今回もいわば日本漢詩ネタ。永井晋先生の『鎌倉幕府はなぜ滅びたのか』(吉川弘文館)を読んでて、鎌倉炎上の件でこんな一節が出てきました。
鎌倉の漢詩文は、京都から伝わっている王朝漢詩と、禅宗とともに伝わってくる南宋の漢詩の二系統がある。幕府の文官であれば将軍附の京下りの文官から王朝漢詩を学ぶのが一般的だが、塩飽氏の場合は得宗被官兼任なので、得宗家が信仰する禅僧の漢詩文を学んだと推測できる。(永井晋著『鎌倉幕府はなぜ滅びたのか』吉川弘文館 204-205頁)
という訳で、今回は「禅僧の漢詩文」について。ここで取り上げられているのは得宗家(北条氏嫡流)に文官として仕えた塩飽氏が、新田義貞による鎌倉攻めに際して北条氏に殉じて自害した時の話。当主の塩飽聖遠は曲彔(禅僧の椅子)に座って辞世として「頌」を詠んだ上で、我が子に首を刎ねさせたそうです。禅僧として死んだ。と見て良いのでしょうかね。この時に聖遠が詠んだ「頌」とは何か、について今回は見ていきたいと思います。
頌とは、経典の中で詩の形式をとり教えや仏を讃えた文句のこと。サンスクリット語のgathaを音訳した「偈陀」を略した「偈」という呼称も用いられます。漢語訳された時には、四字、もしくは五字などを一句として四句からなる形式にしたものが多いそうです。有名なところでは、「七仏通戒偈」の
諸悪莫作
諸善奉行
自浄其意
是諸仏教
〈超意訳〉
何であれ悪事は行わず
何であれ善事は行えば
自ずから心は清らかとなる
これぞ仏の教えである
や「無常偈」の
諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽
〈超意訳〉
全ては定まらず移り変わるもので、
生まれては滅ぶのが法則というもの
生きるも滅ぶも乗り越えて、
初めて安楽がある
といったところが挙げられます。転じて、禅宗を中心とした仏家で作られる漢詩をも「偈」「頌」と呼ぶようになったそうです。
さて、冒頭で話題にした塩飽聖遠が詠んだ辞世の頌はと申しますと。『太平記』第十巻によれば
提持吹毛
截断虚空
大火聚裡
一道清風
(『校註日本文学大系第17巻 太平記上巻』国民図書 278頁、『日本古典文学大系 太平記 一』岩波書店 346頁)
〈超意訳〉
鋭利な刀を捧げ持ち、
虚空を切り裂いたなら、
燃え盛る大火の中ですら、
一筋の清らかな風が吹く
というものだそうで。なお岩波文庫に掲載された版では第一句・第二句は
五蘊有に非ず
四大本より空なり
(兵藤裕己校注『太平記 二』岩波文庫 142頁)
となっています。写本によって異同があるようですね。
語句解説をしておくと、
・提持
ささげもつ
・吹毛
吹毛の剣。吹きかけた小さな毛をも切る鋭利な剣。
・截断
「切断」と同じ。
・聚
あつめる
・五蘊
心身を構成する色(物質的肉体)、受(感情、感覚)、想(表象、概念)、行(意志)、識(認識の主体)。
・四大
万物を形成する地(物質を保つもの)、水(湿性を保つもの)、火(熱、成熟)、風(動作)。
絶句や律詩とは異なり平仄とか押韻の厳密な規則はなさそうですが、「空、風」が上平声一東で韻を踏んでるようです。
日本の漢詩文の歴史には、我々が教科書で知る絶句や律詩といった「詩」以外にも仏教由来の「偈」「頌」も無視できぬ存在だったことを確認し今回は話を終えようかと思います。
【参考文献】
永井晋著『鎌倉幕府はなぜ滅びたのか』吉川弘文館
『校註日本文学大系第17巻 太平記上巻』国民図書
『日本古典文学大系 太平記 一』岩波書店
兵藤裕己校注『太平記 二』岩波文庫
『大辞泉』小学館
『日本大百科全書』小学館
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『普及版 字通』平凡社
『角川新字源改訂版』角川書店
新田大作『漢詩の作り方』明治書院
菅原武『漢詩詩語辞典』幻冬社ルネッサンス
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四字四句の偈を残した事例の記事を探してみました。
塩飽聖遠の辞世もこうした流れにありそう。
後醍醐陣営にも、偈で辞世を残した人が。
戦国期に偈で辞世を残した武将の話。「四大本空」は、この人も言ってますな。