まずは青年期の恋愛や父との対立について述べた作品「大津順吉」から見ていきましょう。なお、引用する小説の原文は旧字体ですが打ち込む関係で新字体に直してあります。彼の家には「千代といふ色の浅黒い十七八の女中」(「志賀直哉全集第二巻 岩波書店」P269)がおり、直哉(一応主人公は「大津順吉」という事になってますが自伝的小説なのでこう呼んで差し支えないでしょう)は当初別の女性と恋愛関係にあったのですが「いつか段々に千代を愛するやうになつて行つた」(同P285)のだとか。というのも、「不機嫌な時に千代と話をすると、それが直く直る事がよくあつた」(同P285)からでした。その頃の彼の日記を見ると、当初は「自分は彼(NF注:千代)を愛しつつ、彼が美しい女でない事を知つてゐる」だの「一言にいへば結婚はしたくないと云う気が充分にある」(同P285)だのと理屈をこねて踏みとどまろうとしているようなのですが、わずか四日後には「千代は少くも自分一人にとつては美しい女である。これまでの自分の空想は自分の妻として無限に美しい女を描いてゐた。この描かれた美しい女に比較されてはどんな女でも醜婦になる。千代も初めはそれに比較されてゐた。然し今は千代は自分の頭からその女を消してくれた。自分にとつては今は千代は唯一の美しい愛らしい女である」(同P285-286)ともう止まらない誰にも止められない。
こうしてメイドさんloveで燃え(萌え?)上がった直哉は、彼女を妻に迎える決意をして告白し「亡くなつた母の不細工な金の指環を出してきて、それを千代の指に」はめ「首を抱いて接吻」(共に同P292)します。これに吃驚した千代は「かくりと首を前へ垂れて、気を失つたやうにな」(同P293)るという純情ぶりでした。こうして晴れて告白が受け入れられた直哉は、家族に正面から彼女との婚約を宣言。育ての親である祖母(直哉は実母を早く亡くしているため祖母に養育された)は「山本さんのお富さんも元は矢張り女中だつた」(同P296)と言って一旦は理解を示すものの、父の強硬な反対にあってそれに従ったため家族の同意は得られずじまい。直哉は「千代と事実で夫婦とな」(同P291)り既成事実を作る事でこれに抵抗しようとしますが、結局のところ千代は実家に帰され二人は引き裂かれてしまったのです。やはりこの時代、身分違いの結婚というのは厳しいものがあったのですね。加えて既に文学の道を志していたとはいえ、まだ家で養われる身分の直哉はいくら強がってみても家庭内では無力でどうにもならなかったでしょう。
さて、この話にはまだ続きがあり、直哉は「過去」という作品にその顛末を記しています。それによるとその後、直哉は家を出て自活し彼女と暮らすわけでもなく、恋焦がれて死ぬ寸前までになるわけでもない何とも中途半端な状況だったそうで。直哉自身も当時を回想して「自分で生活すると云ふ事には甚く臆病」であり「父に反抗しながら、私は生活では矢張り父をあてにしてゐた」という「我儘育ちの至極意気地のない人間」(いずれも「志賀直哉全集第三巻 岩波書店」P356)と述べていますが、よく分かっていらっしゃる。全くもってヘタレとしか言いようのない状況ですが、自覚しているだけマシでしょう。もっとも、年譜などによれば後に父の元から飛び出しているようです。
こうした宙ぶらりんな直哉でしたが、千代とは切れずに続いていたようで相互に文通をしていました。しかし、「千代の手紙は実にありきたりな形式を追ひ、文章からも文字からも甚く卑俗な感じを受けた」(同P357)ため不満でなりません。そこで彼は「兎に角に此女をもつと教育しなければならぬ」と考え、「千代から手紙を受け取ると、よく其返事で誤字を当字を直してゐた」(共に同P363)訳です。そうして彼女を佐原のある私立家庭女学校に入学させるものの、その頃から直哉は千代への気持ちが冷めてき始め彼女が負担になっていました。前述のように肉体関係を持った責任感からしばらくは交際を続けていたようですが、結局は破局に終わります。
直哉が千代と直接会った際に「丁度日が沈みかけてゐたので、私は秋の日の早く入る事を、『秋の日は釣瓶落し、といふ言葉がある』と云つた。すると千代は直ぐ『男心と秋の空つてね』と云つた。私はがつかりした。」(同P363-364)という出来事があったのですが、彼は後にこれを回想し予言のようなものであったかと感慨にふけったようです。
一度はメイドさん萌えに情熱を捧げた直哉でしたが、なぜこのような結末に終わってしまったのでしょうか。思うに、彼は二次元志向の傾向があったのではないかと。何しろ上述のように心の中で「無限に美しい女」を勝手に空想して「俺の嫁」だと萌えたりしていますし、「自分の部屋の床の間に、実大の顔より少し大きいヴィーナスの石膏の首を懸けて置いた。美術品への愛好心からでも文学的な洒落気からでもなく此石膏の女に一種の愛情を持つてゐて、悶えるやうな堪へられない気分になると時々私は其冷たい唇に接吻をした。私の鼻と触れ合ふヴィーナスの鼻が仕舞に薄黒くなつた。」(「志賀直哉全集第二巻」P244-245)といった振る舞いに及んだりしていましたからね。千代との恋愛騒動を起こす以前にも一応別の女性と恋愛関係にあったりもしたのですが、こういった性癖もあってしっくりいかなかったものと思われます。何しろ、「初めて女の体を識つた」(「志賀直哉全集第二巻」P291)のは千代相手だったそうですし。ま、これに関してはキリスト教の影響で潔癖だったのも関係してはいるようですが。そんな彼を現実の女性に熱中させる事となったメイドさんの魅力は確かに偉大ですね。しかし、恐らくはここに落とし穴があった。実家に帰された千代は最早メイドさんではなく、普通の女性でしかありませんでした。そうなると美人でもなく教養もないといった彼女の欠点が目に付き直哉は失望する事になる。彼が千代を教育しようと試みたのも自分には不足だと考えたからに他ならないですしね。そうなると元来が二次元志向だけあって、普通の女性としての千代と直面した際に「三次元女おっかねえ、スイーツ怖え」なんて事になっちゃったものと思われます。…小説を見る限りでは、千代はこの間普通に直哉を想い続けていたようですけどね。
結局、(少なくともこの時期の)直哉が求めていたのは普通の女性との恋愛ではなく自分に御奉仕してくれて優しく包み込んでくれるメイドさんだったのではないか、もう少し言えば無条件に自分を愛し受け入れてくれる「理想の恋人」だったのではないかと思います。そういえば、漫画「仮面のメイドガイ」においてヒロイン富士原なえかの祖父にして大富士原財閥の総帥である大富士原善重郎は自家のメイド達を束ねるメイドマスター・アラシを後妻に迎えていますが、それを言明した際に「むろん結婚してもアラシたんはメイドさんのままじゃとも!約束する!主婦になったからと言ってメイド服を脱いでもらうような愚かな真似は絶対せぬ!!」(「仮面のメイドガイ」五巻P46)と高らかに宣言しています。ある意味で漢の浪漫とも言うべき煩悩・趣味丸出しで何ともおバカな話ですが、直哉の逸話からも窺えるようなメイドさんの御奉仕が持つ癒しパワーを考えればひょっとすると賢明な判断だったりするんでしょうか?どうなんだろう。
恋愛を始め何にせよ理想主義的な性格が強かったらしい青年時代の直哉。彼がもし現代に生まれていれば聖地秋葉原に誘われてオタクとなり二次元へと旅立っていたのかもしれませんが、時はまだ二十世紀前半。漫画もアニメもエロゲーもない時代でしたから、文学青年となって自らの理想を筆の上に現そうとするようになったのは自然な事だったでしょう。いつの時代も文化を牽引するのはこうした現世に違和感を感じるタイプの人間なんじゃないかなと思います。
【参考文献】
志賀直哉全集第二巻 岩波書店
志賀直哉全集第三巻 岩波書店
新修国語総覧 京都書房
仮面のメイドガイ 赤衣丸歩郎 角川書店
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
近代純文学は敢えて省略していますが。
「エロゲーを中心とする恋愛ゲームの歴史に関するごく簡単なメモ」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/s2004/050311.html)
「偉大なるダメ人間シリーズその1 キルケゴール」(当ブログ内に移転しました)
(http://trushnote.exblog.jp/14529065/)
「引きこもりニート列伝その10 マルクス」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet10.html)
関連サイト:
「富士見書房 仮面のメイドガイ」
(http://www.fujimishobo.co.jp/sp/maidguy2/)
アニメ「仮面のメイドガイ」オフィシャルページ
(http://www.maidguy.com/)
「H.I.通信」(http://www.asahi-net.or.jp/~yt2h-inue/index.html)より
「志賀直哉文学紀行」(http://www.asahi-net.or.jp/~yt2h-inue/tabi-siganaoya.html)
<追記>(9/3)
非常に初歩的なイージーミスがあったので訂正。詳細はコメントに。
リンクを変更(2010年12月8日)