から「お前だって西行という名前のくせして東に行っているじゃないか」と突っ込まれたわけですね。
更に伝承では、豊後国由布嶽を訪れた西行が「豊国の 由布の高根は 富士に似て 雲もかすみも わかぬなりけり」と詠んだところ由布嶽が怒ったのか山が鳴動し噴火。そこで西行が慌てて「駿河なる 富士の高根は 由布に似て 雲も霞も わかぬなりけり」と詠み直したので山も怒りをおさめ静まったとされています。
要するに、その土地の神様相手にも同様な話があるわけですね。すると、前述の子供や老女というのは土地の神の代わりというか化身と見るべきなのでしょう。漂泊の詩人が土地の神相手に遣り込められる話は広く存在するようで、十五世紀の連歌師・飯尾宗祇にも似たような逸話があるそうです。旅人は古来より「マレビト」として一種の神として捉えられていましたから、移動する「神」が土地の神と対決し笑われる事で融和し心を慰めるという意味合いがあるのでしょう。こう考えると、例の力関係では「神>西行>文覚>頼朝」となるわけです。うん、これなら納得です。相手が神様だったら、仕方ないですね(これらの逸話では西行自身も「神」と見なされるわけですが)。
こうして見ると、西行はこの時代における人間の中では「最強」といえなくもないのかも知れません。思えば西行は社会の桎梏から離れ、それでいて権力の中枢に居る人々と案外接点があったりする。そうした一般社会との不即不離な生き方が彼を「最強」にせしめた(なんたって人でありながら「神」でもあるわけですから)といえそうです。…いいのかな、こんな結論で(汗)。
【参考文献】
出家隠遁 目崎徳衛著 中公新書
西行 高橋秀夫著 岩波新書
人物叢書西行 目崎徳衛著 吉川弘文館
平家物語(上)(下) 佐藤謙三校注 角川ソフィア文庫
日本史の快楽 上横手雅敬 角川ソフィア文庫
関連記事(2009年5月13日新設)
スイーツ(笑)断罪 1330 ~リアル女はノー・センキュー 僕はフィクションに恋をする~ 徒然草の恋愛論
引きこもりニート列伝その3 鴨長明・兼好法師 補足
米国大統領と愛国歌人―橘曙覧―
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「引きこもりニート列伝その26 西行」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet26.html)
以外には…
「日本民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
以下は、西行と同時代人たちに関連するレジュメです。
「日本前近代軍事史」(当ブログ内に移転しました)
(http://trushnote.exblog.jp/14549736/)
「戦例の考察」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2000/001027a.html)
(一の谷合戦・壇ノ浦合戦への言及があります)
「義経は戦の天才か?」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020510a.html)
「源義経に関連する能・歌舞伎演目」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020510b.html)
「『義経記』における義経像」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020510c.html)
「引きこもりニート列伝その3 鴨長明・兼好法師」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet03.html)
(鴨長明も西行と同時代の隠遁者です)
関連サイト:
「私たちの『西行の研究』」
(http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/x_entrance.htm)
リンクを変更(2010年12月8日)
以上の話を総合すると、力関係において「文覚>頼朝」という図式が成り立つようです。
さて、同時代の僧で文覚と同じくかつて北面の武士だった事で有名なのが西行です。
参考:「引きこもりニート列伝その26 西行」
彼は生涯を旅に過ごして数々の優れた歌を残し、「山家集」に作品はまとめられました。
願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ
と詠み、願いどおりに二月十六日に大往生を遂げたその生涯は、後世の人々にも隠遁者の理想像として語り継がれています。
西行が出家した原因については、宮廷の女房を恋慕して弄ばれたためだとか友人が急死して無情を感じたのがきっかけだとか色々いわれていますが、好きであった歌の修行に専念するためではないかという推測もなされています。まあ、いずれにせよ文覚のように性欲目的で殺人したためでないのは確かなようです。
出家後の西行は、仏道修行をしながらも吉野山や伊勢二見浦など歌枕(しばしば和歌に詠まれる名所)を巡って歌道研鑽をしていたと言われています。ところが、これが文覚には気に入らなかったようです。「井蛙抄」には、このような話が伝えられています。文覚は西行を毛嫌いして「遁世者ならば仏道修行に専念すべきであるのに、数寄の道で遊行しているとはけしからん。出会ったら頭を打ち破ってくれよう。」と公言していたそうです。そして神護寺で法会が行なわれた際、西行も結縁のために参列。二人はその場において顔をあわせ、文覚の弟子たちは血を見るのではないかとハラハラしていたそうです。ところが、文覚は西行の顔をじっと凝視していたかと思うと、にわかに「良くお出でなされた」と迎え入れて手厚く饗応して帰しました。「日頃の仰せと違いましたね」と安堵して尋ねる弟子たちに、文覚は「あら言ひがひ無の法師どもや、あれは文覚に打たれんずる者の面様か。文覚をこそ打たんずる者なれ。」と答えたという事です。馬鹿者、あれが文覚にボコられるタマに見えるか、そんな事をすればこちらがボコボコにされるわ、というわけですね。傍若無人で暴れ者のくせして、意外にヘタレな一面を文覚はさらしたようです。
あと、西行は頼朝に対面した際も相手に引けをとらなかったようです。勧進のため奥州へ趣いた際に取り成しを求めて頼朝に面会し、武芸や和歌について問われましたが「弓矢の道については殺生の道なので出家する際に家伝を燃やして全て忘れた。歌は道といえるものを知らない。」と答えています。しかし語り明かし再度話を求められて詳細に語ったという事です。そして十三世紀前半の北条泰時時代にその時の話を覚えていた者がおり、西行の語った内容を鎌倉幕府における故実としたという話も残されています。また、晩年に北面の武士の弓の持ち方に太鼓判を押したという逸話もあり、生涯にわたって西行は武芸においても権威的な存在であったことが分かります。更に全国を歩き回り、時には大峰山で修験道の行もこなしている事から肉体的にも頑健であったろうと想像されます。…なるほど、これは強いわけだ。文覚がボコボコにされるのを恐れたのも理解できます。また、「古今著聞集」によれば左大臣後徳大寺実定が邸宅に縄を張って鳶が止まれなくしたのをみてその狭量さに怒ったとか、徳大寺公衡が出世争いに負けた際に出家しなかったので幻滅したとかいった説話があり、強情で気性の激しい一面も西行が備えていた事が伺えます。文覚が西行を見てひるんだのは、肉体的・暴力的な理由というよりもこうした文覚に引けをとらない激しさに加え、異質さをも感じ取って不意をつかれたためではないかという意見もあるようです。
まあ、いずれにせよ力関係で「西行>文覚」とは言えそうです。西行が頼朝に気圧されなかったことも考慮すると、「西行>文覚>頼朝」となりますね。
このように天下人・頼朝や彼を手玉に取る怪僧・文覚も圧倒した西行ですが、旅先においては意外に不覚をとる場面もあったようです。彼が大峰山で修行を行った事は前述しましたが、その際に先達・宗南坊に厳しく責めさいなまれ「こんな驕慢な先達とも知らず心身を苦しめられるのが悔しい」と泣き言を言ったりしています。また、各地に西行が歌で現地の子供・老女にやりこめられるという内容の話が残されているようで柳田国男が数多く指摘しています。
例えば陸前国松島には、「月にそふ 桂男の かよひ来て すすきはらむは 誰が子なるらん」と詠み得意になっていた西行に対し、童子が「雨もふり 霞もかかり 霧もふる すすきはらむは 誰が児なるらん」と改作したので西行は恥じ入ったという伝承があります。
安芸国宮島でも、西行が老女に道を尋ねたが何の返事もないので腹立ちの余り「うつせみの もぬけの殻に こと問へば 山路をさへに 教へざりけり」と詠んだところ老女が「もぬけのからが」でなければ歌にならないと言い返したとされています。話しかけた相手がもぬけの殻のような人物なので答えが返ってこない、と詠んだのが、もぬけの殻のような人間が話しかけてきたので答えない、という意味に変わってしまいましたね。
伊勢垂水の成就寺に参詣した西行が、道端の木に登る子供を見て「さる稚児と見るより早く木に登る」と上の句を詠んだところ、その子供が「犬のやうなる法師来れば」と下の句を付けたので西行は閉口して逃げ去ったといいます。「さる(とある)」と「猿」をかけて子供をからかった所、反撃されてしまったというわけです。
これらの伝承を考えに入れると、「子供・老女>西行>文覚>頼朝」という事になりそうです。…何だか変ですね。
解決の糸口を探るため、もう少し似たような話を追いかけてみましょう。「西行くどき」という木遣歌には、以下のような歌詞があります。
ヤレ西行が西行が 諸国修行に出るとて
尾張の国に聞えたる 熱田の宮にさすらひて
かほど涼しき宮立を 誰があつ田とつけつらん
そこで明神御返歌に ヤレ西行よ西行よ
御身の名をば西へ行くと書きつるに
東へ行くは是も西行の偽か
つまりは「涼しいのに熱田とはこれいかに」と西行が洒落てみたところ、神から「お前だって西行という名前のくせして東に行っているじゃないか」と突っ込まれたわけですね。
更に伝承では、豊後国由布嶽を訪れた西行が「豊国の 由布の高根は 富士に似て 雲もかすみも わかぬなりけり」と詠んだところ由布嶽が怒ったのか山が鳴動し噴火。そこで西行が慌てて「駿河なる 富士の高根は 由布に似て 雲も霞も わかぬなりけり」と詠み直したので山も怒りをおさめ静まったとされています。
要するに、その土地の神様相手にも同様な話があるわけですね。すると、前述の子供や老女というのは土地の神の代わりというか化身と見るべきなのでしょう。漂泊の詩人が土地の神相手に遣り込められる話は広く存在するようで、十五世紀の連歌師・飯尾宗祇にも似たような逸話があるそうです。旅人は古来より「マレビト」として一種の神として捉えられていましたから、移動する「神」が土地の神と対決し笑われる事で融和し心を慰めるという意味合いがあるのでしょう。こう考えると、例の力関係では「神>西行>文覚>頼朝」となるわけです。うん、これなら納得です。相手が神様だったら、仕方ないですね(これらの逸話では西行自身も「神」と見なされるわけですが)。
こうして見ると、西行はこの時代における人間の中では「最強」といえなくもないのかも知れません。思えば西行は社会の桎梏から離れ、それでいて権力の中枢に居る人々と案外接点があったりする。そうした一般社会との不即不離な生き方が彼を「最強」にせしめた(なんたって人でありながら「神」でもあるわけですから)といえそうです。…いいのかな、こんな結論で(汗)。
【参考文献】
出家隠遁 目崎徳衛著 中公新書
西行 高橋秀夫著 岩波新書
人物叢書西行 目崎徳衛著 吉川弘文館
平家物語(上)(下) 佐藤謙三校注 角川ソフィア文庫
日本史の快楽 上横手雅敬 角川ソフィア文庫
関連記事(2009年5月13日新設)
スイーツ(笑)断罪 1330 ~リアル女はノー・センキュー 僕はフィクションに恋をする~ 徒然草の恋愛論
引きこもりニート列伝その3 鴨長明・兼好法師 補足
米国大統領と愛国歌人―橘曙覧―
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「引きこもりニート列伝その26 西行」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet26.html)
以外には…
「日本民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
以下は、西行と同時代人たちに関連するレジュメです。
「日本前近代軍事史」(当ブログ内に移転しました)
(http://trushnote.exblog.jp/14549736/)
「戦例の考察」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2000/001027a.html)
(一の谷合戦・壇ノ浦合戦への言及があります)
「義経は戦の天才か?」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020510a.html)
「源義経に関連する能・歌舞伎演目」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020510b.html)
「『義経記』における義経像」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020510c.html)
「引きこもりニート列伝その3 鴨長明・兼好法師」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet03.html)
(鴨長明も西行と同時代の隠遁者です)
関連サイト:
「私たちの『西行の研究』」
(http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/x_entrance.htm)
リンクを変更(2010年12月8日)
by trushbasket
| 2008-06-03 01:12
| NF








