「ひとりでできるもん」~自慰を歴史的に少し振り返る~
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古代エジプトにおいては、太陽神ラーが「わが手を合し、わが影にて」抱くすなわち自慰により原初の双生児を生んだと伝えられています。そのため、ラーを祭るヘリオポリスでは自慰は神聖な行為であり祝福の対象であったとか。
…現在の感覚からは理解できませんが、太古の神話において神々が自慰により子をなしたという伝説は他にも存在しているようです。例えば「観仏三昧海経」によれば光音諸天が水浴した際に四大精気(地、水、火、風)が入り精気が水中に漏れ、そこから八千年後に女怪が生じました。彼女は水中で水を打ち自慰することにより阿修羅王を生んだといわれています。また「大唐西域記」は天女が降って川遊びをし、水中で自慰して子を産んだという伝承を伝えています。こうした観点から見ると、日本神話が伝える最初の三代の時代では一人神が子を産んでいたのであり同様の事が言える可能性もあり、実際に井原西鶴「男色大鑑」はそうした考えをにおわせる記述をしているとか。また、川柳にも
せんずりを国常立尊かき
(注:国常立尊は最初に登場する神)
なんてのがありましたが、あながち的外れではないかもですね。
こうした考えからすれば、自慰行為は神が子を産むための神聖な行為であったというわけですね。
さて、当然ながら自慰行為は性欲処理の手段としても早くから着目されていたようです。古代ギリシア神話では、ヘルメスが牧羊神パンに性欲を鎮める方法として自慰を教えたとされています。パンは妖精エコーに恋したもののそれが実る事が無かったのです。こうして自慰を会得したパンは羊飼いたちが禁欲期間を耐えられるようにと伝授したそうです。また歴史的事実としては哲学者ディオゲネスが娼婦相手の性交に満足できなかったからと公衆の面前で自慰をした話が有名です。
一方で医学的に男性の自慰行為が有害であるという意見は早くから見られており、ギリシアにおいてはヒポクラテスが精の放出は生気を失う原因であり健康に悪いと述べています。中国医学でも同様の思想があり房中術においても精を漏らさない事が重要視された事は有名です。
そしてキリスト教が広まると宗教的にも自慰は害悪とみなされるようになりました。十三世紀のトマス・アクィナスは自慰や中断性交は生殖行為から逸脱しており「ソドミー(肛門性交)」や「獣姦」と同様な「淫欲の罪」と唱えました。自慰は子作りに費やすべき精子の無駄遣いであり、独身の生活を通じて自分の霊的な利益のため蓄えておくべきであろうというのです。また彼は女性の自慰についても「たんなる淫乱な行い」と切って捨てています。実際のところ、聖書そのものには自慰を直接非難し禁じた文言はないようですが、オナンが亡き兄の妻を妊娠させる(法的には兄の子となり、兄の家系断絶を防ぐため)ようにという神の命令に接しやむなく交接したものの「子種を地面に落とし」子が出来ないようにしたため罰せられた逸話が引用されたとか。本来は「オナニスム」とは中断性交の意味だったようですが、次第に両者は混同されるようになります。例えば十八世紀の「オナニア」は自慰の罪悪を唱え、また1760年に医学者S.A.ティソが「オナニスム」で自慰が精神疾患やその他多くの病気の原因となると唱えたのが挙げられます。
このように西洋社会では自慰への社会的圧力が強く、十九世紀には様々な自慰防止具が販売されたり防止策が練られたりしました。また、アメリカでジョン・ケロッグが自慰防止のため性欲を抑えるための栄養食品として開発したのが「ケロッグ・コーンフレイク」の起こりといわれています。もっとも、これも自慰の根強さの裏返しなんでしょうけどね。
日本では、房中術の影響もあってか医学的には健康によくないという見方が存在したものの、「一夢接(もうぞう)二手銃(せんずり)三肛門(しり)四陰戸(ぼぼ)」と称され一般的に夢精に劣るものの肛門性交・通常性交より自慰の方が快楽で上回ると公言されました。また「色道禁秘抄」では「手銃毒なれども、男子皆十五歳前後必時々行ふ事あれば奇術あるべし」とあり年頃になると誰でもするものだという認識の下に快楽を増す自慰の秘術が紹介されています。また
五十ほどかくとせんずり終ひなり
(千摺りとは言うものの実際には五十回ほどで射精に至る)
なんて詠まれたように川柳や連句でも自慰はバレ句の主要題材の一つでした。全体的に見て、建前はともかく、日本は割合に自慰には寛大だったようですね。僧侶の場合は流石におおっぴらには出来なかったようですが、自慰を「大悦」、性交を「天悦」(「大」は「一人」に、「天」は「二人」に分解できる)と隠語で表現していましたから実態は推して知るべし。
しかし近代に入ると西洋風の考え方が導入され、日本においても自慰を害悪とする風潮が強まりました。徳冨蘆花は自分の男根が「弱小」であり「摺子木大になれぬ」のは「あまり早くから己が陰茎を弄し過ぎた」ためであると日記で後悔を記し、「俺は早くから淫を覚えて、濫りに精液を漏らした。俺の頭脳の悪いのも一は其為だ。俺の子がないのも、確に其為だ。」とまで悩んでいます。蘆花だけでなく哲学者の出隆も十八歳の時に「また手淫。小さな快楽。だが大きな罪、罪悪感。罪なる罪なる我なる哉。」とこぼしました。新渡戸稲造は自分が近眼である原因を学生時代に「性欲の自己満足を余り行り過ぎた」ためと言って学生に自慰を慎むよう何度も戒めたそうです。このように、「道徳」と「科学」により性欲を過度に抑圧した近代では、多くの青年が悔恨と自己嫌悪を心に刻んでしまったようです。こうした青年の苦悩を少しでも軽くしようと山本宣治らが啓蒙に励んだのは以前の記事で述べた通りです。尤も明治末期においても男性の自慰について詳述した「玩作考」という書物が生まれ、そこでは「千摺を楽しめば、人の女房でも娘でも、たれかれの差別無く、思ひの儘に取りのめすこと、造作もなし」と積極的に自慰が評価されていたりします。この辺り、日本の面目躍如というべきなんでしょうか。
さて上述の自慰への否定的見方が変化し始めたのは二十世紀に入ってからで、フロイトは自慰とヒステリーの関連を否定はしなかったものの子供時代の性意識と自慰が関連しているとして単純な異常行為ではないと唱えました。また1966年になるとウィリアム・H・マスターズとヴァージニア・E・ジョンソンの二人が自慰行為と精神疾患との明らかな関係は証明できないと唱え、医学において自慰への見方が徐々に変化していったようです。現在は、性意識の発達に重要な一段階として捉える傾向であるとか。
次に、女性の自慰行為についても触れておきましょう。元来はこちらも神と交接する事で福を得ようとする宗教的な意味合いがあったようです。例えばギリシアやローマでもパン神やプリアヌス神を模った神像の男根で交接する儀式がありました。またインドでは処女のまま死ぬと極楽に行けないと考えられていたようで、交接前に夫が死んだ場合には張形で交接し、また婚前死した女性を埋葬する前に人を雇い死体と交接する風習があったとか。
で、神聖な意味合いがあったのが個人的快楽を求めるように変化したのも男性と同様で、古代インドやエジプトで持運び用の実物大張形が用いられていたそうです。
「カーマ・スートラ」「匂える園」といった性愛書には張形の記述が見られはするようですが、基本的に男性が嵌めて交接時の快楽を強めるためのものであり、わずかに「エル・クターブ」に親しい女友達や若くして夫を亡くした女性などに例外として同性愛で用いる記述がある程度です。性愛書は子孫繁栄目的が建前であり自慰について記述はしないということでしょうね。しかし「土耳古医薬誌」にはコンスタンチノープルで自慰用の張形が公売された話やバナナや胡瓜が愛用された逸話が記録されているようです。
キリスト教圏でも尼僧が自慰をした記録は多く、十二世紀にはウォルムスの大僧正ブルシャードが張形の使用を非難しています。因みに張形といえば、ゼズイット派が婦人に男根形の護符を渡している件をカプシン派が非難し、これに対しゼズイット派は古来よりの習慣であり改正の必要は無いと主張した事例があります。この論争は教皇の裁定に持ち込まれ、男根形に小さい十字架を刻む事で従来どおり許可するという結論になったとか。さて張形を用いた自慰は勿論一般女性も行っており、十六世紀にはイタリアのフォルティンが「初心者物語」で言及し、またイギリスのマルストンは「諷語」中で登場する女性に「夫より、ガラス管の道具の方がよい」と言わせています。男性の場合にも実際の性交より「右手が恋人」の方が快楽が大きいと主張する例があるようですが、女性も変わらないようですね。
張形もただ男根を模るだけでなく、内部を液体が通るように工夫された物が多く見られたようです。十八世紀の小説「ロール嬢の教育」から引用すると、「内部にはピストン仕掛のある銀管を通じ、其の先端は道具の亀頭に開いて居る。内壁と銀管との間には温湯を満し、銀管中に淡白色の溶液を入れて置き、精液の役をなさしめる」のだそうで。
西洋以外でも状況は似たり寄ったりのようで、中国でも「金瓶梅」などの小説に様々な張形の記載があるそうです。我が国でも川柳で
張形は埋めやと局末期なり
(大奥の御局様が遺言で、長年愛用した張形を人知れず始末せよと指示)
といった具合です。エロ本やハードディスク内部の処分を頼む現代人と変わりませんね。
ま、全体的に女性の場合は「精を漏らす」訳ではないためか男性よりは幾許かタブー視される事が少なかったようです。
一般的に文化は太古に宗教的意味合いが強く、時代が進むにつれ現世中心傾向が強くなり人間の快楽を満たす役割となりますが、自慰行為についても同じ事がいえるのですね。
【参考文献】
性と愛 クリフォード・ビショップ 田中雅志訳 河出書房新社
性愛の民俗学 礫川全次編 批評社
ペニスの文化史 マルク・ボナール、ミシェル・シューマン 藤田真利子訳 作品社
南方熊楠コレクションⅢ浄のセクソロジー 河出文庫
江戸バレ句 戀の色直し 渡辺信一郎 集英社新書
江戸の性風俗 氏家幹人 講談社現代新書
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
「中国民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020607.html)
「インド民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020614a.html)
「イスラム民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020614b.html)
「西洋民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021108.html)
「西洋キリスト教史1」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1997/970516.html)
「西洋キリスト教史2」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1997/971017.html)
「西洋キリスト教史3」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1997/971212.html)
「トマス・アクイナス」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1999/991126.html)
「引きこもりニート列伝その19 タレス・ディオゲネス・ヘラクレイトス」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet19.html)
「引きこもりニート列伝その27 南方熊楠」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet27.html)
関連サイト:
「ちゆ12歳」(http://tiyu.to/)より
「30年前のエロ本」(http://tiyu.to/permalink.cgi?file=news/01_07_03b)
「右手が恋人」な話です。
「日刊アメーバニュース」(http://news.ameba.jp/)より
「自慰行為をしすぎで精子はなくなるか?やらぬは危険」
(http://news.ameba.jp/special/2008/03/11551.html)
「『エア手淫』を10年行う呆れた男性の話を聞いた」
(http://news.ameba.jp/special/2007/09/6708.html)
「大学生のオナニー経験率94.2パーセント!」
(http://news.ameba.jp/internews/2008/01/10095.html)