古代日本では官吏を育成するため中央で大学が設けられ、平安初期には各氏族が子弟の大学での勉強の助けになるような図書館と宿舎を兼ねた大学別曹を設立するなど学問が盛んでした。しかし平安中期以降は大学の維持も困難となったせいか、博士・学生といったそれに関わる地位も世襲化・形骸化・名誉職化が進みました。例えば鎌倉初期に頼朝政権における文官の重鎮であった大江広元は鎌倉在住で京都にいなかったにもかかわらず明法博士に任じられています。
他にも官吏教育が形骸化した実例を挙げてみましょう。学問料は元来、学生の勉学における便宜を図るための奨学金のようなもので認定には厳密な学力の査定が行われました。しかし、これも次第に決められた家柄の利権と化したようで『桂林遺芳抄』によれば二、三歳の子供が認められる事例も見られたとか。応永年間(十四世紀末から十五世紀初頭)には菅原益長が二歳で作詩により文章得業生を認められたそうです。…御先祖様で歴史的能吏だった菅原道真ですら青年時代に認可を勝ち取るのに苦労した地位ですよ、これ。いかに試験が名目だけになっていたかという例ですね。
そんな感じで学問修得が形だけになると、貴族達の実際の教養や知的能力の低下も著しくなったようです。鎌倉中期に朝廷の政治実権を握った九条道家の日記『玉蘂』によれば承元四年(1210)冬に参議となり建暦元年(1211)10月13日に従二位となった藤原公清は「此人不知漢字之由風聞」という有様であり、同じく建暦元年10月13日に四十三歳で参議になった藤原隆清も「不知一文字人也。但上皇御外舅、内大臣弟也。」という体たらく。参議といえば朝廷における政策決定の討議をする閣僚級のポスト。それが、文字の読み書きも怪しい教育レベルなのに家門だけで高官になっていると非難されているのです。道家自身は摂関家の嫡流でしたが、彼は承久の乱で敗れた後の朝廷を政治的に再建するため家柄よりも能力を重視した人材登用を行い訴訟処理を中心に政治的実質を取り戻そうと努力した人物ですから、こうした家柄偏重の人事には我慢が出来なかったものでしょう。他に貴族の教養レベルを知る上で藤原定家の日記『明月記』も参照すると、定家は光家・為家という二人の息子について建保元年(1213)5月22日の条で「兄先逆父命、齢及三十、未書仮名文字。弟又同前」と嘆いています。まあ、為家も定家ほどじゃないにしろ歌人として名高いのを考えると、この記述には明らかに誇張が入っているのでしょうが。
字の読み書きや漢籍の知識がない事をもって政治能力がないと即断する事は勿論出来ません。ただ、この時期の朝廷は儀式を主としていましたから先例の知識や恥を欠かない程度の教養は不可欠だったでしょうからやはり余り低レベルなのは問題かと。まあ道家や定家の評価をそのまま信用する事は出来ないにしても、貴族として一般にイメージされるレベルからは程遠いのは事実のようです。無教養な名門貴族ってのも、何だか変な感じですね。
中世中国の門閥貴族も、酷く無能な貴公子が跋扈した時期があったようです。南朝の最盛期を現出した梁の武帝は、貴族教育や能力重視な人材登用に意を注ぎましたが、にもかかわらず彼の下で約半世紀続いた平和は家柄以外の取柄がない貴族を蔓延らせる結果にもなりました。『顔氏家訓』では、当時の貴族たちについてゆったりした衣と幅広の帯をまとい、大きい冠を被り高い履物をはいて外出時には車や輿に乗り、家の中でも自力では歩かず支えられて起居するとあります。彼らは馬を見ると虎を見たかのように恐れる程臆病で、学問もない。それでも車に乗って落ちなければ著作左郎の官職につけ、「体中如何(ごきげんいかが)」と挨拶できれば秘書郎に任官できたとあります。この手の著作は誇張が入っているでしょうから割り引いて考える必要がありますが、特権と安逸に守られると同じ貴族から見ても目に余るレベルのダメ御曹子が出てくるのは日本も中国も同じようです。
徳川後期の大名も、似たようなものでした。只野真葛『むかしばなし』によれば、多くの大名家に出入りする医師がこっそりと「どこの若殿を見ても是が成人したらよいばかだろうと思様な児斗有」(永井義男『江戸の性の不祥事』学研新書 31頁)と大名の子たちを評しています。もっとも、これは家臣団が神輿として担ぎやすいよう意図的にそう育てていた可能性が高いようで、幕末における英国の外交官アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新』において「大名なる者は取るに足らない存在であった。」「教育の仕方が誤っていたために、知能の程度は常に水準をはるかに下回っていた」「日本の諸侯はばかだが、わざわざ馬鹿になるように教育されてきたのだから」(同書 同頁)と感想を述べています。
特権階級が安逸に甘んじると、どうしようもなく無能な人間が一定数出現するのは洋の東西を問わないようですね。もっとも、考えようによっては目を覆いたくなるようなダメ人間でも生き残る事が出来る、という意味では苦労をせずにすむというのはすばらしいのかもしれませんが。
これらの事例は、血統によって選択するから苦労知らずの人間が出きてスポイルされるのだ、という意見もありそうです。では、学力によって選ばれた人々ならどうか。戦前日本の旧制高校生は、まさしくそのような存在とされています。しかし、彼らもまたその教養を無条件で賞賛できるレベルではなかったようです。昭和十二年(1937)に三木清が『学生の知能低下について』という文章で学生の不勉強を嘆いており、学生も入学後に『ソクラテスの弁明』や『若きウェルテルの悩み』を翻訳版で読んで教養を得た気分になったなんて話があったようです。実際のところ、読書レベルも今とそう変わらないのかも。更に昭和十年には九州帝国大学工学部鉱山学科に例年と異なって定員を一人上回る募集者が出たため無試験ではなくなり、ある旧制高校生が「自分は二年落第していて後がないので誰か辞退してもらいたい」と他の受験生たちに涙ながらに訴えたなんてアレな話もあったそうで。なお、辞退者が出たおかげで彼は無事入学できたそうです。今の大学生も大概不勉強だと言われますが、少なくとも旧帝大クラスだと寧ろ今の方がよほど勉強してそうな感じですね。なお、彼らは素行も褒められたものでなかったようで「街頭ストーム」とか称して街中に出て狼藉行為をしたりライバル校同士で乱闘に及んだりがしばしばだったそうです。今の若者がTwitterでバカやって問題になってますが、昔の若者も行動レベルは威張れたものではありません。
結局、血統によろうが学力によろうが教養を期待される層の中にも無教養・不勉強な人間はどうやっても一定数出るという事のようですね。社会が高揚している時ならまだともかく、停滞期や衰亡期は特に。「人間力」とやらで選んでもおそらくは同様じゃないかという気がします。それなら、万人に理論上は機会があり基準も明確な学力のみによる選抜の方がまだよさそうです。あと、現代の学生も勉強している人はしている印象がありますから、平均的には実は今もそう捨てたものではないのかもしれません。問題は教養ある人材の有無よりも、寧ろ教養が求められる場所に教養ある人材を抜擢・配置できているか、という点にある可能性も考えられそうです。
【参考文献】
中世に於ける精神生活 平泉澄著 錦正社
世界歴史大系中国史2 山川出版社
江戸の性の不祥事 永井義男 学研新書
戦前の少年犯罪 管賀江留郎 築地書館
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「大学の歴史を元に、大学のレジャーランド化を評価する」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「菅原道真」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/michizane.html)
「梁朝春秋~南朝の極盛、そして破滅~」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2000/001215.html)
「エリート教育とは」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/elite.html)
関連記事:
「千日ブログ ~雑学とニュース~」(http://1000nichi.blog73.fc2.com/)より
「働かない「働きアリ」 必ず1割の働きアリがサボる習性」(http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-2636.html)
選りすぐろうとどうしたって一定数アレなのが出るのは人間だけではないようで。
本文に登場した九条道家は、承久の乱で敗北した朝廷の再建に尽力した傑物でした。彼の事跡に興味のある方は社会評論社『戦後復興首脳列伝』を御参照くださいますと幸いです。
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