以前の記事で、戦後の財界で活躍した実業家の中に、数寄者すなわち実業家茶人存在はとしても名高い人物が少なからずいた事について述べました。前回ご紹介した他にも、そうしたいたようなので何人か追加で述べていきたいと思います。
戦後に財閥解体がなされた後、旧財閥家は経営から外されつつも家格を守る時代となりました。主要財閥の一つで、数多くの数寄者を輩出した三井家も同様でした。三井には様々な家系がありましたが、そのうち五丁目家の三井高昶(あきら)(1911-1985)や室町家の三井高大(ひろ)(1908-1969)は、ともに永坂町家の三井泰山(高泰 1875-1946)から薫陶を受け戦後においても茶人として高名をはせています。中でも高大は泰山から嘱望されととや茶碗「霞」や伊賀茶入「業平」を譲り受け、祖父華精と同様に「小柴庵」を名乗っています。
・広田不孤斎(松繁) 1897-1973
富山県出身。若くして東京へ奉公に出たのを契機に古美術商の世界に入る。友人の西山南天子と共に陶磁器を扱う古美術店「壺中居」を大正末に開店。中国陶器を中心に観賞用陶器を扱っていた。南天子が病没した後は失意からか昭和十三年(1938)よりいったん隠居するが、戦後には戦禍からの再建に乗り出し昭和二十四年(1949)に「壺中居」を株式会社化させた。昭和三十年(1955)頃より茶の湯に親しむようになり、鎌倉の「北倉会」会員となる。以降、茶道具の収集にも力を注ぐようになる。
・細見古香庵(良) 1901-1979
兵庫県出身。大阪で毛織物の仕事に従事し、24歳で泉州毛織物会社を設立した。30代で古美術に興味を持ち、仏教美術を中心に蒐集。茶の湯も裏千家淡々斎から学びしばしば茶会を催している。所蔵していた品は、細見美術館(京都、岡崎公園周辺)に展示されている。
・田部松露亭(長右衛門) 1906-1979
島根県出身。代々、たたら製鉄を担う家系の出身である。山林王として知られ、衆議院議員や島根県知事を務めている。戦後の農地改革の際には、積極的に対応し小作人たちに生活に必要な山林も分け与える事で多くの支援者を獲得したという。紀州徳川家が所蔵していた雅楽器の海外流出を防いだり、県立美術館を創設し文化財を広く公開するといった文化的業績もある。作陶にも長じ、茶の湯も好んだという。
・河瀬無窮亭(虎三郎) 1888-1971
徳島県出身。21歳で大阪の河瀬家の人となり実業家として成功を収め、昭和十八年(1943)に奈良へ隠居した。刀剣の蒐集家として知られていたが、奈良では邸内に茶室「妙庵」を儲け数寄者として戦後奈良に大きな影響力を示した。
【参考文献】
池田瓢阿著『近代の茶杓 数寄者たちの優美な手すさび』淡交社
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「続茶の湯 数寄者たち」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/1999/991029.html)
「徳川期の茶の湯」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/tokucha.html)