ある隠遁生活者の肖像―兼好法師と南朝隠密伝説―
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「まったく、平和に、安穏に、なまけてくらすのは彼の理想であった。かくしてヤンはりっぱな大義名分のもとに惰眠をむさぼり、ぼんやりしていなければのらくらして毎日をすごすことになった。」(「銀河英雄伝説」第六巻飛翔編 徳間ノベルス版 P66)というのが実情で、ヤンは「仕事をせずに金銭をもらうと思えば忸怩たるものがある。しかし、もはや人殺しをせずに金銭がもらえると考えれば、むしろ人間としての正しいありかたを回復しえたと言うべきで、あるいはけっこうめでたいことかもしれぬ。」などと述べていたわけですが、その発言も「ヤンを神聖視する一部の歴史家には、故意に無視される」(共に同 P60)ものでしかありませんでした。
敵方の帝国軍司令官もヤンを警戒して「ヤン・ウェンリーはこのまま老い朽ちるまで無為な年金生活に甘んじるような男ではありえない。」「長期的な計画をねっているにちがいない。それを糊塗するために平凡な日常をよそおっているのだ…。」(同 P67)と考えていましたし、ヤンを崇拝する後世の歴史家にいたっては、「彼らは、『民主政治擁護の英雄』とか『不世出の智将』とかいう幻影にまどわされ、研究者としてよりも崇拝者としてヤンの行動を解釈し、彼の行動すべてが計算されつくしたものであって、退役後の一見平凡な生活も、帝国打倒のための深慮遠謀をめぐらす時間かせぎだと断定するのである。」(同 P78)というありさまでした。まあ、隠遁生活の一方でヤンは片手間にこっそり裏工作をしていましたから、彼等の評価も結果的に正しかったわけですが。
ところで、「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、現実の歴史においても隠遁生活をしていただけの人物―ヤンのような「秘密」を持っていたわけではない―が後世から「隠遁に事寄せて隠密活動をしていた忠臣」と「美化」された事例が存在します。
兼好法師は、下級貴族として後二条天皇(大覚寺統)に仕えましたが天皇の死を契機に出家し隠遁生活に入りました。その中で随筆「徒然草」を書き、北朝朝廷や足利政権が催す歌会に参加したり高師直(足利尊氏の執事)の恋文代筆をしたりなどしていた事は知られています。そうした歌人活動による臨時収入や所領からの年貢によって生計を立てていました。そんな兼好法師ですが、徳川期になると「隠遁は仮の姿であり、実は南朝天皇のため隠密活動をしていた忠義の臣」というイメージが広まりました。
その論拠の一つが「徒然草」第二三八段で南北朝並立以後である建武三年(1336)にも後醍醐天皇(南朝)を「当代」と呼んでいる事や「徒然草」全体に南朝関係貴族が多く取り上げられている事。更に徳川期には北朝貴族洞院公賢の日記「園太暦」の偽物が出回り、その中に兼好関連の記事(無論虚構です)が混じっていて兼好隠密説の論拠にされたりしました。例えば南朝天皇の病平癒を祈るため吉野に参上したり、伊賀に下ったりしたというのです。
そうした論説の一例を挙げると、土肥経平「春湊浪話」は「今按るに、兼好の南朝へ心をよせしことの専らなる故に、師直がかかる邪義の出来しは、足利家の内より乱るべきはしなりと内心に悦びて、師直が頼しを幸と、艶書の詞をつくし書しにぞ。」、つまり師直が人妻に懸想する事をきっかけに足利政権が内紛に陥ることを期待して恋文代筆を引き受けたと述べています。…臨時収入欲しさの行動だと思っていましたが、随分話が大きくなったものです。一方、近松門左衛門の戯曲「兼好法師物見車」でも兼好が師直の暴虐を憤り、同様の理由でわざと艶書代筆を引き受けたと言う筋にしています。この両者は共に講釈師の種本である「太平記秘伝理尽抄」を基にしているのではないかと推測されます。曰く、「毎事師直が行跡に兼好が行ひ相応すべき様なければ、常々不快。此故に如書追出せる者也。兼好も如何して師直が方へ出入をやめなんと常々思ひけれ共、彼が悪意無道を恐れて色にも出さずして居たりけるに、此事有ければ、流れに棹すと喜て、東山に引籠てぞ居たりけり。」と。要は、師直の無道ぶりに嫌気がさしていた兼好は、わざと振られるような恋文を書いてそれを口実に離れたという意味ですね。北村季吟「徒然草文段抄」や西道智「徒然草金槌」でも同様な解釈がなされていますから、決して珍しい考えじゃなかったんでしょう。これでも十分過ぎるほどに美化されていると思いますが、南朝に肩入れして云々と更にエスカレートしていく訳です。まあ、兼好が恋文代筆に失敗した実際の理由はこちらの記事で大体察していただけるかと。
それが最も顕著なのが徳川後期の国学者大国隆正。彼は兼好法師を「いとただしく、ますらをごころはげしき」と評し、その著作「兼好法師伝記考証」では兼好の南朝への忠臣ぶりを描き出しています。
例えば前述の恋文代筆の件では、「そら言なるべき」としながらもあえて解釈すれば「南朝に心をよせし故なるべし」(共に「近世兼好伝集成」P327)と断言。おまけにその解釈に基づいて仮想歴史小説を書くという中々素敵な妄想っぷりを見せています。「顕家卿のかたき、吉野のあだなる師直、師泰を亡ボス手だてやある、そのたよりをうかがはん」と思っていた折に恋文代筆の話があったため「師直に高貞が妻をうばはせ、どちうち(同士討ち)させんには、いづれまけても、よしののみかどの御ためならん」
(共に「近世兼好伝集成」P334)と考えて引き受けたという筋が語られています。此れに関しては上述したものとほぼ同じ内容です。因みに「高貞」とは塩冶高貞の事で、足利政権における有力守護の一人であると共に師直が懸想した人妻の夫でした。「太平記」ではこの後に師直が高貞を追い落とす展開になり、この話が「仮名手本忠臣蔵」に活かされたのは有名です。さて、話を戻しますと、「園太暦」偽書には兼好が伊賀で伊賀守橘成忠の女・小弁と密通した疑いの件も記されており、兼好を高潔な人物と信じたい人々にとって悩みの種だったわけです(故意に無視する人も多くいました)が、隆正の手にかかるとこれも南朝への忠義に結び付けられてしまいます。曰く、「兼好法師かねて南朝に心を遣はし居たるにより、後醍醐天皇、この法師をひそかに用ひ給ふ事ありて、中宮の小弁が親成忠の許へひそかにすまはせおき、小弁に病ありと披露して、父成忠のもとへ度々里居させ、内勅を伝へたるを、人、密通とおもへるにぞありけん。」(「近世兼好伝集成」P309)と。つまり、小弁を病として親元に下がらせ密勅を伝え兼好に広めさせたのが密通と誤解されたというのです。なんでも兼好忠臣説に結び付ける強引さはここまで来るといっそ天晴れです。そしてやっぱりこの解釈を基にして仮想歴史小説を書き、北畠顕家が奥州から京奪回のため挙兵したのは兼好が伝達役として促したからだと結論付けています。もう褒めるしかないほどの妄想ぶりです。
そもそも「園太暦」偽書の史料価値を検討もせずにそのまま受け入れた挙句、都合の良い解釈を加えている辺りは国学者としてもどうかと思わざるを得ないです。宣長にしても篤胤にしても「園太暦」偽書は歯牙にもかけていないようですしね。…ただまあ、実際に自力で史料の真偽を判断するのは難しいものなんでしょうけれど。あと、隆正は「やまとごころ」を「主家のことを大事におもひ、わが身をわすれて奉仕する」事と解釈しており、古典の実例に照らして「実生活における智恵」といった意味と捉えた宣長とはここでも大きな違いを見せています。この人、尊王思想のアジテーターとしてはともかく学者としてはどうやらアレなようです。
この時代、「徒然草」が評価されその著者である兼好法師もそれにつれて立派な人物とみなされるようになっていました。「南朝忠臣説」はその延長上に現れたものと見て間違いないでしょう。これほど立派な人物だったのだから、忠義の道をわきまえていたに違いない、そしてこの時代の忠義といえば南朝への忠誠、とこんな発想展開だったのは想像に難くありません。この時期、「太平記」が講釈師によって語られたり知識人の間で南朝正統説が広がったりと近代に繋がる「史観」が形成されつつある時代でしたからね。
さて、このように徳川期に広まった兼好隠密説は近代に入ってからも根強く生き残っていたようで、昭和前期の南北朝研究において多大な実績を残した碩学・中村直勝でさえも鎌倉末期に兼好が鎌倉に向かった事実を指して「彼の関東下向を、大覚寺統の間諜となって鎌倉の様子を探りに出かけたものではないかと申したら、言ひすぎだらう、穿ちすぎるだらうと叱られるかも知れませぬけれども、後に申しますやうに、彼の交友を見、彼の思想を討検しますると、それが強ち附会ではないと思はれるだらうと存じます。」(「吉野朝史」P414)と述べていたりします。やれやれ。もっとも、中村は上述の伝記や「園太暦」偽書の価値については流石に疑念を呈しており、「私の見ました限りに於きましては、園太暦にそんな記事は一ヶ所もありません。」「不思議に、これらの年月日は流布本にない年月日のみでありまして、なんだか疑はしいやうな気が致します。」(「吉野朝史」P410)とした上で、「ありもしない事を引いたり、ありもしない出典を記したり、時に甚だしいのは原本の文句までも偽作してその博学を衒うた事は、徳川時代中・末期の学者によくある事でありますから、今私が卜部兼好伝以下の典拠を疑うたのも、強ち無謀ではないのであります。」(同 P411)と論じており実証史家としての面目を保っています。更に中村は「園太暦」の貞和二年閏九月六日における「兼好法師来、和歌数寄者也、召簾前、謁之」という記事を引き合いに出し「兼好はこの時始めて公賢に謁したらしく見えます。是によりましても、野々口隆正等が兼好の伝を編むについて、これより以前の園太暦を引いて居る態度が可咲しくなつて来ます。」(同 P422)とまで言い切っています(兼好について「和歌数寄者」という基本的な注釈がわざわざ入っていることから、以前に言及された事がないと類推されます)から隆正などと同じに扱うと怒られるでしょう。まあ、兼好が鎌倉に行ったのは和歌講義のためですが、そのついでに仕えていた後二条天皇の皇子・邦良親王(当時皇太子でした)の早期即位を働きかけた可能性程度は零ではないかもしれませんから、その意味では中村の発言もおかしくはないわけです。
なお、大覚寺統といっても後二条天皇の系統は南朝すなわち後醍醐天皇の系統とは対立関係にあり、南北朝動乱期においても京に残り北朝の下にいた事が分かっています。だから、兼好が南朝方というのはそこからも不自然ではあるわけです。中村も「増鏡の『春のわかれ』の巻などに、後醍醐天皇と皇太子邦良親王との御仲の機微をやや漏らして居りますので、この辺の歴史を研究するものには大覚寺統の方にも後二条・後醍醐の両派が生れるのではないかと心配させます。」(同 P417-418)とした上で兼好を「どうやら後宇多院―後二条院―邦良親王の系統に属する人ではないかと推量する」(同 P418)と述べてこの点を仄めかしています。昭和前期の皇国史観全盛期である事を考えると、かなり踏み込んだ発言だといえます。中村がこの時期における南北朝研究の第一人者と戦後にも評されるのは故なき事ではないわけですね。
さて、昭和の碩学の見識を再確認したところで本論に戻ると、後世の人間がある人物を勝手に理想化して全ての行動を強引に牽強付会し、虚像を膨らませる事は実際にありうるという事ですね。たとえそれが引きこもりだったり隠遁者だったりしても。いつの時代でも、人間は自分の見たいものを見たいようにしか見ないということですね。他山の石として心したいものです。
【参考文献】
兼好法師の虚像 川平敏文 平凡社
近世兼好伝集成 川平敏文編注 平凡社東洋文庫(主にこの二冊の要約です)
新訂 徒然草 吉田兼好著 西尾実・安良岡康作校注 岩波文庫
吉野朝史 中村直勝 星野書店
下剋上の社会 阿部猛 東京堂出版
闇の歴史、後南朝 森茂暁 角川選書
銀河英雄伝説第六巻飛翔編 田中芳樹 徳間ノベルス
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「引きこもりニート列伝その3鴨長明・兼好法師」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet03.html)
「宗良親王」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1997/971003.html)
「楠木正成」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2000/001201.html)
「足利尊氏」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/010511.html)
「後醍醐天皇」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/010706.html)
「菊池氏の南北朝」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021004.html)
「北畠親房」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/030117.html)
「佐々木導誉」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/douyo.html)
「足利義満」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html)
「新田義貞」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html)
「護良親王」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/moriyoshi.html)
「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
関連記事:
「スイーツ(笑)断罪 1330 ~リアル女はノー・センキュー 僕はフィクションに恋をする~ 徒然草の恋愛論」
「引きこもりニート列伝その3 鴨長明・兼好法師 補足」
「貴公子たちの蛮行―因果の歴史が、また一ページ―」
兼好法師については
よろしければ、社会評論社『ダメ人間の日本史』
(「吉田兼好 女など心に浮かぶ虚像で十分 ~700年前の二次元大好きキモオタのリアル女弾劾の声を聞け~」収録)
もご参照ください。
(著作紹介2010年6月27日加筆)
関連サイト:
「銀河英雄伝説 ON THE WEB」(http://www.ginei.jp/)
「銀河英雄伝説を広めるサイト」
(http://hisakawa.net/ginei/)
「銀河英雄伝説の部屋」
(http://www.linkclub.or.jp/~suno/index.html)
共に銀英伝のファンサイトです。
「超現代語訳 徒然草」(http://www.ks-cube.net/tsure/)